21

 森の中を全裸で歩くと、尻の穴や脇の下に虫がたかって、非常に不愉快だった。そういえば、こんな種類の拷問がどこかの世界に存在していたような気がする。すでに残酷ないじめは開始されているのかもしれない。

 井ノ道は、足裏に伝わる落ち葉のざらついた感触に意識を集中させ、詩文のいじめを耐えしのいだ。

 灯台の入口が見えてきた。背中の銃口がさらに強く圧迫される。黒皮の鞄の中身がカチカチと嬉しそうに音を立てた。

 詩文は鞄から長い鍵を取り出すと、青銅の扉の鍵穴に差し込んだ。ガチャリと鍵が回ると、ゆっくり扉が開かれる。

「入れ」

 肩を掴まれ強引に灯台の中へ引きずり込まれる。入口に積まれた石が鳥居の形をしているので、立ち止って一礼しようとするが、詩文の老人とは思えぬ怪力によって、それすらも叶わなかった。

 灯台の中には、どんよりカビ臭い空気が流れていた。錆びて劣化した螺旋階段が竹のように伸びている。はるか真上に見える、外界へ開いた口。それだけが唯一の光源で、あとはひたすら薄闇に覆われていた。

 詩文に促されて螺旋階段をのぼる。体重を乗せるたび、紙のように薄い踏板がギシギシと軋む。塩でべとついた埃が足の裏にこびりついて、気味が悪かった。

 一歩、また一歩。恐怖と苦痛へのカウントダウンが進んでゆく。この汚らしい螺旋階段は、あの世とこの世を繋ぐ架け橋……。

「外へ出ろ」

 どうやら頂上に到着したらしい。ぱっくり開いた出口から、眩い陽光が差し込んでいる。全身に潮風が当たって、肌がピリピリと痛んだ。

「聞こえないか。外へ出ろ」

 ふと下を見た。柱に蛇腹をグルグルと巻き付けたような景色が、闇の底へ続いている。

 なるほど。これが今まで二十七年間、俺が歩んできた人生なのだ。寝て、飯を食って、糞して、また寝る。錆びた螺旋階段をのぼり続けて、空飛ぶことを夢見ながら頂上から飛び降りる。背中に翼など生えてこない。垂直に落下したら、はい、おしまい。さて、螺旋階段の一段目から、どれほどの距離を移動できたろうか。

「早く出ろよ」

 詩文は、荒い鼻息を吹きかけながら、井ノ道を外へ放り出した。

 灯台の頂上は、とんでもなく見晴らしの良い場所だった。豪邸の庭、荒れた土地、霧に覆われた工場のような施設まで、島の隅々を観察することができる。

 ああ、もしや。井ノ道の脳裏に、ある恐ろしい仮説が浮かんだ。

 監視の為に、あえて土地を枯らしているのではないか。動物園。この島は一度入ったら二度と出られない、森という檻に囲まれた人間動物園なのではないか。

「今日はもういい」

「あいよ」 

 詩文の声に反応して、灯台の裏側から、ボロ雑巾のような服を着た子供ほどの背丈の成人男性が、短い手足でチョコチョコとやって来た。彼の肩には、背丈の三倍ほどの長さの狙撃銃が下げられている。守護神にしては殺気を放ち過ぎている。おそらく島の内外を監視するスナイパーなのだろう。

 小人風の成人男性は、悲しげな視線を井ノ道に送ると、灯台の闇の中へ消えた。

「これで鉄柵と右手を繋げ」

 鞄から手錠が吐き出された。手錠は元気よくスーと足元に滑り込んでくる。

「どうしてここへ来た? すぐに殺せばよかったろう」

「気分だよ。自ら手を下すのは久しぶりだからね。……ちょっとヒンヤリするよ」

 詩文は注射器に訳の分からない薬品を注入している。自白剤?

