7.FIREした男

 薄暗い階段を降りて小さな通用口から八階に入ると、急に広い空間に出た。ここだけでフロアの半分近くを占めそうな、無駄にだだっ広い部屋だ。クッション性の高い紺色のタイルが敷かれ、壁にぽつぽつと掛かる間接照明がぼんやりと暖色の光を放っている。


 ずっと向こうのほうにぽつりと、黒い革張りのソファセットとローテーブルがあって、俺を正面から見据える位置に男がひとりで座っていた。


 中性的とでも言うのか、無名のファッションモデルくらいはしていそうな、つるりとした顔立ちだ。おかげで年齢不詳だった。白無地のロングシャツに七分丈の黒いスキニーパンツ、足元は裸足だった。部屋着みたいな格好なのに、斜めにソファにもたれるような気取った座り方と顔のおかげで、ムカつくほど様になっていた。


「あれ? 二人来るって聞いてたんだけど」男は姿勢を崩さず、俺を見てまったく心のこもってない笑みを浮かべた。


 俺は一応、後ろを振り返った。

 オリガは付いてきていない。


「どっちの人かな。ごめん、僕、新入りだからよくわかんないんだよね。色々レクチャーされたんだけど覚え切れなくて」

「新人研修みたいなのがあるの? 大変だな」

「ナントカ連盟、だよね。そんで、暴れる人と、眼鏡の人」

「俺も眼鏡だけど」

「ああ、じゃあ、君が暴れる人か」


 誰が暴れる人だ。事実そうだとしても、Nコートの連中にだけは言われたくない。


「よろしく。僕はキバチ」男はまだ十メートル以上は離れている俺に向かって、握手するように右手を差し出した。「植木鉢の植を取って木鉢だよ。刺す方の蜂じゃなく」

「はあ」


 え、何これ、俺も名乗らないといけないやつなの?

 握手なんて絶対に危険しか無さそうだが……向こうにとっても俺に触れられるのは困るんじゃないのか。


「新入りってことは、お前が赤ジャンパーの男?」

「え、そう言われてるんだ?」キバチは笑った。「確かにあのアウターは目立つからね」

「わかりにくいからずっと着ててくれないかね」

「ははは。君は面白いね」


 キバチは立ち上がって、ソファの後ろ側にひっそりと置いてあった背の低い戸棚を開けた。中は小型の冷蔵庫で、灯りがついてビールと酎ハイの缶が並んでいるのが見えた。


「一杯どう? お酒は強い?」

「昼からは飲まないよ」俺はその場から動かずに言った。

「へえ、今、昼なんだ? ごめんごめん。昼夜逆転しちゃってて……」キバチは言いながら、9.0%と書かれたギラついたデザインのロング缶を開けて、立ったままグビグビ飲んだ。


 アル中かよ。なんなんだこいつ。

 ススキ達とは全く違った意味で怖い。訳がわからなすぎる。


「ま、せっかくなので座ってください。ソフトドリンクもあるんで」キバチは冷蔵庫から小さめのペットボトルを出し、俺から見て手前側の一人掛けソファの前にトン、と置いた。


 俺は渋々ながら歩み寄り、ソファに掛けてペットボトルの緑茶を取った。


 未開封のボトルに何か仕込まれているとは思えないが、あまり飲む気にはなれない。


「ここで何をしてる?」と、俺は聞いた。

「うーん、何も。ずっとゴロゴロしてるかな。好きなもの飲んだり食べたり。アニメ観たり漫画読んだり……」


 やべえ。まったく意味がわからない。


「ここで暮らしてるの? Nコートの新人メンバーとして?」

「さあ。わかんない。僕は一員ではないんじゃないかな」キバチは無責任に首を傾げた。「こうやって大きな部屋用意してもらって、を受けてるから。お客様みたいな感じなんじゃない? 仲間内の会議とか打ち合わせみたいなのに入れてもらったことないし、下の階に入ったことはほぼ無い」

「え、何、軟禁されてるの?」

「いや、全然、全然。そこの鍵だって開きっぱなしだし」キバチは俺の入ってきた扉を見やった。「外出は自由だよ。でもデリバリーも通販も来るし、出る必要も無いよね。今さ、コンビニだってアプリで頼んだら半日くらいで全部届けてくれるのね。これ便利すぎてヤバいね。しかも自分の金じゃないわけだから」

「えっ」

「もう天国みたい、というかここが天国でいいよ」キバチは本当に嬉しそうに笑ってソファにドサっと寝転んだ。

「お前の天国ってこれでいいのか?」


 確かに広くて静かで清潔だが、薄暗い巨大な部屋の隅にソファがぽつりとあるだけ。あまりにも異様だし、雰囲気的には廃墟とあまり変わりない。俺だったらここで一晩過ごせと言われたら朝までに発狂すると思う。


