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井ノ道は、二人とバッタリ鉢合わせしないよう注意しながらコンビニへ向かうと、友を連れて事務所に戻った。
今すぐに休息したいところではあるが、仕方がない。酔いが回っては日和の絵本を読み終えられないだろう。くさい唾を指に塗ってページをめくった。
━━とある平和な村に、母と息子の二人で暮らす貧乏な家庭があった。
ある日とつぜん、息子が謎の病に侵されバッタリ倒れてしまう。村中の病院を回っても、一向に意識が戻る気配はない。それどころか、みるみるうちに息子は衰弱してゆく。母は寝る間も惜しんで息子の看病をした。
母の努力もむなしく、とうとう息子は目を覚まさなかった。母は発狂した。私の事なんてどうだっていい。悪魔に魂を売り渡して、地獄へ落ちても構わない。どうか、息子の病を癒してくれないか。
すると、天に母の声が届いたのだろうか。黒い翼を生やした悪魔が、とつぜん目の前に現れたのだ。悪魔は囁く。息子の命をくれてやろう。その代わり、村の太陽をもらっていく。
取引は成立した。母は太陽の光と引き換えに、息子の命を得たのだ。
次の瞬間、信じられない現象が起こる。ぶ厚い雲が太陽を遮り、あっという間に村が氷漬けにされてしまったのだ。人も草木も昆虫もみな凍りついて、寒さに身を震わすこともできない。
唯一凍らずに済んだのは、息子と、息子が偶然、握りしめていた一輪の花だった。氷像と化した母を前に、息子は泣き叫ぶ。せっかく元気が戻ったというのに、友達と遊ぶことも、母の手料理を食べることもできないのだ。息子は決心する。握りしめた一輪の花を育て上げ、大きな花畑にしよう。そうすれば、凍り付いた村にふたたび命が芽吹き、人々が冷たい眠りから目を覚ますかもしれない。
土の霜柱を取り除き、花を大切に植えると、毎日枯れないように暖め、神に願いながら花が種を落とす日を待った。奇跡が起こる。ついに花が実をつくり、種子を落としたのだ。
息子は丁寧に種を植え、休むことなく花を暖め続けた。誰に努力を気づかれることもなく、十年の歳月が経ち……息子の目の前には、見事な花畑が広がっていた。
フウと一息つくと、花畑の中心に座る。凍り付いた母を横に寝かせる。
次の瞬間、命の宿った温かい風が、十年ぶりに村を吹き抜けた。花の匂いは、凍り付いた人々の心をとかす。花の花粉は、草木に春の訪れを知らせる。花の揺れる音は、昆虫たちに気力を与えた。
命の息吹が、ぶ厚い雲を消し飛ばす。十年ぶりに、村に太陽の光が降り注ぐ。
息子の横には、寝息を立てる母の姿があった。
二人は、いつまでも、いつまでも、花畑の中で語り合ったという━━
絵本を閉じると、井ノ道は、粗悪な缶チューハイをスピリタスの空き瓶に注いだ。
「自家受粉できない花を握っていたら、こいつら全員死んでいた」
ひどく幼稚な内容だった。まあ、親の勘というものは、時に超越的な力を発揮するもので、あまり馬鹿にしてはいけないが。
「五百万、五百万、五百万」
クソみたいな台詞を念仏のように呟きながら、やけに泡立ったスピリタスを元気よく口に運んだ。
井ノ道には理解ができなかった。どうして空木は一年ものあいだ姿を消した息子のことを、想い続けられるのだろう。息子だろうが、親だろうが、友人だろうが、恋する人だろうが、所詮は他人。家族愛なんぞ、クソみたいなメロドラマをくちゃくちゃ練り合わせたガムのような、中身の薄いパフォーマンス、つまりは上辺だけの演技に過ぎないのではないか。
人間嫌悪。命のきらわれ者。ああ、翼を折られた天使は決して弓矢を離さないのだ。
「五百万あれば、このロープが何本、買えるかな」
天井の蛍光灯から垂れ下がった紐の切れ端をエイと引く。蛇のようにとぐろを巻いた白色の紐が、ひゅるひゅると降りてきた。紐の先端には、丁度良い大きさの輪が取り付けられている。つんと触れると、輪がやじろべえのように無邪気に揺れた。
すぐに消えるスピリタスの泡を、獣のように飲み下した。
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