三章 夢と手を繋ぐ男

23

 闇の中を疾走している。

 小さな物体が、こちらに向かって飛んでくる。雪のような冷たさ。みぞれだ。細かな氷の粒子が闇の中に降り注いでいるのだ。みぞれの残像は、黒のキャンバスに透明な斜線を描いてゆく。

 みぞれが激しさを増す。ありもしない光をかき集めて、氷の壁は光り輝きはじめる。視界が透明な光に包まれて。

 合わせ鏡の中を歩いている。

 同じ背丈の人たちが、先の見えない煤まみれの廊下を一直線に行進している。絹のような毛をまとった蛾が、ひ弱な橙色の光に誘われて壁のガス灯に求愛をしていた。

 いけない。よそ見をしたら、背後からやって来る大人に怒鳴られてしまう。

 大人が来た。銀色の棍棒を手でさすりながら、パン屋で惣菜パンを選ぶかのような目つきで、行進する人々を追い抜かしてゆく。真横に来た。荒い鼻息がこちらにまで吹きかかる。棍棒の銀色が、ガス灯の明かりを反射して、氷のように冷たく光った。

 絶対に嫌だ。お仕置きは。神様。大人の言うとおりに、きちんと足を動かし続けます。弱音は吐きません。ゲップなんて、とんでもありません。だからどうか、お仕置きしないでください。

 筋肉質な大人の腕が、目の前に伸びてきた。

 大人の腕は、前を歩く人の背中をグッと掴むと列の外へ引きずり出す。勢いが強くて、前を歩く人の体が『く』の字に曲がっていた。

「とまれ!」

 銀の棍棒を廊下の床に叩きつけながら大人が叫んだ。時間をスノードームに閉じ込めてしまったかのように行進が止まる。進むことも下がることも許されない。大人の指示は絶対だ。

 銀の棍棒が天高く振り上がった。薄暗い廊下の、さらに薄暗い所で、前を歩いていた人は塩をかけられたナメクジみたくキュウと縮んでいた。

「その手を開けろ」

 前を歩いていた人が、最後の希望を手放すかのような態度で、包み込むように握っていた両手をそうっと開いた。手のひらの上には、白色の毛をまとい、短い尻尾を生やした、小さな生物が一匹。

「それは、なんだ?」

「ネズミの赤ちゃんです」

「拾っていいと言ったか?」

「……いいえ」

「お前に、大人の命令以外のことをする自由は、あるか?」

 前を歩いていた人は、ガクガク顎を震わせるだけで、とうとう質問に答えることができなかった。

「バカめ!」

 大人は、全体重を乗せて棍棒を振り下ろす。閻魔大王が拳を鳴らす音が、狭い廊下中に響き渡った。ああ、銀の棍棒には強力な電気が走っているのだ。

 前を歩いていた人が、ブルブル痙攣しながら、頭と足先がくっついてしまうほど背筋を反り返らせた。バチ。バチ。大人は何度も銀の棍棒を振り下ろす。殴られるたびに前を歩いていた人の手足がチグハグに動き回る。まるで阿波踊りをおどっているかのようだった。

 ネズミの赤ちゃんは、とうに姿を消していた。

「すすめ!」

 息を切らしながら、大人が叫んだ。

 何事もなかったかのように行進が再開される。前を歩いていた人は、血の混じった唾液を口から垂らしながら、廊下の隅に転がっている。

 迷いはなかった。私は列から外れて、前を歩いていた人のもとへ駆け寄る。

「ちょっと待って。すぐに良くしてあげるから」

 引き裂かれた服の隙間から、真っ赤に焼けただれた肌が見える。手の中に隠し持っていた絆創膏を一枚取り出し、火傷した箇所に貼る。前を歩いていた人が、口の中で血をブクブク泡立てながら『アリガトウ』と漏らした。

「てめえ! ふざけんじゃねえ!」

 銀の棍棒が、隕石のような速さで顔面に迫ってきた。目をつぶる暇もなかった。額が弾け飛ぶ。視界に火花が散る。内蔵を引っ張り出されるような激痛が襲う。

「だれが列を出ていいと言った!」

 バチ。バチ。全身を震わせ、四肢を八つ裂きにされんばかりの痛みに耐えていると、不思議な音が聞こえてきた。パチ、パチ、パチ。どこかで祝福の拍手が沸き起こっている。  頭上、ガス灯の貧弱な明かりに白い蛾が集まっている。どうやら彼らが、小さな羽をバタつかせて、拍手の音を立てているらしい。

 お仕置きが、ようやく終わった。肉の焼け焦げる匂いとハエの大群のような黒い煙が、あたりに漂っていた。

「きさまか? きさまが、こいつを呼んだんだな。二人でなにを企んでいる!」

「違います。向こうが勝手にやって来たんです。なにやら大人の悪口を、ヒソヒソと呟いていました」

 前を歩いていた人は、グッタリ横たわりながら急にハキハキと喋った。

「よくやった」

 大人は、前を歩いていた人の肩を持って立ち上がらせてやると、列に加えた。

「お仕置きが足りないようだな」

 銀の棍棒を強く握りしめる。ゴツゴツしたその手から、ポトポト血が滴り落ちている。そうだ。もちろん大人だって、苦しんでいるのだ。

 手の中に隠し持っていた絆創膏を一枚、差し出した。

「手が痛んでしまっています。これで治してください」

「バカめ!」

 銀の棍棒が美しい軌跡を描いて頬に直撃する。手元の絆創膏が「ジュ」と悲し気な音を立て地面に落下した。

「きさまに発言の自由はない。歩みを止める自由もない。列を外れる自由もない。死ぬ自由もない。生きる自由すらもない。わかったか!」

 パチ、パチ、パチ。祝福の拍手が鳴り止まない。ガス灯を飛び回っていた白い蛾は、どこかへ消えていた。銀の棍棒が、冷たい影を廊下に落とす。

 もし、違う性別に産まれていたらば。こんな目に遭わずに済んだのかもしれない……。

 地面の絆創膏が、苦しそうに身をよじりながら、電気の熱に焼けて灰と化している。命のない棍棒だけが、薄暗い廊下の中を元気よく躍動していた。

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