「なんか事情がよくわからないけど、Nコートが生活費持ちでお前を囲ってるんなら、せめて普通のビジネスホテル並みの部屋とか用意できなかったの?」

「いやー、これね、ある程度僕の要望が通った結果だからね」

「えっ」

「僕、アニメが好きなんですよ。別に昔からのオタクってわけでもないけど、最近マイブームでね。それで、ここの皆さんに能力を見込まれてを受けることになったとき、ちょっとダメ元で言ってみたんです、プライベートシアターが欲しいって。ここね、そっち側の壁にプロジェクターで画面を映して、簡易的なミニシアターになるんです。いいでしょう」


 キバチが差した、彼の寝転んだ足の先の方向にある壁は、確かに間接照明のたぐいも一切無く、異様にのっぺりとしていた。


「で、最初は気に入ってたんだけど、なんかしっくり来なくて、ほら、僕って根が貧乏性じゃないですか?」

「いや、知らん」

「結局、手元の端末の小さい画面のほうが落ち着くな、ってなっちゃって」

「はあ」

「ま、だから、シアターとしては結局使ってないんだけど、このなーんにもない広い空間が全部僕のものっていう感覚が最高に楽しくて。この裏の別室にベッドとかリビングみたいなのも一応あるんだけど、この部屋が一番好きなんで結局ここで寝起きしている」


 うーん。なんだろう。こいつは狂ってるな。

 Nコートのせいではなく元から何かがおかしい奴なんだろう。


 まあどっちにしろ俺の要件は同じだ。


「連盟がお前を保護するそうだ。Nコートと手を切ってこちらに来てくれ」

「やだね」キバチは寝転んだまま、斜に構えた怠そうな角度で俺を見た。

「ヤクザみたいな連中に一生飼い殺されて暮らす気か?」

「ヤクザ? 怖いこと言うね。大袈裟だなあ」

「お前は今んところ良い思いしかしてないからそう思うんだよ」


 だいたい、俺のときとの扱いの差が酷すぎないか。人間扱いしてないって意味では似たり寄ったりではあるが。


「良い思いしかしてないし、今後もそうだよ」キバチは自信たっぷりに言った。「僕が羨ましいからなんて理由で僕の幸せを取り上げないでくれるよね?」

「待て待て、ひとつも羨ましくないぞ」

「だって夢のFIREだよ。それが叶ったんだよ。こんな叶い方になるとは想像もしてなかったけど」

「ファイア?」

「知らない? 早期リタイアして人生を楽しむんだ。余生は貯蓄を投資に回して暮らす」

「はあ」

「贅沢にも自己実現にも興味はない。人生を楽しみたい」

「けっこうな贅沢してるようだけどな」俺はソファセットと冷蔵庫と、ミニシアターにもなる巨大な空っぽの部屋を見回した。


「とにかく説得しようとしても無駄だよ。連盟がこれと同じ暮らしをさせてくれるんなら、そっちへ移ってもいいよ」

「それは自分で交渉してくれ。多分駄目だと思うけど」

「でしょう。わざわざ移るメリットが僕に無い」

「でもお前のせいでモノレールが止まり続けて、だいぶ多額の損害出てるからな。おとなしく犯罪者としてムショにぶち込まれたらいいのでは? 贅沢を望まないのならムショでご飯出してもらうのも悪くないだろ」

「なんで僕が犯罪者なんだよ。他人に特別な力を与えちゃいけないって法律があるの?」

「どうなるかわかってて与えたんなら普通に共犯だと思うが」

「……僕は雇われて仕事をしてるだけだ。今の生活はその正当な報酬だよ」

「じゃFIREしてないじゃん」

「……いちいち突っ掛かるね」

「モノレールを止めるのは犯罪だからな。犯罪者に優しくする義理はない」

「モノレールを止めろなんて僕は指示してないし、Nコートからそういう指令が出てるわけでもないよ。僕はただ、定期的に街へ出て特技者を増やすというノルマをこなしただけ。それは世の中の変革のためだと聞いた。僕の力で世の中に特技者を増やせば、いずれ世の中も僕らを無視できなくなる。認知されないマイノリティから認知されたマイノリティへと、格上げされる。それが特技者全体にとっての利益になるんだ」

「お前はそう説明されて、信じたの?」

「信じるも信じないも無いだろ? 特技者が増えれば世の中がそれを無視できなくなるのは事実なんだから」

「でもお前の作り出す能力は、モノレールの沿線に特化して列車や利用客の移動を妨害するという、イマイチ使いでのない能力で、Nコートにしてみりゃ世の中を混乱させて悪事の隠れ蓑にしたり、くらいしか使い道は無かったわけだな」


