番外編、優樹菜の受難
忙しない通勤ラッシュの時間帯も過ぎ去り、少し落ち着きを見せる駅前。それでもなお人通りは絶えることはない。
会社に戻るサラリーマン。
旅行へ向かう家族。
屯する学生達。
様々な人間が行き交うこの場所で彼女はある一人の人間を待っていた。
「…」
スマホのカメラ機能で何度も前髪の確認をしているのは優樹菜。
夏を感じさせる寒色のワンピースに小さなあ手提げバッグを携え、セットした前髪を必死に整えていた。
出不精な彼女がなぜ外の世界へ出向いているのかというと、彼女に異常なまでの好意を寄せる唯一の後輩である剣人とのデートのためだった。
本人が希望したわけではなかったが、流星をパシリに使った際に代償として勝手に決められてしまったため、あの部屋を出ざるを得なかった。
優樹菜としては外に出る事自体気が引けることなのだが、決まってしまったからには仕方ない。数少ない友人の綾華に見繕ってもらったワンピースに身を包み、彼女は迫るその時を待っていた。
照りつける太陽を睨みながらことの発端を思い返す。
(くそぅりゅーめ…いくらなんでも無理やりすぎるだろう…!デートというのはもう少し段階というものを踏んでやるものだろう!いつから反抗期になってしまったんだ…)
流星によって勝手に交換されてしまった連絡先から何度も彼とのデートの予定を確認する優樹菜。日時は合っているか。待ち合わせ場所は合っているか。なにかしていないと不安な彼女は何度も彼との履歴を見返す。
その最中に一件の通知にスマホが揺れる。画面をタップして開いてみれば、流星からの連絡だった。
『剣人とのデート、楽しんでくださいね』
「なっ…」
特になんの変哲もないメッセージだったが、間違いなく彼がにやけながらこの文字を打ち込んでいる姿が優樹菜には見えた。
(くそぅ他人事みたいに言いやがって…いや他人事だけど…海だからって浮かれてるなりゅーめ…熱中しようだけは気をつけなよ)
『熱中症には気をつけるんだよ』
「…何をしてるんだ私は」
せめても釘を刺すぐらいのことは言ってやろうとした優樹菜だったが、可愛い後輩への母性のほうが勝ってしまったらしい。無意識に打ったメッセージに自分でも困惑していた。
そうこうしているうちに時刻は迫ってきていたようで。
「あ!優樹菜さん、お待たせしました」
「あっ、け、剣人クン…」
いつもどおりの爽やかな笑顔を携えて剣人がやってきた。思わずスマホを落としそうになっている優樹菜の元に駆け寄る
全体的にゆったりとした黒の服装の中でライトグレーのニットが彼の爽やかな雰囲気にシックな印象をプラスしていた。
万人を引き寄せる彼の端正な顔立ちに優樹菜は思わず見とれてしまった。
「すいません、待たせてしまって…もう少し早く来ようと思ってたんですけど…」
「あぁいや、私もちょうど来た所なんだ…だから、大丈夫だよ」
昨日綾華から教わったように笑って語りかける優樹菜。馴れない作り笑いが少し歪だが、彼女なりの精一杯の笑顔だ。それだけで剣人のテンションは上がりまくる。
「それなら良かった。それじゃ、暑いですし早く行きましょう。人多いですし手、握ってもいいですか?」
「えっ、あ、あぁ、…頼めるかな」
優樹菜の手に剣人の手が重なる。さり気なく彼女の手を握った彼はいったい何人の女を落としてきたのだろうか。優樹菜が考えるだけでも100はいるだろう。
「…」
「優樹菜さん、ワンピース、似合ってますね」
「…えっ、あぁありがとう…」
早まる鼓動。繋いだ手から伝わる熱が優樹菜に手を繋いでるという事実を訴えかけてくる。
今まで異性に触れることなど、流星以外に無いに等しい彼女にとっては手を繋ぐだけでも高鳴る鼓動を隠せなかった。それが剣人相手ならなおさらだ。
(ッ〜…ダメだ、心臓が持たない…手汗は大丈夫だろうか…手に制汗剤でも塗っておけばよかったか…?)
