第31話 脅える女のいる風景
一連の出来事の真相をまとめておく。
始まりは、シオン皇帝の母、ネフェルが病にかかったこと。
症状を見聞きした限り結核ではないかと思われるが、帝国は回復術に頼りきりで、医術に関して全く進歩がなく、それすらはっきりしない。
とにかく一度咳をすると止まらなくなるようで、ひどいときには血まで吐き出す始末。魂が抜けていくような痛々しい咳は、耳を塞ぎたくなるほど。
鏡を見てみれば、かつて帝国を混乱に陥らせた妖艶さは消え失せ、男たちを魅了し続けた豊満な肉体も、元型がわからないほどしぼんでしまった。
事実、俺の目に入るネフェルは、青ざめ、痩せこけた木の枝にしか見えなかった。
これはまずいと、ネフェルも脅え始める。
異国から腕の良い医者を招いても「これはもう無理」だとさじを投げられる。
ついに気付く。
死が間近に迫っている。
当然、死にたくない。
まして、シオンが皇帝になったばかりの大事な時期に、愛する息子を残して死ねるはずがない。
何度か触れたが、先代の皇帝と違いネフェルは回復術者を「詐欺師」と嫌い、彼らから多くの権利を奪い取ったいきさつがある。
死の淵に立っても、回復術者に頭を下げることだけは恥と考えるネフェル。
ここで役に立ったのが、シオンが持っていたリスト、中身がなんなのかわからないまま持っていた回復術者のリストである。
まず地下に隠れ、治療室をこしらえ、潜む。
息子のリストを写し取り、そのリストに書かれていた術者を片っ端から連れてきて、治療させる。
あのネフェルが術者を頼った。という事実は作りたくないから、あくまで側近のジェマが倒れた、ということにした。
水を含んだスポンジから一滴の水も残らないくらい搾り出すかの如く、ネフェルは回復術者をこき使った。
力を使い果たし、倒れ、死んだ術者もいたが、ネフェルにとって彼らはボロ雑巾みたいなものであり、どうとも思わなかった。
なのに良くならない。
悪化している気さえする。
とにかく腕の良い術者を連れてこいというネフェルの指示の元、今日も騎士達は都を歩き回っては狼藉を働いている。
ファレルが言ったように、こんな事を続けていればさすがにバレる。
エノクはリストを見た瞬間にすべてを悟ったし、元々数が少ない回復術者ばかりをさらっていたら、いずれシオンだって気づくだろう。
そもそも帝国の事実上のトップが公の場に一向に姿を見せないのだから、やはりこのやり方は無理がある。
当然、ネフェルもそれがわかっている。
だから荒れる。
「この馬鹿! インクが入っておらんではないか!」
高そうな万年筆を側近の女性に投げつける。
ネフェルは大量の書類に目を通し、一つずつサインを書いているようだった。
背中を支えて貰えなければ身を起こすこともできない弱った状態で、一心不乱に殴り書きを続ける。
「私が不在なのをいいことに、つまらんことに金を使おうとする者ばかり……。認めぬ、こんなものは認めぬ……」
書類に「否」あるいは「不採用」と書き続けるその顔は、何かに取り憑かれているとしか思えないくらい狂気を感じる。
「太后さま……、もうお休みください」
心配そうにネフェルを寝かそうとする小太りの中年女性がいる。
彼女がジェマだった。
一見すると、下町の食堂で働いていそうな威勢の良いおばさんだが、その灰色の瞳を見たとき、俺は底知れぬ怖さを感じた。
「このような仕事など他に任せて良いではありませんか。なぜ何もかも一人でなさるのです。これでは治る病も治りません」
もっともな言い分だが、ネフェルはジェマの方を見ることなく、まるでお経を唱えるかのように、
「信用できん、信用できん、信用できんのだ……」
と呟くだけ。
エリアは体を震わすくらい、ネフェルに脅え、嘆いた。
「どうしてこうなっちゃうの? 元々厳しい方ではあったけど、あんな狂ったような振る舞いはしなかった。まるで人が変わったみたい……」
俺はこの国の諸事情にまるで詳しくないエイリアンだが、だからこそ客観的に物事を見ることができると思っている。
「あの人が相当エグいやり方で今の地位に登り詰めたことはクロードから聞いたよ」
エリアにしか聞こえないくらいの声で俺は話した。
「誘惑したり、騙したり、煽ったり、裏切ったり、しまいに殺したりとかな。だからだよ。汚いやり方でのし上がった人は、いずれ自分も同じ目にあうと思って怖くなる。人を頼ったり信じることをしなくなるんだ。日増しに疑い深くなっていって、とうとう殺される前に殺せなんて呪いに縛られる」
「……」
「お、おまえ、エリアか!」
