痛いほどに

 数日前の生徒会室。響華は愛する夫である流星と一緒に帰るため、生徒会室で一人待っていた。

 日も長くなり、季節は夏へと移り変わった。7月の夕暮れの空は茜色に染まり、なんとも言えない郷愁の念に駆られる。



 数年前の今日も響華は流星と遊んでいた。公園で彼と一緒に遊べるという事に喜びを噛み締めながら。数年先に待つ別れの悲しみなど、あの時は微塵も想像していなかった。

 数年前、響華は致命的なミスをした。進学先を流星と違う所にしてしまったのだ。いや、正確には『してしまった』というよりは『されてしまった』というほうが正しいだろう。

 この事件の主犯格は他でもない。響華の母である華蓮である。響華は華蓮のうっかりにより最愛の夫との惜別を味わうことになってしまったのだ。迫りくる絶望。湧き上がる恨み。伸ばしても届かない手。それは響華にとって辛すぎた。響華の人生の中であの期間は黒の時間だったと言えるだろう。



 だが、響華はそこで諦めることはなかった。この三年間、流星の妻として自分を磨き上げ、そして流星の自分のものにしてやる、と。響華は暗闇の中で燃え上がったのだ。

 響華は試練の三年間を生き抜いた。自らにストイックに生き、すり寄ってくるくだらない男達を跳ね除け、毎日流星の事を思いながら眠りにつき、花嫁修業に勤しんだ。

 結果的に響華は再び流星と出会い、妻として彼の隣を歩くことが出来た。愛しの夫に寄り添うことができる。響華にとってこの上ない幸せだ。

 


 響華は最近ふと考えることがある。もしも自分が流星に再び出会えなかったら、と。

 響華は華蓮が加奈子と仲がいいこともあり、流星の進学先は第三希望まで完璧に把握していた。仮に彼がどこに行こうと会いに行く準備は整っていたのだ。

 しかし、それがなかったとしたら?彼の行き先も分からず、暗闇を手探りで探すことになっていたら?そうなれば十中八九出会うことはなかっただろう。

 決して自分と流星の運命力を信じていないわけでは無い。しかし、人は所詮皆運命の歯車に過ぎない。それは一つの事象が異なるだけで動きが大きく変わる。例え奇跡的に出会えたとしても流星が覚えていなかったら、今のような関係にはなれていなかっただろう。



 もし仮に流星と出会うことが叶わなかったとしたら響華は今も絶望の渦中にいただろう。数年の地獄も終わりを迎えることはなく、この世に価値を感じなかったかもしれない。

 そう思うと自分は奇跡の中にいるのかもしれない。仮に世界線が複数あったとしても彼に出会えた世界線は少ないはずだ。

 だからこそ、”彼女”の苦痛は想像するに容易いのだ。



「うぉーい!…あれ?響華だけ?」



 威勢の良い声が響華の耳朶を打った。響華は驚きに肩を跳ねさせる。



「…真帆さん。アナタいつでも変わらないのね」



「おう!私はいっつも元気だぜ!響華は何してんの?」



「流星くん待ちよ。なんだか、球技大会の練習に引っ張られてるらしいから」



 四宮真帆。悔しいことに流星の元カノだ。

 彼女は響華の知らない中学時代に流星を支えた人間の一人。どんなことがあったかは響華は聞かされていないが、流星をここに導いたのは彼女だと理央から以前聞いている。間接的に響華の恩人とも言えるだろう。

 それと同時に彼女もまた運命の歯車である。

 


「一人じゃ寂しいでしょ?少し私と話そうぜっ」



 真帆は響華の隣に座り、ぐいぐいと距離を詰めてくる。最近は生徒会のことで忙しかったこともあり、二人でこうして話すのは久しぶりだ。



「最近はみんな忙しいな〜響華のクラスはどうなのよ」



「私のクラスもみんな頑張ってるわね。…私は流星くんの活躍する姿さえ見れればいいのだけど」



「やっぱりそうか〜でもまずはりゅーちんをやる気にさせないとな!」



 にっと笑って話す彼女。その明るい笑顔はまさに太陽だと言える。同性の響華でさえもなにか惹かれるものを感じた。彼女の笑顔は異性を惹き付けるなにかがある。学園の四大美女の一角であるのも納得がいく。

 先程も言ったとおり彼女は流星の元カノだ。とは言ってもそれは仮初の関係だったらしい。しかし、彼女の流星に対する気持ちは本物だ。それは響華が良く分かっている。

 響華は留まろうとする気持ちを振り切り、真帆にある質問を投げかけた。



「…ねぇ真帆さん。少し聞きたいことがあるの」



「何?私が答えられるのなら何でも答えるよ」



「その…真帆さんは流星くんのどこが好きなの?」



 真帆が一瞬、面食らった表情になる。が、数秒後ににやにやとした笑みに変わる。



「何々〜?聞きたい?聞きたいの?」



「…できれば聞きたいわね」



「しょうがないな〜秘密だぞ?特別に聞かせてあげる!」



 人差し指を口元に当ててそう語りかけてくる真帆。響華は彼女の言動の一つ一つをピンセットでつまむように耳を澄ます。



「まずなんだけど…響華はりゅーちんの中学時代の事聞いてたんだっけ?」



「いえ、何も」



 悔しながらに響華はそう言う。流星は響華が聞いても頑なに中学時代の事を吐こうとしない。そこには計り知れない絶望と苦労の道のりがあるからであって、流星は亡き友のこともあってそれを語る必要は無いと考えている。妻である響華にとって、夫に秘事をされるのは少しばかり気に食わなかった。



