親子揃ってこうなのは終わってる

 苦しかった授業も終わりを告げ、帰路に着いている流星。その隣にはもちろん響華がぴったりとついて歩いている。片手は響華の手に寄ってしっかりと絡め取られており、いわゆる『恋人つなぎ』状態になっている。すれ違う通行人から視線を感じるが、流星は何も言わずに我慢することにした。



 現在進行系で歩いているこの道いつも通る帰り道ではない。見慣れない道や公園を横目に流星は足を進める。

 今日は響華の提案の元、流星の家では無く響華の家へと向かっていた。事の発端は数時間前の休み時間まで遡る。




_休み時間_




「ねぇ流星くん」




「…なんですか?」




 古典の授業を乗り切り、あくびをかましている流星に響華が声をかける。肩を跳ねさせながら反応する流星に響華が疑問を投げかける。




「流星くんは高校生になってから私の家に来たことないわよね?」




「あー…確か行ったこと無いですね」




「やっぱりそうよね。じゃあ今日は私の家に行きましょう。決まりね」




「えぇ…」




 響華の急な思いつきで流星は響華の家へと招かれることとなった。流星自身、嫌な予感しかしないためあまり乗り気では無かったが、響華が嬉しそうだったので黙って行くことにした。

 というわけで冒頭に戻る。流星は自分の身を案じながらも女子の部屋に入るという男子高校生ならワンチャンスあるのではないかと期待してしまうシチュエーションに心を踊らせていた。

 そんな期待と不安に苛まれている流星に響華が声をかける。

 




「流星くん。あの公園、覚えてるかしら?」




 流星は響華が指さした先の公園を見る。少し錆びついている遊具にそこそこの大きさを有している砂場。それらを見た流星は懐かしいような感情を覚えた。

 流星は記憶の片隅にあった光景を鮮明に思い出した。




「…あ!響華さn「さんは余計よ」…響華とよく遊んでた公園…!」




「そう。私と流星くんが愛を誓った思い出の場所よ」




 目の前にあった公園は流星と響華が出会い、共に遊んでいた思い出の場所である。幼き頃に約束を交わしたのもこの場所で、二人にとっては特別な場所になっていた。久しぶりに見る光景に流星は昔を思い出して懐かしさで胸がいっぱいになる。




(なつかしいなぁ…二人でブランコ漕いだりしたっけ。あの約束したのもここの砂場だったな。…昔の俺はまさかあの響華がこうなるとは思ってもないだろうなぁ。お前のおかげでこっちは苦労してるぜ昔の俺…人生何が起こるか分からないものだ。…ん?あれ)




 流星の視線の先には二人で遊んでいる幼い男女。二人で仲良くブランコを漕いでいる。




「ねぇねぇ賢人くん!」




「なーに?」




「おおきくなったらふたりでけっこんしようね!」




「けっこん?なにそれ?」




「けっこんっていうのはね…」




「…」




「あの子将来有望ね」




 二人を微笑ましく思う響華は幼き頃の自分の姿と彼らを重ねて感傷に浸っている。一方、流星は表面上では微笑みながらも少年の身を案じるばかりだった。




(少年よ。そういう約束をするのは自分の勝手だが、苦労するのは未来の自分なんだぞ…)




「さ、流星くん。思い出に浸るのもここまでにして行きましょう」




「そうっすね」




 流星は少年の未来に平穏が訪れる事を願い、響華の家へと向かった。







「ここよ」




「おぉ…」




 歩くこと数分、流星は響華の家へと到着した。自分の家とは違い、外見から分かる洋風な造りの家に流星は声を上げる。

 響華の家には幼い頃に何度か行った覚えはあるが、記憶の端々に残っている程度で断片的にしか覚えていなかったのでどちらかというと新鮮な感じだった。

 



「そんなにわざとらしく反応しなくたって大丈夫よ。中に入りましょう」




「うっす」




 扉を開けた響華の後ろを遠慮気味に足を進める流星。考えてみれば異性の家に入った事など数える程度しかないため、緊張していた。




(…おぉ)



 中へ入ると暖色の照明が流星を出迎えた。白を基調として作られた玄関の傍らには観葉植物が顔を覗かせており、おしゃれな雰囲気に流星は思わず心の中で感嘆の声を漏らす。落ち着いた雰囲気のある玄関に靴をしっかりと揃えて上がった。

