20

 井ノ道は、創作活動の邪魔をしないよう、そっと背後に立った。

「見ていいと、誰が言った?」

 川のせせらぎのような、清らかな声音だった。

 とつぜん、筆を逆手に持ち替えると、まるで人を刺し殺すかのような勢いでキャンバスを真っ赤に塗りつぶし始めた。吹っ飛んだ絵具が井ノ道の服にベットリ付着して、リンゴみたいな模様をつくる。

 肩をゼエゼエ揺らしながら、ゆっくりとこちらを振り返った。

 乳白色の絹のような肌。トロンと垂れ下がった目元。薄茶色の眉。横に広く伸びた口。化け物じみた、笑顔のマスク。筆舌に尽くしがたい複雑な顔だ。小屋で見た顔写真とは、明らかに別の人間である。

 では、目の前の男は、一体、何者? 

 瑞々しい若さと、円熟した老成さ。鋭い攻撃性と、包み込むような柔和性。顔をしかめたくなるような醜怪さと、彫刻の名品を思わせる美しさ。不思議なことに、それらの相反する性格が、封じ込めたかのように男の顔に縫い付けられているのだ。ああ、見れば見るほど男の正体が掴めない。

 男はキャンバスを裏返すと、何事もなかったかのようにパレットを筆でかき回し始めた。

「結構。下がれ」

 狙撃銃と一緒に頭を下げると、ジャラジャラ足枷を鳴らしながら、美形な彼はどこかへ去っていった。

「知っているだろうが、私がここの領主、ピーター・詩文・ポッターだ」

 やはり目の前の人物が、噂に聞く詩文様なのだ。つまり、小屋で見た顔写真は偽物。しかし……一体なぜ、小屋に住む二人は、別の人物の顔写真を詩文様だと偽り額縁に飾っていたのだろう。

「どうした訳か、さいきん絵を描くようになってね。絵画なんて微塵も興味がないんだが」

 詩文はそう言うと、テレビ番組が仕込んだ噓発見器のように震える手で、キャンバスの裏に細い線を描き始めた。人の顔、だろうか? 理解不能なお絵描きだった。

「上手な絵ですね」

 手をパチパチと叩きながら、そう言ってみる。

 すると、詩文の血相が変わった。瞳孔が黒々とかっ開く。まるで何者かに頭髪を引っ張られているかのように両瞼がつり上がる。

 詩文は息を荒げ椅子から立ち上がると、力任せに画架を破壊し始めた。無残に折れた脚の破片が、弓矢のように真横を通過する。

 画架のバラバラ死体が地面に散乱する頃には、詩文の両手は赤に変化していた。絵具なのか、血液なのか、見分けがつかなかった。

「拍手ならば、既に今日の客から嫌というほどに浴びせられた。これ以上続けても無意味だ」

 なにを言っているんだ? 情緒不安定。詩文はメンヘラさんだったのか?

 ジャケットの木カスを払い落とすと、詩文は、画架の死体の前に座った。目元だけがニヤニヤ笑っていた。

「どうしてこの島へ来た?」

 好きな星座は? そんな他愛もない会話をするかのような口調だった。

「偶然通りかかったところを、つい迷い込んでしまって、気づいたらこんな具合に……」

「お前一匹のせいで、大勢の人に迷惑をかけるかもしれない。言わなくても分るよな? もう一度聞く。どうしてこの島へ来た」

 詩文の冷たい視線が、蛇のように心臓を締め上げ、言い逃れを許さない。しかし……三葉君の名を口にするのは、あまりに危険である。井ノ道は詩文から目をそらして、地蔵のように黙りこくった。

「まあいい。脱げ」

「はい?」

 いつの間にか詩文の手元には、拳銃が握られていた。銃の表面に刻まれたツタのような装飾。エングレーブ銃だ。

 脱げ。そう繰り返しながら、あごをしゃくるかのように銃口をクイと動かす。

 井ノ道は仕方なく、煤で汚れた服を脱ぎ捨て全裸になった。これといった理由はないが、勃起していた。

 詩文は、井ノ道の肉体を舐め回すように眺める。クラシック音楽の変奏に合わせて、鼻歌交じりに筆の穂先を振り回す。

「酒はよく飲むか?」

「心の友だ」

 よく分からないが、そう即答していた。詩文は満足げに頷くと、トカゲの姿勢で椅子の下から何かを取り出した。

「後ろを向け」 

 井ノ道は、暗示にかけられたように後ろを向く。カッチ、カチ。足元で不吉な音が鳴る。足枷だ。井ノ道は、長い鎖の足枷を嵌められたのだ。

「あの……これは?」

「家を燃やされては、困るからね」

 まるで死人に足首を掴まれているかのような感触だった。

「これが終わったら、灯台へ案内してやる。私の尋問は次元が違うよ。あの世から通行手形を手渡されても、奪い取ってその場で破り捨ててしまうからね」

 そう言うと詩文は、真っ赤なキャンバスを拾い上げ、意味不明なお絵描きを再開した。どうやら俺は、拷問パーティーに招待されたらしかった。

 画架の死体に埋もれた小さなスピーカーが、ゼエゼエ息を切らしながら、悪魔の臍の緒を切り落とした。

 裸体の二十七歳一般男性が、校長先生の話を退屈そうに聞く小学生みたく、詩文様の真横で体育座りをしている訳にもいかなかったので、井ノ道は、だだっ広い庭を適当に散歩していた。庭の柵は飛び越えられそうにない。犬のように地面を掘って脱出するか? ダメだ。時間がかかり過ぎる。ああ、小人が現れて、秘密の抜け穴を教えてくれないものか……。

 そんなことを考えながら草原の一本道を歩いていると、ふと動物の造形に混じり、一個だけ異様な雰囲気を放つトピアリーがあることに気づいた。

 ミートボールを優しい力で握ったような楕円体。上部には管のようなものがうねり、スパッと途中で断ち切られている。これは、心臓だ。心臓のトピアリー。

「才能だけを抜き取って、保存する」

 背後から、清々しいほど濁りのない声が聞こえてきた。ふり返る。詩文がグロテスクな手で、こちらに銃を突きつけていた。片手には重そうな黒皮の鞄が握られている。

「人類が何千年という歴史の中で血眼になって探し求めてきた、究極の技術。実業家でも投資家でもない。この私が世界を征服する」

 詩文は心臓のトピアリーを眺めながら、そう呟いた。

「恥ずかしくて堪らないんだ。服を着させてくれ」

「歩け」 

 氷のように冷たい銃口を、根性焼きの要領で井ノ道の背中に押し当てる。金持ちのツヤツヤした人差し指が、足枷を嵌めた裸体の男をいとも簡単に操ってしまう。クソ。井ノ道は、究極の技術とやらに、ほっかほかの糞を添えてやりたくなった。全裸にさせたことを、ひどく後悔させてやる。

 糞をだらしなく垂れ流しながら、詩文の歩行ペースに合わせて、井ノ道は庭を後にした。

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