6.オリガの秘密

 目を開けたのに、何も見えなかった。


 ああ、くそ。まただ。


 いい加減に慣れてきたぞ。何をされたかはわかっている。七階に上がった途端に背後から襲われたのだ。毎回毎回ご丁寧な歓迎だな。俺が何をしたって言うんだよ?


「ああ、起きた? ちょっと、目のとこ外してあげてネ」

 すっかり聞き慣れてしまった、軽薄そうで湿っぽい女の声が言う。ススキだ。


 俺にとっては本当に最悪の相手。


 ベリベリと目の上に貼られていたガムテープを剥がされる。これだけで結構心が折れそうなくらい痛い。こいつらは本当に人の身体を段ボールと同程度にしか思ってないんだろう。


 床に横たわる俺の目の前に、ローヒールのパンプスが見えた。以前会ったときと同じくショートカットにパンツスーツ姿のススキが、会議用机に腰掛けて足を組み、こちらを見下ろしていた。

 他の椅子や机は部屋の片側に寄せられている。俺は空いた空間の真ん中の床に荷物のように転がされ、足と腕を縛られていた。


「普通に話しかけられないわけ?」俺はうんざりした気分で言いながら、他に誰がいるかそれとなく確認した。


 俺を囲むのはススキと、初めて捕まったときにも見た気がする男が二人、知らない男が一人。

 オリガがいない。


「相棒は逃げたヨ」ススキが俺の視線を読んだらしく、にやりと笑った。

「はあ、そっすか」

 オリガにも腹が立つが、目の前の女には殺意が湧いた。

「おっ、今日はどうしたの、威勢がいいネェ」

「要求を言えよ。雑談しに来てるんじゃないんだ」

「まあ、まあ、そう急かすなヨ。ゆっくりやろうぜ。お前はめんどくさい男みたいだからネェ」ススキはふざけたような口調で言いながら、側の男を目で促した。


 小柄で無表情な男が、はああと面倒くさそうな溜息を吐きながら金属製の箱を持ち上げ、俺の目の前に音を立てて置いた。青くのっぺりとした塗料があちこち剥げて、縁の辺りは錆が浮いている。男が持ち手になっている棒を倒すと、階段状に四角い受皿が現れる。上段に釘やボルト、巻いたワイヤー、ドライバー、錐。中段には様々なサイズのペンチ、ニッパーのたぐい、カッター、ドリルの替え刃、小型の万力。下段の中央は俺の位置からは見えないが、鋸や金槌の柄と思われるものが幾つも見える。


 今からここでDIYでもないだろうし。

 だから、つまり、これを俺に使うってことなんだよな。頭が理解を拒否している。


 無理無理無理無理。絶対無理。


 あり得ないし。絶対死ぬし。死ぬよりひどいことになる。


 とにかく無理。


「なんで?」一瞬で口がカラカラに乾いていて、声が掠れた。

「え、なんでかわからないの?」ススキがとても楽しそうに俺を見下ろして覗き込んだ。

「超能力者がそんなに重要か?」

「そう、重要だよォ」ススキは子供に言い聞かせるような調子で頷いた。「お前は力ってものを甘く見てる。お前自身に力が有り余ってるから、その重要さがわかってないんだろうネ。暴力の力を甘く見てるし、金の力を甘く見てる。世の中を甘く見てるんだヨ、はっきり言って、舐めてるんだヨネ。違うかな?」


 それは質問なのか?


 一般論としてススキの言葉は理解できたが、状況に照らし合わせて何が言いたいのかは今ひとつわからない。必死で考えようとしたが、目の前に置かれた工具箱の迫力とススキの口調の威圧感に押されて、緊張と恐怖で思考が回らない。


 嫌だ、無理だ、とにかく嫌で絶対に無理。それ以外の思考が浮かんでこない。俺にはこの状況に抗う覚悟がないし、そこまでの動機がない。ここから逃れるために知恵を絞るということすら、まったくできそうになかった。


