13

 赤と金の幾何学模様の壁。リノリウムの冷たい床。目の前には、精神病棟のような圧迫感のある廊下が続いていた。

 井ノ道はコツコツと足音を響かせ廊下の奥へ進む。あった。木の扉に『六』と数字が書いてある。扉の前の蛍光灯が、苦しそうにチカチカ点滅していた。

 部屋の中は意外にも簡素なつくりだった。風呂とトイレ、洗面台。ベッドのすぐ傍には、アナログテレビが置かれている。ホテルにしては珍しく、キッチンまで用意されていた。

 安価な仮装を脱ぎ捨てると、井ノ道は、ハイビスカスのアロハシャツと短パン姿でベッドへ飛び込んだ。長らく誰にも使用されていなかったのか、細かい粒子状の埃が、あたり一面に舞い上がった。やはり、不衛生な環境が一番落ち着く。久しく味わう日常感だった。

 右足首のホルスターに隠した3Dプリンター製の拳銃をテレビ台の上に置くと、二枚の写真を取り出し見比べた。雪のように白い風車、羽に貼られた三枚の葉。三葉君の握りしめる、クローバーの絵が描かれた風車。やはり似ているようにも、似ていないようにも見えた。

 まあ、いずれにせよ、早く調査を済ませてさっさとここを出よう。井ノ道は、安酒を浴びて気を引き締め直そうと、備え付けの冷蔵庫へ向かった。缶チューハイのざらついた舌触りを思い出しながら、冷蔵庫を開ける。

 すると突然、ドブネズミのような球体が、冷蔵庫の中からゴロゴロ滝のように飛び出してきた。アイスピックで鼻中を掻き回すような刺激臭。原型を失うほどに腐り切ったリンゴだ。リンゴは、血肉を求める蛆虫のように、ムチムチと井ノ道の足元を取り囲んでしまう。冷蔵庫の底にへばりついたリンゴの破片がドロドロに溶けた内臓のように見えた。

 とたんにムカついて、井ノ道は胃の痙攣を抑えながらトイレへ駆け込む。

 便座の蓋を開けると、そこには、一匹の小さな蛇が体を丸めて安眠していた。突如として光の下に晒された蛇は、舌を鳴らしながら井ノ道の顔を睨みつける。

 我慢できず、勢い良く嘔吐した。蛇は吐しゃ物に流され、渦を巻きながら深い穴底へと消える。

 ダメだ。どうやらこの島は、根っこから腐っているらしい。ふたたび吐き気がこみ上げてきて、井ノ道は、酸っぱ辛い胃酸をダムの放水のように噴射した。

 ベッドに腰かけ窓の外に広がる無骨な景色を眺めているうちに、あることに気がついた。

 フタコブラクダのような山のふもと。豪邸すぐ横の森から、灯台の頭が、竹の子のようにニョキッと生えているのだ。島の反対側には、霧に覆い隠された地帯に、なにやら民家や工場のような施設が建ち並んでいるのが見える。かなりの広範囲に人の手が及んでいるらしかった。

 奥に見える、ぽつんと孤独な建物は、病院みたいな外見をしていることが分かった。建物の前には、土を踏み固めたような道が島の反対側までずっと伸びていた。

 この島には、独自に発達した文化と色濃い歴史が存在している。それが、島の空気を数時間、肌で感じた井ノ道の出した結論だった。

 つまり、この島は間違いなく、何者かによって意図的に社会から抹消されている。一体だれが、なんのために? 