あまりの緊張にあらぬ心配をしだす優樹菜。
今まで全くこういう体験をしてこなかった優樹菜には手を繋ぐことすら刺激が強い。
こんなことになるなら少しは勉強しておくべきだったと後悔する優樹菜はズボラな自分を呪った。
「今日は暑いですね。暑かったら気兼ねなく言ってくださいね」
「あぁ、うん…剣人くんも無理しないでね」
(あぁもう正直休みたいぐらいだ…)
「…ぐっ」
「剣人くん?どうかしたの?」
「あぁいや…少し優しさが染みただけです」
胸元を抑える剣人は大好きな優樹菜からの言葉に悶える。今回のデートではできるだけ発作は出さないと決めているのだが、もう限界が迫ってきている。彼も大概だ。
頭の中で無限に増える不安と手汗を気にしながら優樹菜は剣人の隣をついていった。
待ち合わせから数分。優樹菜と剣人は港近くの水族館へやってきた。最近は暑い事もあって涼しい場所がいいだろうという剣人の計らいだ。
周りを見回してみると、夏休みということもあってか子連れの家族や、カップルが多い。優樹菜が最後に水族館に来たのは小学生の頃だったが、まさか数年後自分がそのカップルのうちの一人になるとは思ってもいなかっただろう。
(…魚に気を取られて完全に手を離すタイミングを見失ってしまった。いや、むしろデートではこれが基本なのか?…綾華にでも聞いてくるべきだったな。あ、きれいな魚…)
大きな水槽の中で泳ぐ魚達に目を向ける優樹菜。自分もあんなふうに自由にできたらと思う反面、彼の隣にいるという事実に胸を踊らせてしまっている。
「優樹菜さん見て見て!あの魚綺麗ですよ!」
剣人が指差した方を見ると、その先には熱帯魚の入った小さめの水槽があった。
二人で側によって見てみると、カラフルな魚が自由に泳ぎ回っている。サイズ感も相まってとてもかわいらしい。
「うん、綺麗だね」
「うっ…」
優樹菜のさりげない笑顔に胸を焼かれる剣人。優樹菜は熱帯魚に夢中で気づくことはない。目元の緩んだ横顔に剣人は更に悶える。
「…あ、優樹菜さん。あっちにクラゲの水槽ありますよ。少し見に行きませんか?」
「うん。行ってみようか」
剣人との会話を楽しみながら館内を巡る優樹菜。ぎこちなかった彼女の表情も次第に緩んでいく。
最初こそ不安が勝っていたものの、優樹菜は純粋に水族館を楽しんでいた。多種多様な種類の魚類達に綺麗なアクアリウムの数々。愉快なイルカショー。しばらく来てないこともあり新鮮なものの数々に飽きることは無い。
何より、隣にいる彼のおかげだろう。一人でこんな所に来てもただ疲れるだけ。他なりで笑う彼の存在が何よりも楽しさを引き立てる。
無自覚にも彼という存在に優樹菜は安心感と好意を感じていた。
一通り水族館を巡り終えた優樹菜と剣人は近所のカフェにて昼食がてら休憩をとっていた。
優樹菜の足元の袋には記念に買ったクラゲのぬいぐるみ。二人で揃って買ったものだ。ぎこちなかった優樹菜も剣人との距離感が縮まっているのが分かる。
(なんだかんだ楽しかったな…剣人くんだって私の事悪うく思ってるわけじゃないし、余計な心配だったかな)
ブラックコーヒーを啜り、デートを振り返る優樹菜。不安こそ最後まで拭えなかったものの、剣人に対する思いは少しプラスな方に向いたように思える。
最初こそいきなりの告白で戸惑ったが、それを除けば勢い以外にとりわけおかしな所はなく、むしろ優良物件と言えるだろう。
目の前にいるこの男に対して非は無い。優樹菜が不安に思うのは自分の事だった。
「今日は楽しかったですか優樹菜さん?」
「うん。すごく楽しかったよ。…一人だけだったらこんなには楽しめなかったな」
「ふふ、なら良かった。僕も優樹菜さんと一緒で楽しかったですよ」
得意の笑顔で笑いかける剣人。彼の一言一句はいちいち優樹菜の乙女心を刺激する。優樹菜も終始耐え難い動悸に絶えるので精一杯だ。
その反面、優樹菜は思う。この男は何人の女に好意を向けられているのだろうか。なぜ、自分にこんなに好意を向けているのか。彼女には理解したくてもできないことだった。
「…」
「…どうかしましたか優樹菜さん?」
不意に声をかけられた優樹菜は一瞬面食らってしまった。無意識のうちに顔に出てしまっていたのか、剣人は優樹菜の事を気にかけている様子だった。
「えっ、あぁいや、なんでも…ないよ。…ただ、少し聞いてもいいかな」
「なんですか?」
「…剣人くんは私と一緒にいて楽しいのかい?」
目線を落とした優樹菜の口からこぼれ落ちたのは、至極普通な疑問だった。
こんな取り柄のない、普通どころかマイナスな自分にどうして。揺れるコーヒーの水面に馴れないお洒落なんてした自分の様が映る。
「…私は君が思っているほど素敵な人間じゃない。普段っはズボラだし、みんなみたいに可愛いものに関心があるわけじゃない。お洒落だって、馴れてないし…剣人くんについてきたのだって、一目惚れみたいなものだ。言ってしまえば、ちょろい女なんだよ…」
普段明るみにいる彼と暗がりで一人の自分。みんなと違って何もできない自分。
彼との対比が優樹菜の中からどうしても離れなくて、彼女はどうしてもやるせなかった。
顔を下げた彼女に剣人が語りかける。
「…僕も一目惚れだったんですよ」
「…え?」
「僕も一目惚れだったんです。始めて見た優樹菜さんの姿が美しくて、胸の底から掴まれてしまって、それで惚れたんです」
剣人からの意外な告白に優樹菜は何が起こったのか分からないと言った様子。
固まった優樹菜を前に剣人は続ける。
「優樹菜さんのいろんなことは流星から聞きました。でも、それがどうでも良くなるぐらいに僕は優樹菜さんに陶酔してしまっていたんです。一目見ただけで、ですよ?ちょろい男だと思いません?」
ふっ、と笑いかける剣人。彼のその表情はいつもの作り笑いなどではなく、心から自然と出た本心のものであることに優樹菜は気づいた。
「何も気にすることはないですよ。だって、僕もあなたに一目惚れしてしまっているのだから」
「剣人くん…」
「だから優樹菜さん。俺と、付き合ってくれませんか?」
優樹菜の手に添えられる剣人の両手。包まれた暖かな感覚に優樹菜は安心感を覚える。
目の前の彼は自分のすべてを知った上で向き合ってくれている。この人なら、自分の事を受け入れてくれるのかもしれない。一生現れないと思っていた相手なのかもしれない。優樹菜の心の中に存在していた僅かな希望が大きくなっていく。
火照った頬を朱に染めて、彼女は答えた。
「…私でよければ、喜んで」
添えられた手に、目一杯の有機を振り絞った優樹菜の一言はたしかに剣人に届いた。二人の間をじれったい空気が漂う。
唯一の問題といえば、ここが昼時で混み合う駅前のカフェだったということだろう。
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