名前は大切なの
「…大変よ流星くん」
暖かな日差しに包まれ、春らしい陽気が漂う休日。自室のベッドにて録画していたラブコメアニメの『来る4月と嘘の許嫁』を見ていた流星の元に珍しく深刻そうな表情を浮かべる響華がやってきた。
今日は清潔感のある白のTシャツに紺のワイルドパンツというラフなコーデ。
男子の部屋であることにも関わらずつかつかと入ってくると、いつに無く重苦しい雰囲気で流星の隣に座り込む。
らしくない様子の響華に流星はぎょっとした表情を見せる。あの崩れぬ冷気を纏った芸術品のような雰囲気で有名な響華が眉間にシワを作っている。それは流星を驚かせるには十分過ぎた。
流星は録画を一時停止して響華の顔色を伺う。
(なんでこんなに深刻そうな表情なんだ?アニメでも見逃したのか?…いや俺じゃあるまいしそんな訳ないか。じゃあなんだ?…まさか俺またなにかやっちゃいました?)
流星は海馬と大脳皮質に訴えかけて最近の自分の行いを振り返ってみるが、なにかやらかした覚えは無い。
流星が知らないだけでやらかしている可能性もなきにしもあらずだが、その場合響華がこんなに落ち着いているはずがない。ということは別の可能性になるだろう。
(…うん。何もやってないはず。最近は生徒会選挙のことだったりで忙しかったからな。ということはなにか嫌なことでもあったのかな?…聞いてみないことには分からないか)
脳内での一人作戦会議を終えた流星は隣に座っている変わらぬ表情の響華に問いかけた。
「響華さん…?なにかあったんですか?」
「流星くん、私重大なことに気づいてしまったの」
響華は目を閉じて悩んだ様子でそう言った。口元からもなにか大変な事だと感じ取れる。
響華にとって重大な事とは大体が流星関連のことである。と、いうことは言わずもがな流星のことで悩んでいるということになる。
(重大なこと…?この時期だし生徒会のことか?…いや、メンバーも順調に集まってるし…それにまだ期間もまだ焦るほどじゃない。となるとなんだ…?)
流星は必死に頭を捻らせるが、それらしいものは思い当たらない。なにかトラブルでもあったのだろうか。
悩む流星を前に響華は一の字にして閉ざしていた口をゆっくりと開いた。
「私達…まだ子供の名前を決めていないわ」
「…」
流星は完全に予想の斜め上からの言葉に鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。
困惑でめちゃくちゃになっている流星の脳内に『子供の名前』というまだ決めるには早すぎる話題が駆け巡る。
流星は心境そのままに言葉が出てくる。
「…子供の、名前ですか?」
「えぇ、そうよ。こんなにも大事な事を忘れていたなんて…」
「…いくらなんでも早すぎませんかね。まだ成人もしてないのに」
困惑を通り越して若干引き気味になっている流星は響華に困惑の視線を向ける。いくらなんでも早すぎるだろう。
そんな視線を跳ね返すように響華は透き通るような声で異議ありと言わんばかりに否定の意を述べる。
「そんなことはないわ。近い未来にできるのだから今から考えておいても損は無いでしょう?」
「近い未来って…そんなまさか…」
「…」
『そんなまさか』と冗談交じりに否定しようとした流星の瞳に至極真面目な顔をした響華が映る。その真摯たる目を見るにどうやら本気らしい。
つまり”そういうこと”を体験するのも近い未来、ということになる。男としての試練に直面するのも近いようだ。
流星だって高校生男子の一人。そういうことに興味が無いはずが無い。脳内の細胞達が困惑して飛び交っているのが分かった。
流星は『マジか…』と心の中で喜びとため息が混濁したような言葉を漏らすと喉元まで着ていた言葉を飲み込んだ。
「流星くん、私は本気よ」
「…左様ですか」
「不安に思うことは無いわ。その時になったら私がちゃんとリードしてあげるから」
「…ありがとうとだけ言っておきます」
一人の男として女にリードしてもらうのはどうなのかと思う節もあったが、度重なる困惑に流星の脳は混乱状態に陥っていたためそんな判断をする余裕は無かった。響華の過激な発言もほどほどにしてほしい所である。