 そもそも……なぜ自分だけ、寂れたホテルへ連れてこられたのだろうか。他の訪問客は、詩文様の家で高級焼肉パーティーをしているというのに。

 部屋の入口から、チーンと間の抜けた音が漏れ聞こえてきた。エレベーターが二階に到着した合図だ。

 ふと、テレビ台の上に置かれたアナログテレビに目が留まった。このテレビ、どこか変じゃないか? 明らかに本物とは違うような質感。井ノ道はテレビに顔を近づける。画面の表面が紫がかった色をしていた。これは、マジックミラーだ。

「……お手入れ完了……お手入れ完了」

 訳の分からない戯言が廊下に響く。カッチャン! 次いで、レバーを引き切ったような音。

 ああ、マズい。先のバーテンダーが、ショットガン片手にこちらへ近づいてきているのだ。なぜ? 決まっている。島に侵入した異物を排除するため。

 井ノ道は拳銃を構えると、玄関の扉を睨んだ。いや待てよ。冷静に考えて、拳銃一丁の人間が、ショットガンを装備した人間と対等に戦えるか。ムリだ。運が良くて相打ち。最悪の場合、穴あきチーズにされるだろう。

 コンマ六秒でバーテンダーの行動を予測する。お客様、ルームサービスでございます。ルームサービスのふりをしてドアを開錠させ、出会い頭、脳天にショットガンの弾をぶち込む。悦びに浸りながら、死体とファックする……。

 三十秒。今から三十秒で、決着がつく。窓から飛び降りるか。だが地上には、障害物がない。射的ゲームの的にされるだけである。

 奴を行動不能にした上で、ここから脱出する。それが唯一残された生存の道だ。考えろ。貧乏な脳ミソで知恵を絞り出すんだ。ああ、次の瞬間、低予算なB級映画のワンシーンが頭をよぎった。ひどく陳腐なやり方だが、これしかない。

「……お掃除しましょ……お掃除しましょ」

 バーテンダーの独り言で扉がびくびく震える。クソ。間に合わせてやる。井ノ道はキッチンへ直行すると、ガスの元栓を銃のグリップで叩き潰す。かなり劣化していたらしく、簡単につまみが吹っ飛び「シュー」と独特な臭気の気体が漏れ出てきた。

「コン、コン」

 バーテンダーはノックをする代わりに、口でそう言った。

 今度は風呂場へ飛び込み、最大出力で浴槽に水を張る。ドン、ドン。爆竹が破裂するような音が、一定の間隔で鼓膜を揺らす。まさか、拳で扉をぶち破ろうとしているのか?   浴槽の水に下半身を浸けながら、首を伸ばして玄関の様子をうかがう。

 稲妻のような衝撃と共に、ついに扉がぶち壊された。木端微塵に粉砕された扉の欠片が、風呂場にまで滑り込んでくる。

「お客様、ルームサービスでございます」

 砂煙を身にまとったバーテンダーが現れた。クソ。ルームサービスでないことは、明白だった。

 白髪を木のカスで茶色に染め上げたバーテンダーが、ゆっくりと部屋を練り歩く。ふと、窓の光に照らされた顔をこちらに向いた。

 ああ、もはやそこには、一階のバーで感じられた老獪さや器用さは微塵も残されていなかった。ヒキガエルのように腫れた頬。外側に寄った黒目。頬に浮いた脂汗。焦点の合っていない瞳。まるで理性を失い爬虫類に成り下がってしまったかのような有様である。

 もしや彼は、キマっているのではないか。なぜ、頼んでもいないのにカクテルを渡してきたのか。あの中には、精神に作用する薬物が混ぜられていたのだ。本来俺に飲ませるはずだったカクテルを、気でも狂ったのか、彼は自ら飲み下してしまった……。

 奴の事情に思いを巡らせている暇はない。井ノ道は、奴の眉間に狙いを定め、肩を絞った。さよなら、遅咲きのボクサー。

 ……鉛玉がビクとも動かない。いくらトリガーを引いても、パチンと呆けた音が鳴るだけ。チクショウ。なにが3Dプリンター銃だ。ゴミ同然の物体を奴へ投げつける。

 バーテンダーが、こちらの存在に気付いた。少しの間、視線がぶつかり合う。

 泣いている。あくびのように口を大きく開けながら、ぽろぽろ涙を流している。

 ショットガンの銃口が、井ノ道の頭部に吸い寄せられた。急いで浴槽の中へ身を沈める。体全体が水に浸かる、ギリギリの水位。

 バーテンダーの真横には、しゅうしゅう屁をこくガスの元栓が息を潜めていた。

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