「う〜ん…それじゃ、少しだけ教えてあげる。…りゅーちんはね、みんなを救ったヒーローなんだ」



「ヒーロー?」



「そう。困ってる人がいれば手を差し伸べて、苦しむ人が居たら代わりになって苦しむ。本当に絵に描いたようなヒーローだった。学園の平和を守るスーパーマンだったな〜」



 皆を守るヒーロー。真帆の口から語られたそれは今の彼からは想像出来ないような人物像だった。妻を名乗る響華でさえも、それは想像が出来ない。

 真帆は目を伏せて語る。



「でも、全部が全部うまくいった訳じゃなかったんだ。人を助けるたびに犠牲者は何人も出たし、りゅーちんの身体はボロボロになっていった。最後にはりゅーちんはもう動けなくなっちゃったの」



「…そんな」



 短い言葉の節々から伝わってくる絶望。それは響華にもひしひしと伝わってきた。

 自分が想像も出来ないほどに、自分の三年間など生ぬるいと思えるほどの絶望に満ちた夫の過去に響華は言葉を失った。



「そんな中でも、りゅーちんは私の事を気にかけてくれてたの。記念日には一緒に居て贈り物もくれたし、二人の時間は何よりも大切にしてくれてたんだ〜。りゅーちんとのあの時間は何物にも代え難い物だったなぁ…」



 真帆の顔から溢れ出す笑みが彼女の心境を物語っていた。響華はそれを黙って見つめる。

 自分よりも、彼のことを理解している。悔しいことにそう感じさせられてしまったから。



「いつも私の事を気にかけてくれて、誰よりも私の事を理解してくれてる。そんな所が大好きなんだ」



「…ねぇ真帆さん。少し…いや、かなり失礼になってしまうのだけれど、なぜアナタはフラれても流星くんの側にいようと思うの?普通は…その、距離をとったりするものだと思うのだけれど」



 真帆が語った喜びも、悲しみも、絶望も既に過去の物。この学園に来るにあたって流星と彼女の関係は終わりを告げた。それは流星からの計らいであった。

 流星と真帆の関係は仮初のもの。彼女が男との関係に困っていたために流星にカップルのふりとして欲しいということだった。

 流星は学園に来る際に考えたのだ。真帆は自分に縛られてしまっているのではないか、と。苦しんだ自分を支えてくれたのは感謝してもしきれない事だが、このままでは真帆は自分より良い人間に出会うことが出来ない。彼女の幸せを考えた流星は別れを切り出した。今となってはいらぬ考えだったことは言うまでもない。

 そんな中でも彼に寄り添い続ける真帆の考えを響華は理解出来ない。それは彼女の持つ綺麗な男女の理想像に反するものであったからだ。



「んー…まぁ正直フラれたのは悲しいし、なんでかも分からないけど、りゅーちんは近くで居ていいって言ってくれたからできるだけ支えてあげようかなって」



 真帆の口からでた言葉は曖昧な物だった。彼女が期待していたような物ではない。彼女らしい答えだった。

 仮に響華が真帆の立場だったとしたら、すべてを呪いこの世を恨んだだろう。彼女はそれをせず、最愛の人間を今も支え続けている。つくづく響華には考え難い人間だった。



「…優しいのね真帆さんは」



「そんなんじゃないよ…私はただ支えたいだけ。流星くんが死んじゃいそうだったら代わりに死ぬし、どこかに消えてしまいそうだったら一緒に消える。犯罪を犯したのなら、私が庇う。愛する人を守るためなら何でもする、馬鹿な人間だよ」



 称賛をする響華に対して、真帆が口にしたのは自虐的な言葉だった。いつもの明るい彼女ではない。どこか影が見える様子だった。

 なにか得たいのしれない感情が響華の喉に押し寄せる。黒くて、まとわりついてくる泥沼のようななにか。

 響華は感じたことのない感情に身の毛を逆立てる。



「そんな…」



 響華は彼女を庇護する言葉をかけたかった。だが、見えてしまった。瞳を底の見えない闇に染めている骸のような彼女を。

 響華の本能がうるさいほどに彼女は危険だと知らせる。響華はそんなはずは無いと自分に言い聞かせた。



「…ねぇ響華」



「な、何」



「…無いとは思うけど、もし流星くんが傷ついて、それが響華のせいだったら」






「殺すからね」





「ッ!!!!」



 響華は戦慄した。普段の彼女からは想像出来ないほどの飲み込まれそうな闇に。首を締め付けられたような苦しみ。呼吸が浅くなっていく。

 恐怖するのと同時に響華は分かってしまった。彼女にとって今が絶望の時期なのだと。自分の苦しみなど、ほんの些細なことだったのだと。分からされてしまったのだ。

 響華の顔から血の気が引けていく。



「…あ、ごっ、ごめん!怖がらせるつもりはなかったの!」



「え、えぇ…大丈夫よ」



 真帆の表情はすぐにいつもの明るい彼女のものに戻った。怖いほどの代わり具合に響華は更に恐怖する。今まで自分は騙され続けていたのだ。彼女の仮面に。今こうして目の前で焦っている表情も精巧な贋作のように見えてしまう。

 響華は痛いほどに知っている。愛する人と離れることの悲しさ。辛さ。痛み。その全てを。その全てを感じる状況に陥った時、人はそれを地獄と言う。

 真帆は今、その地獄にいる。愛する人が他の女に盗られている。自分だったら、許し難い状況だ。そんな中で彼女は耐えている。



 響華は知ってしまった。真帆の思いを。それは決してふざけたものでも、紛い物でもない。重すぎるまでの本物の思いだ。

 そして理解した。諸星流星という男は罪深すぎる。とんでもない罪人だ。

 真帆に今必要なのは流星との時間。ただそれだけ。誤魔化しても誤魔化しきれないのが欲というもの。必然的に欲するものなのだ。

 故に彼女は止めなかった。流星が彼女の内に秘めた思いを探ろうとすることを。

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