 どことなくぎこちない様子の流星に響華がいつもの冴えわたるような声で話しかける。




「そんなに緊張しなくていいのよ。そのうちまた来ることになるんだから」




「…そうは言われてもっすよ。緊張しないわけないじゃないですか」




「ふふっ、意識しすぎよ。まぁ、流星くんが私を想う気持ちは十二分に分かるわ。私だって抑えきれない程だもの」




 ほんの僅かに口元を緩ませてそう言う響華。響華が表情を崩すのは親と流星の前だけ。それだけ信頼しているということになる。その事実が流星に嬉しさとともに気恥ずかしさをもたらす。流星は自然と口元を緩ませた。

 



「私はお菓子を持っていくから流星くんは先に行ってて。部屋は二階の廊下の突き当りよ」




「え、あ、ちょっと」




 響華は『それじゃ』と一言残すと流星を置いて奥の部屋へと消えて行ってしまった。

 一人残された流星は呆然とする。知らない家に一人取り残され、困惑の表情。ゲームで見知らぬダンジョンを探索するのは大好きだが、他人の家を一人で探索する趣味など流星にはない。

 とはいえ、響華は既にお菓子を取りに行ってしまったし、後を追って泣きつくなどまたからかわれるだけだ。流星は心に残る不安を誤魔化して決意すると二階へと向かった。




(確か二階の廊下の突き当り…だったよな)




 階段を登り、二階へと上がってきた流星は廊下に沿って進む。陳列している扉の一つ一つを横目に部屋の多さに驚く流星。小さい頃に来た時は一階で遊ぶ事が多かったため二階はまったくの初見だった。

 廊下の突き当りまで来たところで流星の嗅覚が甘く爽やかな匂いを察知する。




(…この匂い…どこかで…)




 鼻を鳴らして匂いを元に記憶を辿っていると、流星の視界には見覚えのある華奢な姿が角から飛び出してくる。




「あら?…流星くん?」




「華蓮さん…!」




「やっぱり。流星くんよね?お久しぶりね」




「あはは…ご無沙汰してます」




 流星の手を握って喜ぶ泣きぼくろが特徴的な彼女は綾部華蓮。響華の母で加奈子と仲が良く、流星は小さい頃からよく会っていた。クールな性格で正にクールビューティーが似合う女性で、響華の性格は母譲りであることが分かる。

 実に三年ぶりの再会に流星は喜ぶどころか危機感を覚えていた。目の前で嬉しそうに微笑む眼鏡の女。流星にとって彼女は自らを危険に犯す存在であることを十二分に理解していた。




「ふふ…こんなに大きくなっちゃって」




「…前会った時から三年間も経ってますからね」




「あんなにちっちゃかった手もこんなにおっきく…子供の成長っていうのは早いのね」




 流星の手を細い指で触れながら微笑む華蓮。そんな彼女を前に流星は極度の警戒心を張り巡らせる。

 流星の手に触れていた華蓮の手先はするすると流星の顔へと伸びていく。




「ちょっ!?」




「可愛かったお顔もこんなに凛々しくなって…でも赤い目は変わらないのね。いい男になると思ってたのよ。加奈子さんが羨ましいわ」




「はは…ちょっと近くないですか?」




 響華に負けず劣らずの顔面偏差値を誇る華蓮の顔が吐息が当たる距離まで近づく。流星の鼻孔を擽る藤の花の香り。大人の色気MAXの微笑みが流星を誘惑してくる。流星が彼女を危険視していたのはこのためだった。



 華蓮は昔からいかんせん流星との距離が近い。隣に座れば、わざわざ自分の膝に座らせる。会うたびにハグ。褒めてくれる時は頬にキス。お昼寝の時は膝枕。幼稚園に通っていた頃は別に気にならなかったが、成長するに連れて距離の近さへの疑問は大きくなっていった。

 小学校卒業となったときでもその距離感は変わらなかった。一度だけ流星が疑問を口にしたときも




「どうして?流星くんは嫌?」




 の一点張り。流星は違和感を感じざるを得なかったが、自分の親でも無いため強く出ることは出来なかった。

 中学に入学し、会うことはめっきりなくなってしまったわけだが、再会した今彼女から逃れることはできないだろう。ましてや今の響華は愛に飢えたモンスター。母親であれこんな現場を見られてしまえば怒りを買うことは間違い無いだろう。

 この女はまずい。流星の本能ができるだけ早くこの状況を脱却することを呼びかけている。




(やっぱりこうなるか…!だからあんまり来たくなかったんだよなぁ…まぁ今更泣き言なんて言ってられないな。響華さんが来るまでにこの顔面偏差値二億の女を引き剥がさないと…!)




