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「島への招待状です」
千円札ほどの大きさの紙。穏やかな顔をした仏像の絵が描かれている。千葉県浦安市で開催される『神道展』という名の美術展のチケットらしい。
「はあ。普通のチケットのように見えますが」
「いえ、誤ってネットオークションに出品されていたところを知人に買い取ってもらったんです。本物に違いありませんよ。特殊な加工が施されているみたいですから」
「特殊な加工?」
「詳しいことは分かりませんが、ある特定の機器を使用すると隠された情報を読み取れるみたいです」
ブラックライトの類だろうか。しかし、問題の本質はそこではなかった。
「このチケット、いくらしたんですか」
「百万円です」
いままで沈黙を保っていた日和が、ついに崩れ落ちてしまった。泣くわけでもなく、叫ぶわけでもなく、貧血のようにフラつきながら地面に手をつく。
「大丈夫ですか」
「少しバランスを崩しただけです。続けてください」
心配する空木の手を払いながら、日和は、ゆっくりと席へ戻った。日和の顔は、青くなるどころか、紅葉のように赤々と燃えていた。
日和の顔色をうかがうと、空木はコホンと一つ咳払いをし、井ノ道を見据えて言った。
「長くなりましたが、招待状で島へ上陸し三葉の消息を調べて欲しいというのが、私たちの依頼です」
なるほど。ひどく簡単な依頼じゃないか。どうせ『神道展』へ行ったところで、言葉巧みに島の存在をひた隠しにされ、同調圧力を利用した悪徳商法の犠牲になるのがオチだ。
まさか教団は本人の代わりに探偵がやって来るなど思ってもいないだろう。俺は適当に『神道展』の大仏様を拝んだ後、残念そうな口調で二人にこう告げればいいのだ。存在しない無人島は、存在しませんでした。
「空木さん。ご自身の目でたしかめに行かなくても、いいんですか?」
「素人の私が行っても、せいぜい無人島を観光をするだけで終わってしまう。それとも、やはり疑っていますか? 私のホラ話、もしくは教団の創作した茶番劇ではないかと」
「え、まあ、少し」
「五百万、払います」
「はい?」
「五百万円をお支払いします。ウソや冗談ではない。それを証明するための金額設定です」
両の目玉と心臓がギョッと外へ飛び出しそうになった。五百万だって? 狂った幸福。甘すぎる蜜に違いなかった。いやしかし……一応確認しておく必要がある。
「そんな大金、本当に大丈夫なんですか」
「かなり貯蓄はあるんです。芸能記者時代に稼いだ金が、まだ……」
「もう限界! これ以上、耐えられない!」
日和が、落ち着いた見た目からは想像できないほどの大声で叫んで、立ち上がった。まるで、ハチドリのくちばしからダイナマイトの爆音が発せられたかのようであった。
「そのお金、一体どこから出すつもりなの?」
「金なら、なんとかなるから。三葉を見つけることが最優先じゃないか」
「三葉のために貯めておいた学費と養育費でしょう? いつ帰って来てもいいように準備して待っていようねって、二人で約束したじゃん」
「十分待ったさ。一年間もね。それで帰ってこないから、こうして一生懸命探しているんじゃないか。餌のない釣り針を垂らしたって魚は釣れないんだよ」
「ネットで不気味な呪具を取り寄せて、一体いくらつぎ込んだと思っているの? じゃあ聞くけど、読経しながら尻で魔法円を描けば、目の前に三葉が現れると本気で信じているわけ?」
「祈禱師の預言のおかげで、やっと手掛かりが見つかったんだぞ。せっかく見出した希望の光を、お前は覆い隠そうとしているのか?」
殺意に満ちた二人の声が、事務所中に響き渡る。五百万の札束と粗悪な缶チューハイのことで頭がいっぱいの井ノ道は、「まま、二人とも落ち着いて」と棒読みのセリフを吐いて、その場をやり過ごした。
日和が、鋭い目つきで空木を睨みながら、ドスンと椅子に腰かける。どうやら、これ以上の言い争いは不毛であると悟ったようだった。
「あの、どうして私に依頼しようと思ったんです?」
井ノ道は、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみる。気を取り直して、空木が答えた。
「祈禱師に従ったんです。厳しい断食を乗り越え、ようやく得た三度目の預言の内容に。『血のつながる人物を頼りにせよ』。偶然ホームページの探偵自己紹介欄を見つけて、心臓が跳ね上がりましたよ。三葉も井ノ道さんも同じ、RhマイナスAB型なんです」
「はあ」
アルミ製の灰皿を鏡のように利用して窓の外を確認する。奴らの姿は見えない。ようやく右足首の筋肉がフッと弛緩した。
奴らの湧く場所には、大抵、金塊が埋まっているものだ。多少の危険は伴うかもしれないが……来月の家賃の支払いに困る貧乏人が、悠長なことは言っていられない。
「わかりました。受けましょう」
ぽっぽう、ぽっぽう。白い兎が、呆けた声で午前十時を知らせた。
身長のバラバラな二人が、すっかり乾いた傘をかさ立てから取り出す。
疲労のあまり、井ノ道は全身から脂汗を噴き出していた。粗悪な缶チューハイで心身を潤さなくてはならない。体中の細胞がそう告げていた。
「お騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした。どうか旦那を、よろしくお願い致します」
「お任せください。全力で三葉君を探し出してみせます」
にこり。日和は、引き攣った笑顔を見せると、そそくさと事務所を後にした。事務所には、アル中の貧乏探偵とカルト宗教に洗脳された父親と、糞まみれの白い兎だけが残された。
「あの、これ、よければ」
すると空木は、とつぜんバッグの中から一冊の本を取り出して見せた。
「妻の本です。絵本作家なんですよ」
「へえ、すごい」
『氷のせかい 作・空木日和』。表紙には女性作家らしい淡い色の絵が散りばめられていた。
「目を閉じると……胸の中には、黒い穴がぽっかりとあいていて、そこにはいつも、あの日のみぞれが降っているんです。みぞれはスローモーション映像のように、ゆっくりと天から落ちて、最後にはガラスのように砕け散る」
空木は深々と頭を下げた。まるで、重罪を悔い改めるかのようにして。
「お願いします。もう一度、三葉と会わせてください」
脳天をぶち抜くように形成された十円ハゲが、やけに目立って見えた。
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