いつの日か見た空の色
「なぁなぁ、仄花はりゅーちんとのことどう思ってるの〜?」
雲ひとつない快晴の元、日が照りつける砂浜でさざなみの音を聞きながら砂の城を作っていたこの少女、不知火仄花は顔を上げた。その低い身長も相まって中身よりも幼く見えるのは人によってはなにかのトラップのように思える。
彼女が見上げた先にはクラスメイトであり、生徒会のメンバーである四宮真帆の姿。水浴びをしてきたのであろう彼女の肌は日光に照らされて輝いている。
「どうされたのですか急に」
「いや〜今の所私のライバルは響華だけだけど、仄花もそうだったらどうしようかな〜って思って」
にこにこと太陽にも劣らない輝きを放つ笑顔でそう質問してくる真帆。愛しい人の話になると彼女のその笑みはまして嬉しそうに見える。
最近は流星と寄りを戻したらしく、当然ながら仄花もそのことを耳にしていた。なんせ、背中を押したのは他でもない彼女なのだから。
仄花は抑揚のない声で淡々と答える。
「流星様のことは、好きですが…LOVEではなくLIKEの方です。それに、好きな人というよりかは…恩人と言ったほうが正しいですからね」
「恩人?…ほぉ〜ん?仄花もりゅーちんに助けられた一人というわけか…」
顎に手を当ててまるで名推理でも思いついて自分を褒め称えているような探偵のような表情で仄花を見つめる真帆。仄花はそれを疑問符を浮かべたような表情で見つめる。
「その話、聞かせてもらおうかな〜?」
「私の話、ですか?…つまらないもので良ければ」
空を見上げた彼女の瞳は、いつしかの日に訪れた彼との出会いに酔いしれた。
不知火仄花は人の心が分からなかった。
整えられた身なり。主人をサポートするには完璧すぎる立ち回り。まるでロボットのように規則的にできた喋り方。ピクリとも動かないその顔のパーツの一つ一つは見惚れるほどに完成されている。
運動神経抜群、成績トップの才色兼備な彼女は人の心が分からなかった。
物心ついたときには彼女の中から『感情』という概念は薄くなっていた。
親にひどい育てられ方をしたとか、絶望の淵に叩き込まれるほどのショッキングなことがあったわけでもない。
彼女の母親である不知火恋歌は感情が薄い。母方の人間は皆そうだった。つまるところ、遺伝である。
仄花は自分の感情が薄いことに対してそれほど問題だとは感じていなかった。ないと生活ができなくなるわけでもなければ、自分の存在が消えるわけでもない。むしろ喧騒の原因となるのなら不必要、とまで捉えていた。
だが、問題点は確かに存在していた。
彼女は絶望的に人の感情を読むことができなかったのである。
楽しい。悲しい。幸せ。切ない。そういった感情を感じることのない彼女は他人の感情を読むことが絶望的に下手くそだったのだ。叱られている相手に、なぜ怒っているのか?と聞いてしまうぐらいには。
他人の気持ちを知らずに行動して衝突することもしばしばあった。喧騒の原因になると思っていたものは彼女には必要不可欠なものだった。
ここで勘違いしないでほしいのは、彼女は決してポンコツではないということである。彼女はいつだって完璧なメイドとして立ち回っているし、成績だって上位に食い込む程には良い。ただただ人の気持ちを読むことが下手なだけなのだ。
度々凌にすらも苦言を呈されていた仄花は悩んでいた。自分の感情を取り戻すにはどうすればいいのか、と。そんな漠然とした考えはいつになっても答えにたどり着くことはなかった。
彼女の心と同じくどこまでも果てしなく広がる空を見上げる仄花。考え込んで疲れた脳を止めてぼーっと空を見上げる彼女の耳に聞き覚えのある声が入ってくる。
「あ、仄花」
「流星様…」
視線を落とした先にいたのは生徒会長である彼だった。彼とは生徒会以外に接点がなく、主人のご友人という認識でしかない。
流星はどこか上の空の様子の仄花に歩み寄ってくる。
「どうしたの?空なんか見上げちゃって」
「いえ。少し悩み事を」
「悩み事?…仄花に悩み事とかあるんだ」
少し驚いたのか目を見開く流星。普段の完全無欠のメイド姿を見ているとそう思うのも仕方ないのかもしれない。
「よかったら少し聞かせて貰えない?何か力になれるかも」
仄花の顔を覗き込んでくる流星。彼女の瞳が流星の赤みがかった瞳と重なり合う。彼はこの学園の立て直しに奮闘し、現に少しずつ再建している学園の英雄だ。普段なら得意の仮面でやり過ごす所だが、話してみても悪くないのかもしれないと仄花は感じた。
「…私は感情に乏しいのです。それゆえに人の心も分かりません。…凌様にも苦言を呈されてしまったのでどうにかしようと思うのですが…解決策が浮かばなくて」
「人の心が分からないと来たか…どこぞの王様みたいなこと言うね。う〜ん」
想定外の悩み事に流星は頭を悩ませた。仄花にとって感情が出ないということは当たり前で自然なものだが、流星にとっては異常で不自然なのだ。