「あのね、僕を怒らせようとしてる?」キバチは勢いをつけてソファから起き上がり、テーブルの上の酎ハイの缶を掴んでぐっと俺の方に身を乗り出した。


「忠告をしてるんだよ。お前程度の特技者に一生分の贅沢な暮らしを用意するほどNコートは気前良くない。こんな暮らしは今日か明日にでも破綻して、お前は無一文で追い出されるだけだぞ。そこで文句でも言おうものなら、口止め料の代わりに指の二、三本を叩き折るくらいはするぞ、あいつらは」

「やってみろよ」キバチは酎ハイを一口煽り、鋭い音を立てて缶を置き直した。「君が暴れる方だよね? やれよ。喋ってないで実力を示せ。僕が羨ましいからって足を引っ張るんじゃないよ」

「お前、話聞いてるようで聞いてないだろ……ほんとに酔っ払いだな」


 連盟が何かするまでもなく、こいつは酒で自滅しそうだ。それまで待っても良かった気がする。


 これ以上話すこともなさそうなので、ご要望の通りテーブルの縁の輪郭線を剥がした。


 


 重そうな黒いローテーブルが裏返って消えた。


「あ!」床に転がった酎ハイの缶を見てキバチは叫んだ。「こぼした!」

「またそこから取ればいいだろ」俺は冷蔵庫を指した。

「じゃなくて、床が汚れるだろう!」

「ああ、床ね。はいはい」俺は低反発素材のフロアタイルの継ぎ目を探し、浮き上がってきた輪郭線を剥がした。


 大きな正方形のタイルがパタパタと抜けて、ざらついたコンクリート面が剥き出しになる。


「ちょっ、やめろよ!」キバチはソファから立ち上がり、かなり本気の様子で怒鳴った。

「別にいいじゃん。お前の金じゃないんだろ?」

「僕の受け取った報酬だ」

「みみっちいなあ。自分で稼いで買えよ」

「だから稼いでるよ! これこそ犯罪でしょうが」


 タイルが一枚ずつ消えるのが面白くてどんどん剥がしていたら、不意にぎゅっと腕を掴まれた。

「モトちゃん」オリガが、いつもの叱りつけるような調子で言った。

「そんなに壊してないだろ、今回は」

「充分です」


 キバチは虚空から現れたオリガを目を丸くして見つめ、「君が眼鏡の人か」と言った。


「眼鏡二人いますけど……」オリガは俺を見た。

「気にするな。こいつ馬鹿なんだ」と俺は言った。

「はあ?」キバチは拳を握りしめて怒鳴った。

「あと、酔っ払ってる」と俺は付け足した。「話が通じる状態じゃない。連れて行こう」

「こんなに警備が手薄なら、私も普通に入れば良かったですね」オリガは言いながら空いてる方の手でキバチの腕を掴み、俺とキバチを同時に掴んだ状態で、胸ポケットに差し込んだ端末に向かって言った。「帰るんで、をください」


『どうぞー』

 通話中らしい端末のスピーカーから、大佐戸の声が聞こえた。


 目の前がチカチカと揺れる。


 事務所のデスク前にいる大佐戸が、人差し指の先に点いた炎を操り、咥えた煙草に近付けているのが見えた。


 あれは生活に便利そうな特技だな。ライター要らずだ。


 剥がれた床に酎ハイの缶が転がる薄暗い部屋の景色が、どんどん現実味を失って遠ざかる。


 意外と簡単だったな、と俺は思った。オリガのこの能力は、回数制限があることを除けばほぼ最強なんじゃないか。戦闘には向かないが、説得と保護を目的にしている連盟の仕事は彼の天職だろう。俺の出る幕など無い。


 大佐戸の待つ事務所に飛ぶものと思い込んでいたので、しばらく、どうして風が吹いているのかわからなかった。ピンポンピンポン、と耳につくチャイムのような音が鳴り響き、無数の窓が目の前を右から左へ流れて行く。


「あっ」

 オリガの小さな声が聞こえ、俺は別な誰かに強く腕を引かれて引き離された。


 列車が次の駅に去り、薄暗く冷え込んだホームに静けさが戻ってきた。


「綺麗に引っ掛かったな。最近キレが良くないぞ、オリガさん」俺の腕を引いた男が、更にシャツの後ろ首をがっちりと掴んで言った。


 オリガはキバチの腕を掴んだまま、青白い顔でゆっくりと一歩下がった。


 俺は目だけ動かして駅名表示を探した。モノレールみやだい駅。連盟の事務所には近いが、目指した場所ではない。


 まずいことになった気がする。オリガはもう体力切れ、これ以上は飛べない。

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