 とは言ったものの、今の華蓮は流星から離れそうにない。むしろ少しずつ距離が縮まっている。




「いい男…食べちゃいたい」




「あの〜…聞いてます?」




 至近距離での華蓮の舌なめずり。艷やかな唇が流星の視線を引き寄せる。完全に相手のペースに飲まれてしまっている。




「…ちょっとだけなら大丈夫よね」




「…華蓮さん???」




「もう我慢できないわ…流星k「ママ」




 流星の脳内に嫌な予感がよぎったその時、背後からいつになく冷たい声が響く。背筋を伝う嫌な冷感。身体の動きが鈍くなる感覚。どうやら危惧していた事態が起こってしまったらしい。神様は意地悪だ。




「あら響華」




「ママ。勝手に触らないでって言ったでしょ」




「ぐっ”」




 愛しの氷結の女王は流星の腕を掴んで自らの懐に引き寄せた。誘惑して奪わんとする自分の親に対して敵意をむき出しにして威嚇する。

 そんな響華を前に華蓮は人差し指を頬に当ててわざとらしい反応を見せる。




「だってしょうがないじゃない?親子で好みが似ることなんてよくあることだし」




「そういう問題じゃないっていつも言ってるでしょ。流星くんは私の夫なの。ママでも触れることは許されないわ」




 剣呑な雰囲気が漂う中、華蓮は変わらず妖艶な笑みを浮かべている。凍てつくような無表情で怒りを見せる響華をもろともしていない。普段からこういうやり取りをしているということだろうか。

 真っ黒な瞳孔で見つめる響華と困った様子の流星を見て、華蓮は微笑みながら口を開く。




「冗談よ冗談。そんなに怒らないで。お詫びにお茶淹れてあげるから。…じゃあね流星くん」




「…」




 華蓮は手をひらひらさせると響華の横を抜けて角へと消えた。響華はその様子を最後まで見届けると一つ息を吐いた。




「はぁ…いないから嫌な予感がしてたのよ。ママはああいう人だから気をつけて。…呑気に鼻の下伸ばしてたら食べられるからね」




「…伸ばしてないですけど」




「…微妙な間には触れないでおいてあげる。その代わり、注意は怠らないで」




 響華は流星に忠告を告げた。言葉の節々からは呆れの感情が感じられる。

 絶体絶命かと思われたが、なんとか窮地を脱することに成功した流星は安堵の息をついた。全く掴みどころのない人間の相手とするのは非常に疲れる。一時の疲労感に苛まれながら流星は響華の部屋へと向かった。







「どうぞ遠慮しないで」




「失礼します…」




 廊下の突き当りにある扉を開いて流星は響華の部屋へと足を踏み入れる。部屋は淡い青を基調とした家具で統一されており、ところどころにある可愛らしい装飾が女の子らしさを感じさせる。

 普段を見るとクールなイメージがあるが、響華も一人の女の子だ。流星はベッド際に並べられたぬいぐるみからそれを感じた。

 部屋を見回す流星に響華が声をかける。




「…ママのことが不安だから少し下に行ってくるわ。念の為鍵は掛けておくけどママが来ても絶対に開けないようにね。あの睡眠薬でも盛られたら堪まったものじゃないわ」




「なんで睡眠薬なんてものがあるんですか…」




「そこは気にしなくていいのよ。とにかく、部屋からは出ないようにね。部屋は好きに見てもらって構わないわ。それじゃ」




 そう言うと響華は鍵を閉めて部屋を出ていった。まず睡眠薬がある事自体がおかしいのだが深くは考えないほうがいいらしい。流星はとりあえず荷物を下ろすと、視界の端に入った額縁に入れられている写真を手に取る。




(これ…俺がまだ小さい頃の写真…)




 机の傍らに置かれていたのは幼い頃に流星と二人で撮った写真。満面の笑顔の響華と大袈裟にピースをしている流星が写っている。久しく見ていなかった響華の笑顔に流星は頬を緩ませる。




