27
とりあえず、空木の迎えが来るまで、公衆電話ボックスの中で待つことにしよう。ここは四方を薄い壁で囲まれていて、妙な安心感があるのだ。
いつの間にかゴキブリは、壁に貼りついた新聞紙の内側に身を潜めていた。まったく。自由な奴である。
ふと井ノ道は、ゴキブリを凝視した。目を奪われたのは、眩しい蛍光灯に照らされたグロテスクな体の裏側のせいではない。新聞紙の文字に自然と視線が吸い寄せられたのだ。
『怪事件! 日本全国の神社仏閣で、仏像様の盗難が多発』。
なんて罰当たりな野郎なんだ。仏像様を盗んで、いったい何をしようっていうんだ?
そのすぐ隣には、『千葉港から出港した一隻の貨物船が、小笠原諸島近海沖にて、忽然と姿を消す』と、これまた不可解な事件の詳細が書かれていた。
「ワッ」
とつぜん視界の隅に、山姥みたいな人物が現れた。ホームレスだ。ホームレスは、井ノ道の視線を追うと、公衆電話ボックスの壁に貼りついた新聞紙をペリッとはがした。
「ああ、この事件か」
「どうして、あなたがここに?」
「お前さんが、ちゃんと公衆電話にたどり着いたか、確かめたかったんだよ」
ゴキブリが新聞紙の裏にしがみついている。必死だ。ホームレスは気づいているのか、気づいていないのか、ただぼうっと新聞紙を眺めていた。
「知ってるか? この船、向こうの港から出てる。深夜、車のヘッドライトが海に伸びたら、出航の合図だ。やけに大きな荷物を載せてるからな。盗んだ仏像でも運んでるんじゃないか」
小笠原諸島付近の海で姿を消した貨物船……。ああ、まさか貨物船は、例の島へ向かったのではないだろうか。
冷静に考えて、あの島内だけで自給自足の暮らしを維持できるはずがない。船か何かで物資を運搬していなければ、おかしいのだ。
待てよ。日本全国の神社仏閣で仏像が盗難される事件。これもあの島と、なにか関連があるのではないか。『支配の秩序を乱すものといったら、奴らの心に脈々と流れる、実に憎たらしい、ニッポンの精神……云々かんぬん』。島の領主である詩文は、たしかそう言っていた。まさか、詩文の意思を引き継いだ何者かが、日本全国の仏像を島に集めて『ニッポンの精神』すらも掌握してしまおうと企んでいるのではないか。
「なぜこの事件について、そんなに詳しいんですか」
「あそこで死んだように生きていると、嫌でも貨物船の行き来が目に入るんだよ。正規の船とそうでない船を見分けることくらい、人生のどん底に落ちるよりも簡単なことだ」
まあ所詮は、下らない妄想に過ぎないか。領主はこの手で仕留めたのだし、仏様を集めて独り占めしてしまおうなんて、あまりに子供じみた発想じゃないか。
「誰もいない森で倒れる木は音を立てない。お前さんのおかげで、俺は生き返ることができたよ。じゃ、あばよ」
ホームレスは、新聞紙を公衆電話ボックスの壁にペタッと貼りなおすと、夜闇へ姿を消した。息を潜めていたゴキブリが、艶のある羽を震わせながら天井の上へ避難する。
蛍光灯の眩しい光が、鞭を打つかのように天井から降り注ぐ。薄い布たった一枚では、孤独の寒さを防ぐことはできないようであった。
体を休めようと、井ノ道は公衆電話ボックスの中で寝ころんだ。体がL字に曲がり、すね毛だらけの汚い両足が見えた。
次の瞬間。まるで、全身の皮膚をひるがえして肉体の表と裏をそっくり逆にしてしまうかのような、強烈な浮遊感に襲われる。
抵抗する暇もなかった。自我が宇宙の彼方へ吹き飛ばされる。意識が色の洪水に飲み込まれてゆく。
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