「…私は、つまらない人間なのでしょうか」
「え?」
仄花の口からこぼれ落ちたその一言に流星は彼女の顔を見る。当然、その表情に変化はない。
「以前、先輩方に言われた事がありまして…『無表情で面白みのないやつだ』と」
「…随分と酷い事言うやつもいたもんだな」
ため息混じりにそう呟いたその一言にはひどく溜まりきった疲れと自分を罵る失念が詰まっていた。学園を変えるため日々様々な問題に直面している彼の苦労は尽きない。
流星は切り替えた様子で仄花に語りかける。
「…そういう人は仄花の事を何もわかってないだけだ。今は感情に乏しくても、少しずつ鍛えればきっと分かるはずだよ」
「鍛える…どのようにすれば?」
「まずは感情を知る所からやってみるといいかも。例えば、仄花は満足感とか、充実感を感じるときっていつ?」
「満足感…充実感…私はメイドですので、凌様の側でメイドとして努めているときでしょうか」
「…それなの?まぁいいいや。それが『楽しい』ってこと。条件は人それぞれだけど、感じるものは一緒。こうやって一つ一つ覚えていけば、自然と表に出るんじゃないかな?」
流星のアドバイスになるほどと相づちを打つ仄花。よどみのないその瞳が流星に向けられる。
「…差し支え無ければもう一つ、お聞きしたいことが」
「何かな?」
「笑う、というのはどうやるのですか?」
その純粋な一言に流星は驚きのあまり言葉に詰まった。そんな事を知らないやつが現実世界にいるのか、と。二次元ならまだしも、そんな当然の事を知らないやつがいてたまるのかと。
「…おかしいですか?」
驚愕した流星を見て感じ取ったのか、仄花が無表情のままに問いかけてくる。表情は変わらずともこころなしか不安そうな様子が見て取れた。
「いや、そんな事ないさ。笑顔の作り方を知らない人間ぐらい、この世に一人や二人いてもおかしくはないし、ただ少し意外だっただけで…」
「つまり、変だと」
「…」
早口で弁解を試みた流星だったが、かえって裏目に出たようで仄花の言葉に喉を詰まらせた。
「…別に流星様を攻めているわけではないのです。ただ、事実確認として言っただけです」
「…うん。なんかごめん」
自らを戒めるかのように肩を落とす流星。彼が口下手なのは昔から変わっていないらしい。
仄花は彼を見て思う。これが『悲しい』という感情なのかと。実際の所は少しずれているが、親しいものであることに間違いはない。こんな時こそ愛想笑いができればと仄花は思う。
仄花は咳払いを一つすると、肩を落とした流星に問いかける。
「それで、流星様。笑うというのはどのようにすれば良いのですか?」
「あぁ。笑うってのはね。…説明がむずいな。なんかこう、こうやって」
流星は口元に人指をあてがい、くいっと上に上げる。お決まりの笑顔のやり方である。いまいちうまい説明が出てこない流星はアニメで見たこれでしか説明できなかった。
仄花は彼の様子を見て真似る。
「…こうですか?」
「えーっと…」
流星は言葉に詰まった。仄花の笑ったそれは笑顔などという和やかものではなかったのである。
ただ表情筋を釣り上げただけのいびつな表情。笑っているというよりは引きつっていると言ったほうが正しいだろう。その表情自体が彼女という不器用な存在を体現していた。
「…どうでしょう?」
「…まぁ、練習あるのみだね。最初からなんでもできるメイドなんていないさ。そうでしょ?」
「はい。精進致します」
流星の問いかけに仄花はそう返した。少し淡白だと感じるかもしれないが、これが彼女なりに誠意を見せた言い方である。流星もそれをしっかりと理解していた。
これをきっかけに彼女は感情を学んでいった。流星から学ぶことが大半だったが、ときに他人から学ぶことも。彼女の成長のきっかけになったのは間違いなく彼であることに間違いはない。
彼女が完璧なメイドに至る上で彼は欠かせない存在である事はあとから見ても間違いないだろう。
「…と言うわけです。私の人間性は流星様に育ててもらったと言っても過言ではないでしょう」
「へぇ〜…仄花から妙なりゅーちん味を感じると思ったらそういうことか」
によによとした表情で仄花の顔をまじまじと見つめる真帆。彼女の中に確かに存在していた既視感の招待はどうやら本人の影響だったらしい。
「流星様には色々な事をご享受させていただきました。メイドのなんたるか、理想の戦闘スタイル、ナイフの扱いまで…」
「…それは何を教わってんの」
「おーい、仄花!アイスだってよアイス!」
「噂をしてればなんとやら、ですね。行きましょう」
真帆を連れて流星の元へと向かう仄花。
彼女の自然な笑みは彼の目に留まることはなく、夏の空に消えた。
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