(懐かしいな…今は鉄人って感じだけど、昔は笑顔が耐えない人だったんだよな。今考えたら回りの男子はみんな響華さんに惹かれてたなぁ…俺もこの笑顔に惚れたんだ)




 すべてを照らし出す太陽のような笑み。流星が彼女を好きになった要因の一つだ。氷結の女王となった今でもその笑顔は変わらず、流星の前でだけ見せてくれる。流星にとって彼女の笑顔は自分を支えてくれる精神的支柱になっていた。

 



(昔の俺に今の響華の事を伝えたらどう思うだろう…間違いなく困惑するだろうな。ははっ…戻れるならこの頃に戻りてぇよ。…ん?)




 流星の視線の先には赤いスカーフを纏ったテディベア。本棚の上に鎮座しているそれは流星が響華にあげた贈り物だった。




(これ俺があげたやつだ。ちゃんと飾ってくれてる…)




 埃一つ被っていないテディベアを見た流星は少しの喜びを感じた。好きな人への贈り物がちゃんと保管されているというのは男として嬉しいの一言に尽きる。流星はテディベアの手足を少しいじりながら愛おしそうに頭を撫でた。




(ちゃんとした人に拾われてよかったな。感謝してくれよ。…あ?)




 テディベアを撫でている最中、流星は見た。いや、見てしまったといったほうが正しいだろう。真面目な小説から哲学書までが所狭しと陳列している本棚の中に堂々と鎮座している『流星くんアルバム』を。




(…なんだこれ)




 手にとって見てみると、かなりの厚さだ。よほど溜め込んでいるものと見て取れる。嫌な予感しかしない。流星は手元の謎のアルバムに困惑する中、芽生えた少しの好奇心に任せてアルバムを開いた。




「うっわ…」 




 流星は思わず声を漏らした。開いたアルバムには幼い頃から現在に至るまでの自分の写真がびっしりと並べられていた。見覚えのあるものからどこで入手したのか分からないものまでが並べられている。

 いつぞやに撮られたであろう寝顔。教室で友達と笑い合っている写真。幼い頃に転んで泣いてしまったときの写真。流星が見ているだけで恥ずかしくなってくるような内容だ。




(あの人…なんでこんなもの溜め込んでるんだよ。つかこの更衣室で着替えてる写真に関してはどうやって撮ったんだよ。盗撮だろこれ)




 流星は響華がカメラで盗撮している様子が容易に理解出来た。響華は流星のことになるとなんでもやりかねない節がある。流石に盗撮は咎めておいたほうがいいだろう。流星は呆れた様子でため息をつきながらアルバムを本棚へと戻した。




(…というか俺もなんで当然のように女子の部屋漁ってるんだ。許可されたとは言え少しは自重すべきだろ)




ガチャッ




「あ、響華さん。おかえりn…えっ」




「♪」




 背後の扉が開く音を聞いて流星は響華が帰ってきたのだと思い振り返る。しかし、そこにいたのは響華ではなく華蓮だった。

 困惑する流星を前に華蓮は人差し指を口元に当てて近寄ってくる。『静かに』という合図だろう。




「か、華蓮さん?」




「しーっ♪」




「えっ」




 華蓮は流星の肩を掴むと後ろにあるベッドへと押し倒した。流星の脳内は更に困惑する。

 華蓮はニコニコしながら押し倒した流星の腕を頭上でクロスさせて抑え込む。足で抵抗しようにも華蓮の足によって絡め取られてしまっているため動けない。完全に身動きがとれなくなってしまった所で華蓮が囁くように流星に話しかける。




「触れるなって言われてもねぇ…こんなにいい男が目の前にいたら我慢できなくなっちゃうじゃない?」




「な、え?ど、どういう…」




「流星くんは気にしなくていいの。ちょっと気持ちいいだけだから…♡」




 華蓮の顔面偏差値二億の顔が再び流星に近づく。流星の胸にダイレクトに当たる柔らかな感覚。ふわっと香る藤の花の香り。痺れるような刺激の数々が流星を襲う。



「ちょっと、華蓮さん、近いっす…」




「じっとしてて…すぐに気持ちよくなるから…♡」




「やっ、やめ…」




「動いちゃだーめ♡」




「よくないですってマジで!響華さん来ちゃいますし…」




「それまでに終わらせればいいのよ。それに流星くんは…シたくないの?」




 大人の色気全開で流星を誘惑してくる華蓮。流星はボコボコに殴られて既に狂ってしまった理性でギリギリ耐えているが、そう長くは持たないだろう。




「ふふっ、怖がらなくていいの。目を閉じて…ゆっくり…」




 華蓮がとどめの一撃を落とさんとその艷やかな唇を近づけてくる。既にその気になっている体に反して鋼の精神で耐え続ける流星。




(…もう…むり)