未だに脳内が未曾有の混乱に包まれている流星を置き去りに響華は更に話を進める。
「それに子供の名前っていうのは案外奥深いのよ?こんなふうに育って欲しいっていう願いやその時のイメージで付けたり、尊敬する人の名前を取って付けるって人もいるの。決め方は無限大と言っても過言ではないのよ」
「…へぇ〜そうなんだ〜(棒)」
(…この人何言ってるんだろう…)
未だに脳内のエマージェンシーコールが鳴り止まない流星はあまりピンと来ていない様子で平坦な声が飛び出る。飲み込もうとしても脳の容量が足りていない。
脳内のミニ流星達の議論が3周したところでようやく話題を飲み込んだ様子の流星に響華が手を取り、話しかける。
「分かってくれたかしら?二人で名前を考えることで更に夫婦の距離は近く、より深いものになるはずよ」
「うん若干消化不良ですけどとりあえず分かりました」
「物分りのいい夫で助かるわ。今から二人で考えましょ。…あ、言っておくけどキラキラネームは無しよ?呪縛になりかねないから」
「え、あ、はい」
妙に圧のある言い方に流星は狼狽える。確かに近年キラキラネームによる問題は後を絶たない。響華も子供のことを思っての一言なのだろう。流星も納得する。
響華は『それじゃあ』と口を開く。
「まずは女の子だった場合から考えましょう」
「女の子の名前かぁ…」
流星は顎に手を当てて女の子のイメージを頭に浮かべて名前を考え始める。この際、なぜまだ高校生なのにこんな事を考えているのかという考えは破棄することにする。
名前という名の文字の羅列の組み合わせは無限大だ。頭の中に無数に浮かんでくる文字の中に流星の思考が飛び込んでいく。
(女の子の名前か…女の子の名前ってどんなのがいいんだ?可愛いやつ?それとも可憐なやつ?できるならどちらも兼ね備えた人間に育って欲しいからなぁ…ダメだアニメの見すぎでまともな名前が出てくる気がしない…)
いきなり女の子の名前、と言われてパッと出すのも難しい。ましてや日頃電子の海を泳いでいるアニオタ脳の流星にはかなり難しい問題だ。
行き詰まった流星は隣に座っている響華の意見を伺うことにした。
「響華さんはどんな名前がいいと思います?」
「そうね…やっぱり女の子だから可愛く、そして可憐に育って欲しいわね。流星くんもそう思うでしょう?」
「あー…そうっすよね」
響華は流星の心を見透かしたかのようにそう言った。実際の所大当たりである。
まさかの考えていたことが一緒だったことから思ったより思考が似通っているというか同じだったことに流星は驚く。
(…人の考えってのは移るんだな)
嬉しいのか嬉しくないのか分からない流星はなんとも言えない複雑な心境になる。その心境が顔にも出てきてしまっている。
息があっているという点では響華の理想の夫婦像に近づいている。響華的には嬉しいところだろう。
とりあえず一旦この事は脳の片隅に置いておき、流星はよくある女の子の名前を頭に浮かべる。
「可愛らしい名前…よくあるのは『ひまり』とか『りん』とか『ひな』とかですよね」
「悪くは無いけれど、どこか惜しい感じがしてるわね」
響華は目線を上に向けてどこか違うといった様子。また流星もなにか違うと感じていた。いい名前ではあるがどこか腑に落ちない。もう少し二人に関連したなにかが欲しい。
そう思っていた時、響華が閃いたような声を漏らした。
「あ」
「?なにか思いつきましたか?」
「子供って言うのは二人の”愛”の結晶じゃない?だから『
「お〜可愛らしさもあっていいですね!」
二人の愛の結晶だから愛。いつ何時も流星を思い、愛を大切にしている響華らしい考えだ。いつもの無な表情ではなく少し誇らしげな表情になっている。
可愛らしさと可憐さのどちらにも当てはまる愛という文字。いいとこ取りをしたような名前に流星も納得の表情。これで決まりだろう。
「女の子はこれで決まりね。次は男の子よ」
「…そっちも考えるんですね」