 何も考えられない。


「無茶苦茶にいい顔してるヨ。ヒナモトくん」ススキは余裕の笑みだった。「絶望に打ちひしがれてる感じだネ。とても良い。その顔が見たかったヨ」


 言葉が出てこない。息を吸う。まるで吸った感覚が無いくらいに苦しい。吐き出そうとして喉が震える。何してるんだろう俺。

 ここで何している? 何しに来たんだっけ? やっぱり何も理解できない。


「要件を」掠れそうになる声を振り絞る。「俺にどうしろって」

「要件はわかってるヨネ。最初っからネ。こっちはお前にたったひとつしかお願いしてないはずだヨ」

「………」

「わからない? と言っている。お前の力は強力だ。お前自身はどうしようもないゴミクズだが、その能力の強さだけは捨て置けないネ。お前自身はそれを甘く見て持て余してるみたいだし。宝の持ち腐れとはまさにお前のための言葉だネェ」

「………」


 そんなこと俺が知るかよ。勉強やスポーツじゃないんだぞ。生まれ持った力ですらないのに。

 俺の意思とは何の関係もない偶然と幸運で急に湧いてきた「力」が欲しいからって、こいつらはこんなに執着するのか。なんのために?


「正直お前みたいなのが連盟になびくと思わなかったヨ。当初は突っぱねてたみたいだったし、何故急に心変わりしたのかな? あの相棒の変人に絆されたかな?」


 緊張しすぎていて、ススキがオリガの話を始めたということに数秒気付かなかった。


「お前にそんな情緒があるとはネェ。そんなに義理立てするようなご縁があったのかな? まあ、何があったのか知らないが、結局お前を置いて逃げる程度の奴なのに」


 オリガは……まあ、いつも肝心なときにいない奴だし。保身を図って逃げた、という説明がそれほど合っているようには思えない。急にいなくなるのはいつも通りのような気がした。


「あんなのとなんで組んだの? あいつら金も出さねーでやりがい搾取するだけだろ? 役所とつるんで正義の味方気取りだけど、何ひとつ社会のためになることしねーだろ。経済を回して税金納めてる我々の方が、よっぽど社会貢献してるヨネ。綺麗事で世の中は動かねえんだからサァ」


 不思議なことに、ススキがオリガと連盟について見当違いなことを言えば言うほど、動悸が収まって頭が冷えてきた。


 オリガは何と言っていた?


 初手から全力で来る奴には理由がある。それ以外の奴にも……出し惜しみ、擬態、はったり。それぞれに戦略があり、そうしなければならない理由がある。


 ススキ達は最初に俺を捕まえた日、俺が完全に服従するまでは絶対に目隠しを取らなかった。俺が目と手を使う特技者だから。その二つを自由にさせれば、彼らにはリスクがある。俺が壊したものは元に戻らないし、俺に身体を攻撃されれば記憶を失ってしまう。


 輪郭線が。浮かび上がる。


 椅子の足、会議机の足、ススキの履くローヒールのパンプスとパンツスーツの裾、取り巻く男達の靴と脚、目の前に置かれた工具箱、ドライバー、錐、ペンチ、ニッパー、釘の詰まった袋、金槌の柄……


 ススキがリスクを承知で俺の目隠しを取らせたのは、道具を見せて脅すためだ。俺に何も考えないようにさせ、素早く説得するため。おそらく理詰めで説得するのは無理と見て、恐怖に訴えて言いくるめる方を選んだ。

