第2話 歯車
「久野順平は私の兄です」
と、久野英美里は静かに言った。
「そうだったんですか……」
久野順平に、久野英美里。
同じ久野だとしても、両者に血の繋がりがあると誰が考えるだろう?
かたや才能、美貌、名誉、資産、手に入れられるものはすべて手にしてきた人。
かたや、失礼は承知の上で言わせてもらうが、何一つ手に入れること無く、道に落ちた枯れ葉のように処理された男。
おっさんは身内が世界的著名人であることなど一言も口に出さなかった。
まあ聞いていたとしても信じたかは別の話だが、それとは逆に、俺の存在は妹の耳に届いていたらしい。
「勤め先で凄く親切にしてくれる人がいるって兄が言ってたんですけど、あなたですよね。感じでわかります」
「あ、えと……」
柔らかい笑みをたたえてこちらを見つめる久野英美里に対して、俺は文字通り、見とれていた。
不思議な人だった。
まるで地面から数ミリ浮いているような。
なんだか現実に存在する人ではない気がして、バカみたいに大きな瞬きを繰り返しながら俺は彼女を見つめ続けた。
「こんな状況で言うのは間違いなのはわかってるんですけど……、新作めっちゃ面白いです」
喪中の相手に対して、空気の読めない馬鹿だと思うかもしれないけどさ。
これしか言葉が出てこなかったんだよ。
「ありがとうございます」
久野英美里は穏やかに微笑むだけでなく、話を膨らませてくれる。
「今回は満足しています。商業作品って時間との闘いだから、どこかで妥協しないと表に出せない。だからいつも悔いが残るんです。ここを変えるべきだった。削るべきだったんじゃないかって。けど今回はそれが無くて。据え置きだけじゃなく携帯機でも出せるし、質においても、技術に関しても、やりきった。悔いは無い。満足感でいっぱいなんです」
「それは凄い……」
久野英美里が自分の作品を褒めたことはあまりない。いや今まで一度もなかった。
それくらい向上心が強くて完璧主義者ということなのだろうが、今回に限って満足しているというのは、ある種の天変地異に近い衝撃である。
それに今、さらっと携帯機でも出せると言っていたけど、これ、世間的にはまだ公表されてない気がするぞ……。
いやあ、この衝撃的な出来事をぜひSNSに流してみたいものだが、ここでのやり取りを公表するのはあまりに野暮というか、マナー違反だというのは俺でもわかる。
この瞬間は良い思い出として墓場まで持っていく案件だろう。
「あの、少しお伺いしていいですか?」
「あ、はい、なんでしょう……」
久野英美里はためらいがちに俺を見つめる。
「正直言って、兄は何もできない人でしたよね。私もよくわかってます」
「え……」
「不思議なんです。どうしてそこまで兄に良くしてくれたんです? イライラすることばかりだったでしょ?」
「……」
戸惑い、無言になる俺の顔にはもう答えが出ていたのだろうか。
久野英美里は深く頷いた。
「兄はすべてを私優先で生きてきたから」
絶妙なラインで描かれる美しい横顔に影が差した。
「両親が死んだあと、私たちは笑えるくらい貧しくなってしまって。兄は大きな負担を一人で背負ってくれました。受けられる保護や教育などすべて放棄して、私が何の苦労もなく学校を卒業するという、ただそれだけのために、ひたすら、がむしゃらに働いてくれたんです」
久野英美里の視線の先には、ちょっと触れただけで崩れ落ちそうなボロのアパートがある。
「私が独り立ちして兄の援助が必要なくなって、これからはもう自分のために生きて良かったのに兄はそれができなかった。やり方がわからなかったんだと思います」
ある日のおっさんの姿を俺は思い出す。
お前ってやつはどうしてこんなに無能なんだという意味に近い言葉を職場で浴び続ける。それだけのために会社に来るような人生。
「私が兄のために何かしようとすると、兄は拒むんです。家のこととか、お金のこととか、できる援助は全部すると言っても兄は笑って拒絶する。もしかしたら、根っこのところで兄は私のことを憎んでいたかもしれない。そう考えるときもあります」
「……」
なんだか思いがけず濃いやり取りになって、俺は立ち尽くしている。
なあに、わかっているさ。
彼女は兄の死を自分の中で整理しようとしている。
彼女にとって俺はたまたま現れた、都合のいい聞き役、そう、壁でしかないのだ。
だからこそ俺は沈黙を貫いた。
「兄は時々言ってました。俺は奴隷じゃない、歯車だって。歯車は噛みあうものを生かすからって。その言葉の意味を私はいつも考えています」
そして久野英美里は俺を見上げて言った。
「兄の人生に意味があった事を証明するために、あなたに伝えたいことがあります」
「……?」
「ギアズトリロジーの序盤に出てくる森がありますね。あなたが誰を操作していても、あなたはきっと馬車に乗っている」
「え、ええ、ありましたね、そんな状況」
いきなりゲームの話になるもんだから困惑するが、久野英美里は笑顔を維持したまま話し続ける。
「道が三つに分かれるところで馬車を降りて、立て札の真裏、道のない道をひたすら直進してください。隠し部屋を作っておきました」
「お……。もしかしてエノクですか?」
エノクとは久野英美里のゲーム内でのキャラだ。
彼女が作ったすべてのゲームにはエノクがどこかに存在しており、それを見つけ出すと冒険に役立つアイテムを手に入れることが出来るという、ヤンファンエイクお馴染みの隠し要素。
「いえ、エノクは別の場所にいます。きっと、それよりもっといいものがあるはずです」
「おお……」
凄い情報を手に入れた。
おっさんのせいで萎えていたゲームへの欲求が再び燃え上がるのを感じる。
「でも話を進めちゃったから、そこには戻れないな」
「戻れますよ。戻れば良いんです」
久野英美里はやけに力強く言った。
「世界ってそうあるべきですよね。どこにでも行ける。何でも起きる。何でも起こせる。境界線すら
久野英美里はここに来て初めて、世間一般に見せる自信に満ちた、いつもの勝ち気な表情を取り戻した。
「必ず行ってください。兄の、いえ私たちのために」
そして久野英美里は深く一礼すると、俺に背を向けて歩き出し、夜の闇に溶けるようにいなくなってしまった。
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