「ここが島で最も高い場所だ。よく見えるだろう? 美しい支配の構造が。つい最近まで、この島は、野蛮な人間の住むゴミ溜めのような場所だった。木を切り倒す方法すら知らない猿のような人間が我が物顔で森の中を歩く、目にも当てられない状況だったんだよ。でもね、私の力で、ゴミ溜めを金の採掘場に変えてみせたんだよ。支配の秩序を乱すものといったら……奴らの心に脈々と流れる、実に憎たらしいニッポンの精神、それくらいだろうか」

 鞄から烏の羽のような艶の布を取り出すと、ハサミや注射器、ペンチ等の拷問器具を几帳面に並べてゆく。詩文の片手に握られたエングレーブ銃は、井ノ道のイチモツのように、力なくうなだれていた。

 油断している。詩文は全裸の貧乏私立探偵を、この上なくナメているのだ。チャンスだ。これを逃せば、あとは極上の苦痛を味わいながら死んでいくのみ。

 井ノ道は、手錠の片方を鉄柵にはめ、もう片方を空気にはめた。

 バレていない。詩文は『パガニーニの主題による狂詩曲』の主題を鼻歌で奏でながら、拷問器具の位置を微調整している。

 メトロノームの音を脳内に鳴り響かせ精神統一をする。

 幼少期、サラリーマンがぶちまけたゲロをすすって、粗悪な缶チューハイの味を覚えた。青年期、意味もなく家を追い出された。段ボール箱の捨て猫には毎朝、キャットフードが届けられたが、俺には毎朝、家賃の催促状が届けられた。螺旋階段のような人生に別れを告げよう。生まれたての姿で、俺は、生まれ変わる。

 井ノ道は、足元の鎖を引きちぎる勢いで、詩文へ飛びかかった。

 詩文は超人的な反応速度で振り向くと同時に、井ノ道の眉間に拳銃の狙いを定める。一メートル以上の距離がある。間に合わない。

 トリガーに人差し指がかけられた。充分に狙いを引きつけて……今だ。上半身をウンと捻り、ヒラメのような恰好でバイタルゾーンの位置をズラす。

 バン。銃弾が額を浅く切り裂く。バン。二発目。焼けるような熱を帯びた銃弾が喉元をかすめる。正確に急所を狙った射撃。だが行き過ぎた殺意が、逆に仇となったのだ。

 ぴんと伸ばした腕が銃口に届く。銃口を鷲掴みにして、すぐさまお空に向ける。バン。空振り。詩文は片腕の力だけで、井ノ道の太ももに注射器を突き立てた。……針の先が臭い汗でヌルヌル滑り、なかなか贅肉に突き刺さらない。

 銃を掴んだ腕を支軸にして、渾身のバックスピンキックを放つ。

 足枷の重量が強力な遠心力を生み出し、詩文の体が勢いよく吹っ飛ぶ。詩文の運動エネルギーをまともに受け止めた鉄の柵が痛々しくひしゃげる。注射器がカウパー液のような汁を漏らしながら、灯台の下へ落下した。

 井ノ道の両手には……わざとらしい装飾の施されたエングレーブ銃が握られていた。

「なにか言い残すことは?」

「フフフ」

 極端な猫背で、女郎蜘蛛のように長い腕を気怠そうに持ち上げながら、笑っている。

「どこが可笑しい?」

「祝福を与える。貴様で試してからな」

 ズドン。馬鹿でかい破裂音。釘で打ち付けられたかのように、詩文の上半身が鉄の柵にめり込んだ。胸に薔薇の花が咲く。心臓を撃ち抜いた。即死だろう。

 この世は弱肉強食。弱者に祝福など訪れないのだ。

 弾の切れた銃をどこかへ投げ捨てると、井ノ道は、白と金のジャケットに滲んだ血痕をまじまじと観察した。アゲハ蝶のようにも、ヒトの脳ミソのようにも見える。

 ああ、これは、ロールシャッハ・テストだ。幸か不幸か、血痕は次第に缶チューハイを上から眺めたような図に変形した。

 この島にコンビニは無い。適当な土産話を持って本土へ帰ろう。

 詩文の死体や鞄の中身を漁っても、めぼしいものは見つからなかった。

「ちょっと失礼します」

 井ノ道は死体をまたぐと、こみ上げる吐き気を抑えながら、灯台の闇に飛び込んだ。

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