 だが、ススキはリスクを取り過ぎた。甘く見たのはススキの方だ。初めて捕まえた時の何も出来なかった俺、その後の無気力で従順だった俺の印象が強かったのだろう。


 後ろ手に縛られた手首が痛い。麻縄のようなものがギッチリと巻かれている。指先が痺れ、感覚が遠い。それでも自分の指がどこにあるかくらいはわかる。


「あの、俺がオリガと組んだのは、あいつが一番強そうだったからで」俺はススキを見上げて言った。

「ふーん。そうなの?」ススキは心底興味無さそうに言った。

「だから別に方針を変えたつもりはないし、Nコートから引き止められた覚えも無かったから」

「ふーん、そう?」

「……オリガより強そうな奴が現れれば、俺はまたすぐに寝返りますよ」

「あ、そう」ススキは組んでいた脚を解き、会議机からひょいと降りた。そのまま慣れた動作で金属の工具箱を踵で蹴る。


 ガチャン。


 中の道具がぶつかり合って不吉な音を立てた。


「じゃ、まあ、シンプルな話だよネ。今すぐ心変わりしてもらうヨ。ちなみに、足の爪と手の爪ならどっちが好きかな」


 俺は答えずに、手首を縛る縄の


 見えている。二玉駅で改札階からホームを破壊したときと同じだ。俺の特技の発動は俺の目に輪郭線が見えていることが条件だが、また逆にこの能力を通して、俺は、本来の視界には無いものを見ることができる。


 見えるから剥がせて、剥がせるから見える。


 後ろ手に縛られた自分の手が、指が見える。手首に厳重に巻かれた麻縄の輪郭線を剥ぎ取り、脚を縛っていた縄も同様に消す。床から起き上がりながら、すかさず工具箱の縁に手を伸ばした。


「あ」ススキが飛び退くように一歩下がった。


 工具箱が消え、中身がバラバラに飛び散る。

 工具の折り重なった山からまた輪郭線を拾い、それを床の継ぎ目へ、積まれた机と椅子へ、そして壁へと繋ぐ。


 やり過ぎるとまずいか? でも緊急事態だし。

 俺がたった今死ぬほど怖い思いをしたんだから、これくらいの反撃は順当な正当防衛だろ。


 とりあえず腕を全力で振り抜いて部屋の壁を二面ほど消し、天井まで繋いで剥がそうとしたところで、後ろから腕をぎゅっと掴まれた。

「モトちゃん。見つけましたよ」

「もうちょっと剥がさせろ」ススキと手下どもの記憶も今ここで剥ぎ取っておけば綺麗に片付く気がする。

「これ以上壊さないで」オリガは子供を叱るような口調で言った。

「けどさ、お前がなかなか助けに来ないからこうなるんじゃないの?」

「モトちゃんみたいに無限には動けないんです、私は」


 目の前がチカチカと揺れる。ここにいるはずなのに、ここにいない。半壊したビルの一室でススキ達が呆気に取られている視界と、日差しの降り注ぐ屋上で無人の駐車場を見回している視界が、交互に現れては消える。


 まもなく、ススキ達のいる視界は急激に現実味を無くして薄れ、屋上の景色だけが残った。


 すっかり日が高くなっている。

 使われなくなって久しい屋上駐車場のようだった。区画を示す白線や「徐行」の文字が虫食いのように欠けて、薄れている。屋上の縁を囲む背の高いフェンスも、クリーム色の塗装が退色して錆び始めている。


 オリガは後ろから握りしめていた俺の腕を、ようやく放した。


「……俺を見捨てて逃げた?」俺は振り返って聞いた。

「見捨ててない。そんなことしません」

「そう?」

「まあその、逃げたけど、私が一緒に捕まると脱出できないので」

「まあ、それはそうだよ、わざわざ仲良く縛られる必要は無いよな。結局助かったわけだし」

「……モトちゃん、怒ってる?」オリガはようやくかなり真顔になって、困ったように俺を見返した。


 何だろうな。腑に落ちない。


「オリガの一日に数回しか使えない特技って、これのことだった? 今のこれ……」

「はい。違うところに飛べます」

「自由に、好きな場所に瞬間的に行ける?」

「そんなに自由でもなくて。強い力を使ってる人の近くに飛ぶのが無難です。次元の歪みが目印になるので。それ以外だと、ある程度ギャンブルで、安全な場所に出られればラッキー、みたいな」

「そう……なんで、俺にこの能力隠してたの?」

「あー……その、知ってると思ってたんで」

「嘘をつくなよ。しょうもないな」思わずイラッと来て俺は声を荒らげた。


 もちろん、知っているべきだった。カンナ中央ネットのビルの騒動のとき、最終的に次元を歪ませ過ぎて自滅しかけた俺を、オリガがこの能力で脱出させたのだ。あの時は何もかもほぼ初めてのことだったし、考えるべきことが他に多過ぎて気が回らなかった。


