12

 ホテルのエントランスには、甘美な香りが充満していた。

 ログハウスみたく赤茶けた木の壁。天井には、西部開拓時代の酒場めいたシャンデリアが吊り下げられている。床には一面ペイズリー柄の絨毯が敷かれており、その上には、古腐った木のデスク、それを取り囲むようにして真っ赤なソファが置かれている。ソファの上には、埃をかぶったアナログテレビが居心地の悪そうにチョコンと座っていた。

 ソファの背後、杖のようなライトに一枚の絵画がぼんやり照らされている。粗末なテーブル。大きな骸骨と砂時計。それから腐ったレモン。ああ、『神道展』の非常口で見た巨大な絵画とそっくりじゃないか。

 左側に視線を向ける。フロントの壁に所狭しと並べられた、様々な銘柄の酒。酒瓶がシャンデリアの明かりを屈折させ、星のようにキラキラ輝いている。驚くべきことに、フロントデスクの上には本格的なバーマットまで用意されていた。どうやらここは、フロントであると同時に、バーでもあるらしい。

 井ノ道はおそるおそるフロントへ近づいた。

 すると突然、デスクの下から、紙人形のような人影がニョキっと現れた。背の低い老人。六十代くらいだろうか。フォーマルなベストを着こなし蝶ネクタイをしめ、白髪をオールバックに固めた、溌溂とした精気を放つ老人が、なにか黙々と作業を進めている。

「あの、すみません」

 カリ、カリ。老人の手元は見えない。

「この島に招待された者ですけど」

 カリ、カリ。ネズミが壁をかじるような冷たい音がエントランスに響き渡った。聞こえないフリをしているのか。それとも本当に聞こえていないのだろうか。痺れを切らした井ノ道は、フロントから身を乗り出し老人の手元をのぞいてみた。

 ギラリと光る鋭いモノ。出刃包丁だ。片手には、水晶のような氷。ああ、バーテンダーは、ロック用の氷をダイアモンド型にカットしていたらしい。

 バーテンダーは、出刃包丁を木のまな板に突き刺し、こちらを見た。笑顔。さも嬉しそうに顔の皺を寄せて、ニタニタ笑っている。

「お客さん。マイク・タイソンを踏んづけちゃ、ダメですよ」

「はい?」

 バーテンダーは荒い鼻息で、井ノ道の足元を指さした。見ると、たしかにマイク・タイソンのポスターが、でかでかと地面に貼られている。踏まれたくなければ、別の場所に貼ればいいじゃないか。そう心の中で呟くと、井ノ道は蟹のような動作で横にずれた。

「この島は、初めてか?」

 コクリと頭を傾けて、やけに馴れ馴れしい態度で聞いてきた。

「え、まあ、はい」

 バーテンダーは、こなれた手つきでシェイカーの中にカクテルの材料を注ぎ込む。頼んでもいないのに酒を用意し始めたのだ。

「俺はねえ、ボクサーになるのが夢だったんだよ」

 シャカ、シャカ。素早い動きでこれ見よがしにシェイカーを振る。

 目のやり場に困った井ノ道は、酒瓶の棚に置かれた訳の分からない看板をぼうっと眺めた。ガンギマリな目をした男女の裸体が、今にも撃ち落されそうな戦闘機の上でファックしている。そんな看板だった。

 カクテルグラスに薄緑色の液体を注ぐと、サッと差し出してきた。

「アースクエイク」

「アブサンは嫌いだ」

 バーテンダーは井ノ道の言葉を無視すると、人生を回顧するかのように眼球を上下に揺らしながら語り始める。

「この島へ来て、ようやく苦労が報われた。分かるよな? 夢が現実になったんだよ」

「はあ」

「あんたはどんな夢があって、この島へ来たんだ?」

 いつの間にか呼称が『お客さん』から『あんた』に変わっていた。

「絶倫になりたい」

「ニヒヒヒヒ」

 バーテンダーは過呼吸のように肩を上下させながら、奇妙な声を発した。泣いているのか、笑っているのか、どちらか分からなかった。

 いつの間にか、カクテルグラスが消えていた。蒸発した? いや、違う。バーテンダーがグイっと飲み干している。

 バーテンダーは、客の酒を汚らしいゲップに変換すると、カクテルグラスをことんと置いた。

「ここは、自分一人ですか?」

「目の前の老人が幽霊とでも言うのか」

「他の招待客は?」

「知ってるだろ? 南国気分でここへ遊びに来る奴はいない。今頃、詩文様の家で高級焼肉パーティーだ」

 詩文様の家。あの豪邸のことだ。……ああ、ここで素性を疑われてはマズい。井ノ道は、話題を逸らせようと咄嗟に、

「もちろん知っていますよ。そんなことより、ボクシングについてもっと詳しく知りたいです。シャドー、生で見てみたいなあ」

 と、わざとらしく自尊心を刺激する言葉を投げかけてみた。

「よし、きた」

 バーテンダーは、バネのように数回飛び跳ねると、案の定、フロントの内側でシャドーボクシングを始めた。「シュ、シュ」と目にもとまらぬ速さで繰り出されるパンチ。ああ、とんでもなく素早い。拳が引き起こした風圧で、下品な看板がバタバタ揺れる。パンチの残像によって、バーテンダーの肩からまるで千手観音像のように何本もの腕が生えているように見えた。

「すごいですね」

「老人をなめちゃいかんぞ。若者の頭を叩き潰すことなんて、新鮮なライムをぎゅっと絞るよりも簡単だ」

 パンチが徐々にペースダウンしてゆく。腕の残像が消える。美しく滑らかな動作で、パンチがシェイクに移行する。バーテンダーの指には、しっかりとシェイカーが握られていた。信じられないことに、シャドーボクシングの最中に、カクテルを作っていたのだ。

「酒はいらない。財布を家に置いてきた」

「水だよ。自分で飲むのさ」

 カクテルグラスに水を注ぐと、グイッと飲み干す。超人的な運動は、さすがに体力を削ったらしく、バーテンダーはデスクにぐったりともたれかかりながら、しきりに手をグーパーと開閉していた。

「一泊いくらだ」

「ああ、忘れてた」

 フロントの下を探ると、部屋の鍵を取り出す。

「六番」

「金は?」

「尻拭きにでも使っておけ」

「ありがとう」

 鍵を受け取った。『六』の札が付いた、更衣室のロッカーのような鍵である。

「最後に一つ、聞きたいことが」

 井ノ道は、三葉君と風車の写真を取り出し、バーテンダーに見せた。

「この写真に見覚えはありませんか」

 バーテンダーは酒臭い息が吹きかかるほど顔を近づけ、

「知らないね」

 とだけ吐き捨てた。興味ないね。そう言っているようにも聞こえた。

 井ノ道は、絵画の横に設置された古風なエレベーターに乗り込んだ。真鍮の壁に貼られたホテルの案内図を見る。六号室。二階、ホテルの最も隅の部屋だ。

 カビの匂いをまき散らしながら格子状の扉が閉まる。

 エレベーターがせりあがる寸前、扉の隙間から、フロントのバーテンダーがショットガンの銃身を丁寧に磨いているのが見えた。

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