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苦味/かしこまりこ への簡単な感想」への応援コメント


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    フィンデルさま、まず、有名な作家ないざ知らず、アマチュアが書いた作品を、ここまで真摯に読むことができるということに、脱帽です。カクヨムのような小説投稿サイトでは、自分の作品を読んで欲しい人であふれています。理解という形の愛が欲しい集団の中で、それを与えられる人は非常に貴重です。私は、他人や他人の作品に、そこまで興味がもてる人間ではないので、その点だけでも尊敬します。

    フィンデルさんの解釈は、私が書きたかった意図とは、少し違うように感じました。他の方のコメントを読んでも、いろいろな解釈があるのだと目からウロコで、非常に勉強になりました。恐らく、私のようなアマチュアにありがちな、「ここまで言っては野暮だろう」と説明を割きすぎたということが大きいかなと思います。読者に解釈を委ねることと、きちんと意図を伝えることのバランスは難しいなと感じます。

    特に、この作品は価値観の違いによって、大きく解釈が変わる作品なのだなと感じました。私は、自分の価値観を「ふつう」と感じており、読者も同じような価値観を持っていると思いがちです。フィンデルさんの感想や、他の方のコメントのおかげで、読者さまはそれぞれ全く違う人生を歩み、違う価値観で生きていらっしゃるのだということを再確認することができました。そのことを留意して書くだけでも、今後の表現に違いが出るかなと思います。

    フィンデルさんの解釈が、私が意図していたものと違っていたとはいえ、フィンデルさんの解釈はとても美しいと感じました。
    特に『愛と欲が絡んで人がそれぞれ懸命に生きるとき、あるいは安心を求めるとき、「勝利」する人なんておらず、誰しも「敗北」しているのではないか。』という一文。なんと美しいのだろうと感動しました。作品を書いているときに思ったことではないのですが、本当にそうだなと思います。

    本作品は、善悪や勝ち負けを軸にして書いたつもりがなかったので、そういう見方もあるのかと勉強になりました。

    「本作は、五年後のリナが当時のリナになりきって書いているような印象を受けました」
    上記のご指摘、なるほどと思います。作者の中では、もう二十代半ばの女性は、恋愛経験や社会経験が少なくても十分に大人です。十歳の娘がおりますが、すでにいろいろな機微を理解しているように感じます。なので、リナが年齢の割に俯瞰しすぎているとは思わないのですが、おそらく、リナの視点で書きながら、作者の視点が入ってしまったのかもしれないと思います。「子ども」か「大人」かというよりは、作者が当事者になりきっていない。当事者の渦中の心理を書ききっていない。そこをもっと工夫できれば、もっと臨場感が増すかもしれません。

    フィンデルさんの、書き手を尊重し書き手に寄り添って書かれる感想、多くの書き手に良いエネルギーを与えていらっしゃると思います。今回、フィンデルさんに感想を書いていただいて、優しさのあふれるプレゼントをいただいたように感じました。

    とても骨の折れる、ご負担のかかる作業だと思います。本当にありがとうございました。どうかご自愛くださいませ〜。

    作者からの返信

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    本作品は、善悪や勝ち負けを軸にして書いたつもりがなかったので、そういう見方もあるのかと勉強になりました。
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    私の感想も同様の主旨ですよ。善悪や勝ち負けを軸にして書いていない作品という解釈です。善悪や勝ち負けを軸にして書いていると解釈していたら真北という判断になっていたはずです。
    もちろん全ての解釈が一致しているわけはないとは思いますけどね。

    またリナが俯瞰できすぎているというのは、まだ若いのに、ということではありません。年齢は関係ありません。二十代半ばはもうこれこれ、ということではありません。
    たとえるなら「森を歩いていると熊と遭遇した」としましょう。熊と遭遇して熊と視線が合って「うわっ」と思う。このときその場で「この『うわっ』はどういう感情なのだろうか」「熊のどういうところに自分は『うわっ』と思わされたのだろうか」を、的確に言語化できる人はそうそういないはずです。そんなことを考えている場合ではないからです。これを的確に言語化できるかどうかに年齢は関係ありません。大人かどうかは関係なく、人生経験が豊富かどうかも関係ありません。酸いも甘いも噛み分けた人も熊と遭遇すれば「うわっ」と思って頭フリーズです。関係あるとすればただただ「熊と遭遇した経験」が豊富かどうか、だけでしょう。
    リナにとっては山崎の妻は熊だったのです。初めて熊と遭遇して熊に殺意を向けられて「うわっ」と思ったのに、リナは「この『うわっ』はどういう感情なのだろうか」「熊のどういうところに自分は『うわっ』と思わされたのだろうか」を的確に言語化できてしまっているのは違和感があります、ということです。

    熊と遭遇した人が「この『うわっ』はどういう感情なのだろうか」「熊のどういうところに自分は『うわっ』と思わされたのだろうか」を分析できるようになるのは、事件からずっと先のはずです。ほとぼりが冷めてからです。
    そして山崎の妻の「うわっ」は熊の「うわっ」よりも複雑であることが想像できるので、リナが「ほとぼりが冷める」と感じて当時を分析するには五年くらい必要かもしれませんね、ということです。リナが五十歳でも五年必要だったと思います。
    私の伝え方がハイコンテクストすぎたのだと思いますが、「“大人”=大人」ということではありません。年齢は関係なく、生き方や考え方の話だろうと思います。

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    「子ども」か「大人」かというよりは、作者が当事者になりきっていない。当事者の渦中の心理を書ききっていない。そこをもっと工夫できれば、もっと臨場感が増すかもしれません。
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    私もこれをお伝えしているつもりです。

    ありがとうございました!

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