とうとうこちらに気づいたネフェルが叫んだ。
大声を出したばかりにまたひどい咳を連発する。
「お久しぶりです、ネフェル様……」
気まずそうに頭を下げるエリアに向け、ネフェルは黒いインクがたっぷり入ったボトルをぶん投げた。
避けようと思えば避けられたのに、エリアはしなかった。
黒いインクが肩口から腰まで、血を浴びたかのように付着する。
「術者を呼べとは言ったがこの娘を連れてこいとは言っておらん!」
机にあったものすべてをエリアや召使いに投げつけ、発狂する。
「こいつが私のシオンに何をしたか知らんのか?!」
誰が呼んだ、誰が連れてきた。そいつを呼べ。
咳をしながら叫ぶと、礼拝堂で俺たちに膝を突いて懇願した騎士達がネフェルの前に連行された。
「こやつらの首を切れ」
ネフェルが命令するが、誰も指示には服さない。
ただ戸惑うだけである。
「はやくせんか!」
絶叫するネフェルの怒りだけが下水道に響く中、沈黙を貫いていたファレルがついに動いた。
騎士の一人が持っていた剣を奪い取り、そいつの腹にズブリと刺す。
悲鳴と絶叫がこだまする中、ファレルは血を流して倒れた騎士を瞬く間に癒やしてみせる。
最高のデモンストレーションだった。
ネフェルは虚ろな目をしながら、唇だけで笑みを作った。
「お前のような術者を待っていたのだ……」
「光栄であります」
ファレルは小さく会釈する。
「頼む、はやく治しておくれ」
ゴホゴホ咳をしながらベッドの上で大の字になる。
「お願いがございます。騎士達が私達から奪った武器とギアをお返しいただきたい。これがないと本来の力が出ません」
「それは困る。急いで返しておやり」
ネフェルが急かしたので、騎士は慌ててその通りにした。
白々しく感謝の言葉を述べた後、ファレルはネフェルの右手を軽く握った。
「おお……」
今までと違うパワーをネフェルは感じ取ったらしい。
「これが癒やしというものか……」
両の目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべる。
「よい、よいぞ。何故お前をもっとはやく連れてこんかったのか」
「しばらく帝都におりませんでしたので」
「そうかそうか。よいよい。名はなんという? 私の手元に置いておこう」
「ファレルと申します」
その言葉だけで、ネフェルは全身を射たれたようにビクビクッと体を震わせた。
俺はあの時のネフェルの顔を一生忘れないだろう。
疲れ切った顔にかすかに残っていた希望。ようやく治るという安堵感。
それらが一瞬のうちに、恐怖という文字に上書きされていく。
その絶望的な顔を。
「な、なんと……」
閉じていた目をかっと開き、手を握る女を凝視する。
「覚えておいでですか。あなたに生きながら土に埋められた、ファレルです」
ネフェルの咳がよりひどくなり、ついにかっ血する。
「馬鹿な……、おまえはたしかに」
「死んではおりません。私の力をもってすればどんな場所であっても抜け出すことは容易です。何故それくらいのことがおわかりにならなかったのか」
ファレルは言った。
「あなたは不用意でした。何もかもが」
「お、おお……」
ネフェルの顔がゆっくりとジェマに向けられる。
助けてくれと目で合図しているようだが、ジェマはただ首を振るだけだ。
「か、体が動きませぬ……」
ジェマだけでなく、俺もそうだったし、エリアもそうなのだろう。
ファレルとネフェル以外の全員が金縛り状態になっていた。
「だ、だれか」
ネフェルはゼーゼーと呼吸を乱しながら、俺たちに訴える。
「助けておくれ……」
「私が今、こうやって助けてあげているじゃございませんか」
ファレルは医者のように事務的に呟く。
「安心なさい。あと少しですべてが終わります」
しかしネフェルはファレルにしがみつく。
「許しておくれ、あの時は……、あの時はそうするしか」
「いまさら何を仰います。アレンとセシルの影響力を王宮から取り除くには私がいなくなることが何より重要だったでしょう。あなたは自分が正しいと思うことをしただけ。それだけです。そして今、その報いを受けている。それだけです」
言葉は優しいが、ファレルはネフェルの髪を乱暴につかみ、サディスティックな笑みを浮かべながら話しかける。
「一つ、教えてさしあげましょう。この世界には回復術なんてものは存在しない。ただの勘違いなのです」
帝都の民にとって天地がひっくり返りそうなことを、ファレルは平然と言った。
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