「当たり前じゃない。…もしかして流星くんは女の子だけ欲しいの?流星くんがそう言うなら私は堕胎でも何でm「ストップストップ!考えます!考えますから!」
あまり良くない発言が飛び出てきたため流星は慌てて響華の口を両手で塞ぐ。まいどまいど過激な発言がポンポンと出てくるため流星も会話に細心の注意を払わなくてはいけない。疲れ混じりのため息が流星の口から出てくる。
一方響華は口にあてがわれた流星の手をスーハーして堪能している。この美貌があるから許される行為だが、傍から見ればただの変態である。クラスメイトがこの状況を見たらどうなることか。
「流星くんの、流星くんの匂い…」
「…男の子の名前、考えましょうか」
流星は響華の口元からそっと手を離す。響華は一瞬名残り惜しそうな表情を浮かべたが、はっとするといつもの表情を取り繕う。今更感はあるが流星は触れないようにした。
思考を切り替えて流星は男の子の名前について考え始める。
男の子、と聞いて出てくるのは数々のアニメの主人公達の名前。その名前は元気溢れるものから厳格な雰囲気を感じさせるものまで十人十色。
女の子の名前よりは考えやすいが、名前の案が無限に出てくる。
(う〜ん…普通に男の子ってシンプルな名前でもかっこいいんだよなぁ。”スバル”とか”シンジ”とか”リンタロウ”とか)
「やっぱり男の子だったら流星くんみたいにかっこよく、逞しく育って欲しいわね」
「…俺みたいにはさておき、かっこよく逞しくか…」
急な褒めに一瞬思考が停止するが、誤魔化して流星は再び脳を回転させる。
(やはりここは無難な所を…いや、子供の名前だぞ?一生モノだぞ?キラキラネームとまでは行かなくてもちょっと個性的な方が…いや行き過ぎも良くないし…)
流星が名前に対する思いを右往左往させていると響華がこちらに視線を向けているのに気がつく。
流星と視線がバッチリと合うと響華は口を開いた。
「ねぇ流星くん、一つ聞きたいことがあるの」
「…なんですか?」
「流星くんの名前の由来、よければ聞かせて欲しいの」
「俺の名前の由来ですか?」
「えぇ。少し気になったの」
(…確かに考えてみるとあんまり話したこと無かったな)
別に隠すことでもないと思った流星は幼い頃に親によく聞かされていた自分の名前の由来について響華に話し始めた。
「俺の名前の由来はそのまま流星から来てます。父が天文学者で母さんと夜にデートした時に見た流れ星がずっと印象に残ってたらしくて…」
「…流星くんのお父様、天文学者さんだったのね。だからあれが…」
響華の視線の先にはベランダに設置された望遠鏡。天を見つめているそれは流星が幼い頃に父からプレゼントされたものだった。今でも夜になると流星は空を覗いている。
珍しく少し驚いた様子の響華を見て流星が首を傾げる。
「まぁ、そんなとこっす。…あれ?言ってませんでしたっけ?」
「えぇ。いつか聞こうと思っていたけどまさか天文学者だったなんて…」
初耳の情報に響華は目をパチクリさせる。言われてみれば最後に会ったのは小学生が最後。それも1,2回程度。昔の事ということもあり、あまり記憶に残っていない。普段家にいないのはそういう事だったのかと響華は納得した。
響華はあまり記憶に残っていない流星の父について、流星に聞く。
「どんなお父様なのか、聞いてもいいかしら?」
「父さんは、落ち着いてるというか大人しい人間です。母さんは…あぁいう性格なので、相性が良かったんでしょうね」
「…なるほどね」
「こんな事を言うのはちょっと恥ずかしいですけど、いい父親ですよ」
少し表情を崩して照れくさそうに流星は言う。その表情からは流星の父親を慕う思いが見えた。
「いいお父様なのね」
「はい。…響華の名前の由来は何なんですか?」
響華から注がれる優しい視線を浴びて照れくさくなってきた流星は話題を逸らそうと響華の名前の由来について尋ねる。
「私の名前はパパとママの名前から一文字ずつ貰ったの。流星くんに尽くすための、この名前をね」
「…それはちょっと違うと思いますけどね」