 オリガの能力は連盟の内部ではよく知られていたはずだ。所長の大佐戸が「お前の体力次第」と言ったのはこの能力のことだったし、鍵山を連れた俺がオリガとはぐれた日、応援に来ていた皆川は「オリガさんは相変わらずですね」と言っていた。連日疲れ切っていたのも、何度もこの能力を駆使して新しい特技者を連れ帰っていたからだ。


 それに、仲間内だけではない。つい先ほども、三澤はオリガを締め上げながら「」と迫った。普段のオリガなら、強めに苦しめて脅せば俺を連れてどこかへ「飛んで」逃げるはずだった。オリガがこの後の行動のために特技を出し惜しみして粘ったのは三澤の想定外で、だから彼女は戦略を間違えて失敗した。


 気づいても良かったことだ。俺が見落としていたのは、真面目に取り組んで考えなかったから。

 けど、オリガが俺の見落としを知っていて、敢えて黙っていたのも事実だろう。


 咄嗟にくだらない言い訳をする程度には、後ろめたい気持ちがあるらしい。こいつにそんな人間的な感情があるのが意外だったし、余計に腹が立った。


「あのさ、一応パートナーとして組めと言われて、お前がそれに納得したかどうかまでは知らないけど……」

「ごめん」とオリガは言った。

「それなりに危ないことはあるわけだし、身の安全を預けることになるんだから。そこは、俺のことをどう思ってるかとは切り離してやってもらわないと。それが出来ないなら断るべきだろ」

「でも――」

「俺を信用しきれないのはわかるよ。信用に足ることをしてきてないからな。でもそれとこれとは別だろ。お前が大佐戸に逆らえないんなら、俺から言ってやめさせてもらう」


 オリガは何か言いかけたが、飲み込むように黙った。


 俺は思わず溜息をついた。こんなことで揉めること自体、馬鹿馬鹿しい。ガキじゃないんだから。


「まだ、何回か飛べる体力は残してるのか?」俺は聞いた。

「はい。大丈夫です」

「じゃあ、今日やるべきことは片そう。ただもう今日限りにしてくれ」

「けど、モトちゃんは誤解してる」オリガは困ったような目で俺を見据えた。

「誤解?」

「私を買い被っていますよ。私はそこまで無欲な、善良な人間じゃない。モトちゃんと組むと決めたのは、それが私の得になると思ったからです。最初の日にそう言いましたよね」


 言ってたような気はする。「得をした」と。その意味はよくわからなかったし、今もよくわからないが。


「私が貴方に何か思うことがありながら我慢して組んでいるように思われるのは心外です。それは誤解です。私はそこまでお人好しではない」

「はあ。そう?」俺の目には十分なお人好しに見えるが。「まあ、今回の件で真っ白な善人じゃないことはわかったから。それで満足だろ?」

「モトちゃん、ごめん。……自分がちょっとでも有利な立場でいたかった」

「まあ、そういう保身は大事だと思うよ」

「ごめん」

「もういいって。この話題飽きたから」

「………」

「他意はないよ。本当に飽きた」俺は屋上を見渡した。「ここって同じ建物の屋上?」

「一応そのつもりだけど。ミスってなければ」

「じゃあ階段で戻れるかな。八階と、あと七階も……あいつらの顔をまた見るのも癪だけど、七階の他の部屋は一応確認しないと」

「……そう、うん」オリガはぎこちなく頷いた。「私はずっと、相手が例の特技を使ってくれるのを待ってるんですけどね。そうすれば次元の歪みが見えて、すぐそこへ飛べるから。でも相手もそれを知ってて、上手く隠れてる」

「まあ適当にやって疲れてきたらこのビルごと俺が消してやるよ。あんな連中まとめて消えた方が社会のためだろう」

「えっとね……他の階は関係ない別の会社とか入ってるんだけど」

「それくらいは必要な犠牲だろう」

「………」


 屋上の隅に非常扉のような鉄製のドアが見つかり、そこから屋内へ降りられそうだった。鍵が閉まっていたが、その程度なら俺にとっては障害ではない。


 ただ、鍵だけ壊すつもりが扉ごと消してしまったが。

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