 ついに限界を迎えようとしていたその時。




ガシャン




「…あ」




「?」




 耳をつんざくような鋭い音。それと同時に体を襲う妙な寒気。突如として流星の耳朶を打ったその音の正体は望んでいた女王の帰還を告げるものだった。

 部屋の入口にて光を失った瞳で二人を凝視する響華。持ってきたであろうティーセットは無惨な姿で床に散らばっている。




「ママ、やめてって言ったでしょ。どういうことなの」




「私には流星くんしかいないの」




「ねぇ」




 響華はズカズカと近づいてくると、人を殺せそうな程冷たい声で華蓮を問い詰める。しかし、いつものような覇気は無い。珍しく取り乱している。

 



「ねぇ、答えて。なんで私から流星くんを奪おうとするの。ねぇ」




「別に奪おうなんて思ってないわ。ちょっとだけ食べてみたかっただけよ」




「ママにはパパがいるでしょ。私から奪おうとしないで」




 つらつらと言い分を並べる華蓮に対して響華はごもっともな返しをぶつける。だが、華蓮は引く気はないようで、一向に流星を譲ろうとしない。

 




「いいから流星くんから離れて」




「いいじゃないちょっとぐらい。10分だけだから」




「ダメ。絶対にダメ。流星くんだって私を望んでるの」




「…そうなの?」




「…え、は、はい」




 流星は急に話を振られ、反応が僅かに遅れた。その僅かな時間が事態を良くない方向へと招いていく。




「…いいわ。私とママどっちがいいのか分からせてあげる」




「…えっ」




「いいわねそれ。取っちゃうけど大丈夫?」




「舐めないで。何年流星くんのために生きてきたと思ってるの」




「ちょっ、二人共?」




「動かないで流星くん。すぐに私のほうがいいって思わせてあげるから」




「ふふっ、その表情も可愛い…」




 じりじりと二人に追い詰められていく流星。迫る焦燥感。纏わりついてくる絶望。逃げろと訴えてくる本能。流星の脳内は今までに無いほどぐちゃぐちゃになっていた。

 もはや逃げる場所などありはしない。この状況を受け入れろと神が告げているとしか言いようがない。やはり神様は意地悪だ。

 次に流星がとった行動は実にシンプルなものだった。




(…やるしかねぇ)




「…しっ、失礼しましたっ!!!」




「あ、ちょっと!」




「…行っちゃったわね。残念」




 流星が使ったのはオタクのみんなが大好きな『縮地』。地面を蹴り、瞬間移動のように動く奥義的なもの。この前ネットでチラッと見たのを実践してみたが、案外できてしまうものだ。

 火事場の馬鹿力といわんばかりのスピードで荷物を回収して流星は綾部家を飛び出した。







「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…災難だ」




 あれから数分。流星の足は止まることを知らず、猛ダッシュで家へと帰ってきていた。疲れ切った流星はリビングのソファに腰を下ろす。




「りゅーちゃんどうしたの?不審者にでも追いかけられた?」




「ある意味そうかも…あ、母さん、産んでくれてありがとう」




「えっ、どどどうしたの急に!?」




 足の速い子に産んでくれた母親に感謝しながら流星は疲労のまま背もたれによりかかり、完全に脱力した状態で天井を見上げる。まさかとは思っていたが華蓮までああだったとは。また悩みの種が一つ増えてしまったことに流星は軽く絶望する。




「あ”〜…疲れた」




 不意に流星の視界に壁に掛けてあったカレンダーが入る。今日の日付から3日後の日にちに赤く丸がついている。流星の脳裏によぎるのはうざったらしくも憎めない彼の姿。




(…もうすぐあの日か)




 忘れられない。忘れてはいけないあの日が近づいて来ていた。

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