14
ドカン! ショットガンが火を吹く。蛇のような炎が、光の速さで部屋中を這いずりまわる。
背中が熱い。水の防護を突き破って炎の灼熱が伝わってくるのだ。井ノ道は、浴槽の中でくるっと体を反転させた。
鏡のような水面に映っていたのは、まさに地獄の演武。火の粉が舞い、鱗のような炎が踊り狂う。水がマグマのように熱くなって、思わず井ノ道は浴槽を出た。
風呂場の外は、火の海に包まれていた。ドロドロに溶けた天井から、むき出しになった骨組みがブラブラと垂れ下がっている。今すぐここから脱出しなければ、人間ステーキにされてしまうだろう。
躊躇っている時間はない。こうしている間にも、着々と一酸化炭素が部屋に満ちているのだ。
井ノ道は全身にシャワーの水をまとうと、大きく息を吸い込み走り出した。真夏日のような熱波が井ノ道を襲う。背の高い炎の壁を、全身全霊の体当たりで突破する。窓が見えた。皮肉にも戸締りは完璧だった。
井ノ道は目をつむり、筋肉に最後の力を込めて、窓にぶつかった。ガラスの表面にフラクタルな図形が描かれると、突然、胃をひっくり返すような強烈な浮遊感に襲われる。井ノ道の体は、無慈悲に地面へ引っ張られてゆく。
地球の物理法則からは、なんびとも逃れられない。
冷たい。手足をもがく。なめらかな抵抗感。ここは、水中だ。井ノ道は、スイミングスクールに通う『けのび2メートル』ワッペンの子供のようにバタついた。
まっすぐ伸びる太陽の光線が視界に入った。夢のような糸を掴んで、なんとか浮上する。
そこは、藻まみれの水面だった。どうやら俺は、窓から落下し運よくホテルのプールへ着水したらしい。突き破った窓から黒い煙がマントみたくたなびいていた。
屋上のカラフルなテントが、上昇気流を浴びて涼し気にお喋りしている。無傷なのが、無性に腹立たしかった。
細い二の腕をプールサイドに引っ掛けて、井ノ道は緑色の水から逃れる。
ああ、そういえば。フロントの壁に、酒がたんまり並んでいた気がする。いっぱい頑張って生き残ったのだ。少しくらい自分にご褒美を与えても、よいのではないか。
プールサイドの若者とは思えない陰気なステップを踏みながら、井ノ道は、ホテルのフロントへ舞い戻った。
真上が炎上しているというのに、ホテルのフロントは、何一つ変わった様子がなかった。
ご褒美を享受する前に、一応、周囲を調べてみる。どこを探しても、出てくるものは紙屑ばかり。これ以上の調査はムダだろう。
早々に切り上げると、井ノ道は、舌なめずりしながら壁にずらりと並んだ酒瓶を眺めた。戦闘機の上でファックする男女の看板を平手で張り倒すと、最も高価そうなウイスキーを手に取る。
酒で隠されていた壁の一部が露わになった。劣化してボコボコにへこんだコンクリート。その表面に、文字の一部のような黒い線がうっすらと見える。井ノ道は黒い線をたどりながら慎重に酒瓶をどかした。
後ろに下がり、フロントを俯瞰して観察する。一部だけ酒瓶がすっぽりと抜け落ちて、生え変わり時期の子供の歯並びのように見えた。
『Joint Services Activity Hotel』。壁にはそう書かれている。意味は分からないが、おそらく英語だろう。
ああ、そうか。井ノ道は今更になって、重大な事実に気づく。この島が『日本』である確証はどこにもないのだ。地図と座標を照らし合わせると、たしかにここは、日本の排他的経済水域内なのかもしれない。だが肝心の地図に、こうして明らかな誤りがある以上、パンチで穴を開けたかのように、島の周囲だけ排他的経済水域内がすっぽりと抜け落ちていても、不自然ではないのだ。
まあ、そんなことより、今は目の前のご褒美だ。
適当なグラスにウイスキーを注ぐと、ロビーのソファに腰かける。正面に座るアナログテレビと目が合って、なんだか気まずかった。さあ、グラスに口づけをしよう。
ピッ。尻に硬い感触を覚える。リモコン? どうやらソファの上に置かれたリモコンを知らずに押し潰してしまったらしい。
すると突然、アナログテレビの画面に、おどろおどろしい砂嵐が映し出された。激しく明滅する白黒のノイズ。じっと見ていると、画面の向こう側へ吸い込まれてしまいそうだ。
熟れたリンゴのように真っ赤なボタン。なんとなく押下してみた。ピッ。負け犬のように鳴いて、テレビの画面に別の映像が映し出される。
メラメラと燃える生き地獄のような部屋。荒々しい画質だが……ああ、先の部屋に違いない。マジックミラーの裏にカメラが隠されていたのだ。バーテンダーは常に部屋の様子を観察して、ショットガンをぶっ放す機会を見計らっていたのだろう。
それにしても、よく燃えている。刺すような熱波が、画面越しにこちらにまで伝わってくるかのようだ。井ノ道は顔面を真っ赤に照らされながら、舐め回すように部屋の様子を観察した。
ああ、信じられない。あまりにおぞましい光景に、大切なウイスキーをこぼしてしまう。
画面の下部。なにやら黒いボールのような物体が、ウネウネと不規則に動いているのだ。黒いボールの両脇に、練炭のような黒焦げの細い棒がニョキッと生えている。細い棒は、意思を持つかのように、右へ、左へ、黒いボールを前進させる。
地獄を闊歩する、炭化した死体……。やがて黒いボールは、カメラの手前で静止すると、二本の黒い棒を地面に突き立て、ゆっくりと持ち上がった。
ボウリングボールみたいな三つの穴。大きく開かれた口には、洞窟のような闇が永遠と続いている。彼は、必死に何かを叫んでいるのだ。
井ノ道は下戸のように、ウイスキーをちびちびと口へ運んだ。目の前の極彩色が、サーカスの玉乗りの風景に見えた。
股間にウイスキー色の染みができていた。
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