「いいえ。絶対そうよ。私は神に流星くんを愛せと命じられて生まれてきたの」
「…なんか思想強いですね」
頑なに意見を崩そうとしない響華に流星は若干の苦笑いが飛び出る。絶対そんな理由で付けた名前ではないと分かっていたがこれ以上追求したところでなにか変わるわけでも無いと感じた流星は喉元まで来ていた言葉を飲み込んだ。
話が逸れてきたことに気づいた流星は流れを取り戻すべく響華に言葉を投げかける。
「話が逸れましたね。男の子の名前、どうします?」
「それなのだけど、シンプルに『
「星…ですか」
「えぇ。流星くんから取った名前なのだけれど、”星”のように輝いて欲しいっていう思いを込めて『星』よ。シンプルだけど素敵じゃない?」
響華のシンプルかつ思いのこもった名前に流星も納得した様子。賛同の声を上げる。
「いいっすね…!それにしましょうか」
「ふふっ、それじゃあこれで決まりね。生まれるのが待ち遠しいわ…」
「まだできたわけじゃないっすけどね???」
下腹部辺りをさすりながらそう言った響華に流星は即座にツッコミを入れる。こう危ない発言がポンポン出てくるのはなぜなのだろうか。ここが教室だったらまた白い目で見られる所だった。
流星は額に変な汗が伝うのが分かった。
「流星くんは子供は何人欲しい?私は流星くんが望むなら何人でも…」
「えっと響華さん???まだする話じゃないと思うんですけど???」
「最低でもサッカーできるぐらいは…」
「ちょっとそれは多すぎじゃないですか???響華さん???」
流星の声がまるで届いていない。欲望の片鱗が口から溢れ出している。完全にかかってはいけないエンジンがかかり始めている。というか全開である。
そんな状態の響華とこの部屋に二人きり。つまりこの状況、まずいのである。
「あぁ…待ち切れないわ」
響華は流星の手を取り、獲物を捉える蜘蛛の巣のようにその指を一本一本絡めてギュッと握る。
流星はされるがままになっていたが、響華の瞳の奥で揺れるなにかを見た時、自分がかなりまずい状況に置かれていることに気がついた。
流星は背筋をなぞられたような感覚に陥る。
(ッ!!!これまずいやつ…!)
「ねぇ流星くん、今から練習しておいても損は無いと思うの」
「あはは…練習ってなんのことかなぁ…」
「安心して。手解きは私がしてあげるわ」
響華は絡めた手をそのままに流星をベッドに押し倒そうと力を入れる。流星を欲望のままに貪ろうという圧がにじみ出てきている。
この状況で押し倒されてしまってはされるがままになってしまうと判断した流星は逆に押し倒さないように力を入れて抵抗を試みる。
「響華さん???今やるのはまずいですって…ゴ、ゴムとか無いですし…」
「あら、これは何かしらね」
響華は組んだ手を一旦離すと、ポケットからおもむろに取り出したそれを流星に見せびらかすようにひらひらさせる。それは流星に絶望を与えるには十分すぎるものだった。
(おーっと…)
「あと流星くん、『さん』は余計よ」
次第に壁へ壁へと追い込まれていく流星。いつもみているはずの唇が妙に艷やかに見える。
獣を狩る狩人のような瞳をした響華は追い詰めた眼の前の獲物をどう食そうかと舌なめずりをする。獲物である流星は祈るばかりだった。
(まっずーい☆止まらなくなっちゃった☆…マジでまずい。下に母さんいるし。絶対聞こえるし。バレたら終わるし。…こういうときはシンプルなのが一番だよな)
流星は最後の一縷の望みに希望を託して覚悟を決めた。
「…響華さん」
「さんは余計よ。…何かしら?」
「俺実は今日勝負下着を付けてるんですよ」
「…へ?」
(今だッ!!!)
流星は響華の一瞬の動揺の隙をついて脇をすり抜け、自室の扉を開けて勢いよく飛び出した。母の呼び止める声も聞かずに全速力で玄関から飛び出していく。
流星は背後から迫ってくる気配で響華が追ってきていることが分かった。
「待って流星くん!勝負下着ってどんなデザインなの???」
「そこ気になるのかよ!?」
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