疲れた時は

「流星くん、貴方疲れてるわね」



「…なんですか急に」



 休日の昼下がり。流星のアニメ干渉タイムは唐突に部屋に入ってきた響華の一言で中段を余儀なくされた。彼女が当たり前に合鍵を持っていることは言うまでもない。

 響華はつかつかと入ってくると、流星の横に座る。相手が響華とは言え、私服のアニメタイムを邪魔されるのは少し不服だが、彼女の真剣な表情を見てこれはなにかある流れだと察して再生していたアニメを停止した。

 響華は流星に何を言わせるわけでもなく話始める。



「もう一度言うわ。貴方疲れているでしょう」



「…はぁ」



「言葉は不要よ。流星くんが疲れていることは見ただけでも分かるわ」



 確かに疲れていないと言えば嘘だった。

 ここ最近は球技大会の練習に明け暮れ、その合間に迫るテストの勉強。更には真帆の一件もあり、流星は心身共に疲弊していた。愛する夫のことになると何かと鋭い響華はそれを察したのだろう。その瞳はさながら千里眼といえよう。

 いまいちピンと来ていない流星に響華は続ける。



「夫の疲れを癒やすのは妻として当然の務め。さぁ流星くん、私の胸に飛び込んできて」



「いやちょっと待ってください。…なんでハグ?」



「当然でしょう。疲れたらハグ。ハグは互いの身を寄せ合うことで互いの愛を確かめ合うと共にその愛を深めることができるの。私の積もりに積もった深い愛で流星くんを包み込んであげる」



 合っているような合っていないような。若干の疑問を抱く流星だったが、目の前で手を広げる響華の視線に圧倒される。

 確かにハグすると疲れが取れるという話は前に理央から聞いた覚えがある。リラックス効果があるのだとかなんだとか。だが、流星はどうも気乗りしなかった。

 ハグすることへの抵抗感。普段結婚していないと否定しているのに今ここでしてしまっては敗北を認めてしまうような気がして流星は唸った。いわゆる、オタクの謎のプライドである。

 欲と理性の葛藤に苛まれている流星を見て響華は不思議そうな声をあげる。



「…何をそんなに迷っているの?ハグしたら死ぬ病気にでもかかってるの?」



「いや、そういうわけじゃないんですけど…」



「じゃあなんなのよ。…私じゃ不服?」



 響華は若干頬を膨らませてムスッとした表情をとる。その小悪魔的表情は流星の心をいとも簡単に射止めた。どこでこんなものを覚えてきたのか。そんな疑問が浮かぶ流星の頭には先週見せたアニメの『小悪魔ちゃんのリベンジ』がうっすらと浮かんでくる。



(…一週間前の俺よ。後先を考えずに恋愛系アニメを見せるのはやめろ。自分の首を締めることになるぞ)



「ん、はやく」



 ムスッとした表情の響華は流星にハグを強要してくる。流星は先程までの葛藤を脳の隅に殴り捨てて、彼女の胸へと飛び込んだ。

 ゼロ距離で触れ合う身体と身体。自分より少し高い彼女の体温が肌を伝って流星を温める。ふわっと香る彼女のフルーティーな香り。互いに呼応し合う心臓の拍動。えもいえない安心感が流星の心を包んだ。



(温かい…)



 今まで苛まれていた悩みが全てどうでもよくなって行くような高揚感。それと共に心を包んでいく安らぎ。想像異常の効果に流星の心は完全に溶け切っていた。

 


「流星くん、そのまま。今はじっくり疲れを癒やすの」



 響華の言葉を横耳に流星は身を預ける。まるでドロドロと解けていくような感覚に流星の意識は次第に遠のいていく。



(…やべ…眠く…なって…)



 うつらうつらとしてきた流星を見て、響華は彼の頭を撫でる。ゆっくりと、子供をあやすように優しく。そして包み込むように。流星の意識はドロドロに溶かされていく。



「…ぅ…んぅ…」



「ゆっくりそのまま、目を閉じて…」



 沈んでいく意識の中で、流星は響華の胸に身を任せて瞼を落とした。数秒と経たずにすぅすぅと寝息が聞こえてくる。自分が思っていたよりも彼の疲れは深刻なものだったようだ。

 響華は流星が寝たのを確認すると、ゆっくりとベッドに下ろした。



「よし…これで少しは安らいでくれたかしら…」



 響華は心配だった。他人のことは気にする癖に自分のことは顧みない彼は壊れた自分に気づかないことが多い。その結果がこれだ。自分に溜まった疲れに気づかず、壊れるまで動き続ける。彼が疲れを溜めやすいタイプだと知ったのはつい最近の事。真帆からの伝言だった。

 真帆との関係がこじれていることは響華も理解している。彼女とのいざこざを解決して欲しい響華は流星を全力でサポートすることにしている。なぜなら、真帆は響華にとってたった一人の心から話し合える仲間だからだ。

 悔しいことに自分よりも流星のことを理解している彼女は流星に相応しい相手と言えるだろう。だが、彼女は選ばれなかった。神のいたずらか、はたまた運命か。愛しき人を失った彼女の気持ちは痛いほど理解できるのだ。だからこそ、解決して欲しい。彼女との対立は避けられないものだと分かっている。それでも、僅かでも彼女に幸があれば。あの絶望から救うことができれば。

 響華にとって真帆は既に特別な存在へと変わっていたのだ。



(…私が悩んでも何も変わらない。今は流星くんを信じるのよ私…)



 響華は自らに喝を入れ、気持ちを取り直す。流星を信じる。今はそれが最善策だ。愛しの夫が失敗するはずがない。響華はそう心に言い聞かせた。



(…さて)



 気持ちを切り替えた響華は流星の横に寝そべる。彼の寝顔を間近で堪能しながら彼女は手足を絡めていく。



(変な虫がすり寄らないように”虫除け”しておかなくちゃね)



 自らの身体を流星に擦り寄せる。首筋、手足、腹部。すべてに自分の匂いが染み付くようにマーキングしていく。

 どうやら、今日の本命はこちらだったようだ。

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