5.それぞれの戦略

 川沿いの道は静かだった。何分かに一回、車や自転車が走っていく程度だ。しばらく誰ともすれ違わないと、また幻影に取り込まれているのではと不安になった。


「ああいう、幻術使いみたいな特技者は多いの?」俺は聞いた。

「何人かいたはず。けど、使いものになるのはあの人くらいじゃないかな」オリガは少し首を傾げて言った。

「使いものになるって?」

「長い時間、一定して本物らしい幻影を保てるのはフヤマさんくらいだと思う。だからあの人は一番手ごわい」

「へえ」


 あれより面倒な幻術使いがいないのは、俺たちにとってはありがたいことかもしれない。あんなのがゴロゴロいた日には、どこで何をしていても「これは幻影じゃないか」と怯えながら暮らすことになりそうだ。今だって正直、そういう不安は完全には消えない。


「まあでも、いきなり殺しに来たりする特技者よりはずっと楽か」

「や、私はフヤマさんみたいなのが一番苦手」オリガは首を振った。「もっと攻撃的で短期決戦を挑んでくる人の方が楽ですよ」

「そうなの? そんな奴怖くない?」

「でも、そういう人の方が体力切れが早いから。特に、出し惜しみしないで初手から全力で来る特技者は、そうしないと自分が不利になるからで、要は持久力に自信が無い。二回か三回躱せば向こうが引き下がる」

「ふーん。それぞれの戦略があるわけか」


 能力の出し惜しみとか体力配分なんて、考えたこともなかった。能力を使える回数の限界を確かめたことはないし、そんなものがあるとも思い付かなかった。敵と戦うことを前提としている人間は、普段からそういうことを把握して戦略を練っているものなのか。


「静かだなあ。土曜日ってこんなものかな」オリガは川をまたぐ短い橋を渡りながら言った。

「平日もこんなもんかもな。こんな寂れたところによくモノレールを通したよな」

「まあ、あるとそこそこ便利ですけどね、車持ってない身としては」


 オリガは特に迷いのない足取りで交差点を横切り、角の小ぢんまりとしたオフィスビルに足を向けた。


 よく見ると俺がススキに呼び出されたことのあるビルだった。

 何か考える前に、身体の奥がすっと冷えて緊張が走る。


 オリガは平然とエントランスの自動ドアをくぐり、エレベータの脇の薄暗い階段に足を向けた。

「ここにいる?」俺は渋々付いていきながら聞いた。

「やっぱりここかな。いま誰も特技を使ってなさそうだけど」

「これ、何階だっけ」

「七階と八階。あ、エレベータにする?」

「うーん……密室はちょっと怖いよな。降り口で待ち伏せされるとしんどいし」


 ただ、Nコートに拉致された一件での大怪我以降、階段が苦手なのも確かだった。痛くて上れないというほどではないが、なんとも言えない怠さや苦しさが後を引くことは多い。


「六階で降りて、六階から七階までだけ階段にしよう」オリガは数段上ったばかりの階段を引き返した。

「でも、六階を塞がれてたらどうする?」

「モトちゃんなら勝てるでしょ」オリガはエレベータの呼び出しボタンを押しながら、にこっと笑う。

「そんな無責任に期待されても」

 しかしこういう建物内なら、俺の能力の取っ掛かりとなる「線」には事欠かないから、ある程度は有利なのかもしれない。


 などと楽観したことを六階でエレベータを降りた瞬間に後悔した。



 



 自分の身体がどうなっているのかわからなくなり、気付くと勢いよく床に打ち倒されていた。眼鏡のつるが顔に食い込んで、ミシミシと嫌な音を立てた。この眼鏡に替えて以来、こんなことばかりだ。数ヶ月しか使っていないのにもうフレームが歪んできた。来年まで持つ気がしない。


 薄暗く冷たい廊下だった。テナントの入っていない無人フロアらしく、明かりは全て落とされ、人の気配がない。廊下の片側が通りに面していて、窓から入る自然光だけが頼りだ。


 廊下の中央に見覚えのある若い女が立って、俺に向かって奇妙な形に握った手を突き出していた。

 胸元に大きなリボンのついたブラウスにベージュのカーディガンを重ね、レトロなプリーツの入った紺のスカートを履いている。色白で滑らかな足がむき出しになっていて、足元はカラフルなスニーカー。

 こうして学生風の服装をしていると、やはり女子高生にしか見えないが。子供は学校に行けよ。あ、今日は土曜日か。


 考えている間にも苦しさは天井知らずに増していく。息がまったく吸えない。

 ゾクゾクと背中に覆い被さるような恐怖をおぼえる。


 死ぬ。絶対死ぬ。死にたい。

 苦しみたくない。苦痛が怖い。嫌だ、無理、今すぐ、どうにか。頭の中に浮かぶ言葉がどんどん支離滅裂になっていく。


「あなたは、カンナの三澤さんですよね?」オリガの声がのんびりと上の方から聞こえる。

 まるで俺だけ水中にいるかのように、オリガの声が遠くぼやけている。

「Nコートに何の用です?」

「そっちと一緒だけど」三澤が見下したような口調で言うのが聞こえた。


 急に、俺を縛っていた力が消えて、肺に埃混じりの空気が流れ込む。苦しい、息ができるようになっても数秒は苦しい。呼吸を取り戻しながら無理やり身体を起こして立ち上がったら、クラクラと視界が揺れ、目の前が一瞬暗くなった。


「新しい特技者を横取りしに来たってことですか?」オリガが聞く。

「だって、あたしが先に見つけたし」三澤は子供が拗ねるような口調で言った。「横取りはあっちでしょ。あと、あんたらでしょ」

「私どもは特技者の保護に来てるわけで」


 ていうか、なんで俺だけ窒息死させられそうになって、こいつはノーダメージなんだよ。お前もやられろ。


 そう思ってたら三澤が僅かに手の向きを変え、今度はオリガが倒れた。


 もしかすると彼女の能力は、一人ずつしか攻撃できないのかもしれない。だとすると二対一で迫っているこちらが今、有利なのか。


 廊下の隅の輪郭線を取ろうと屈んだら、倒れたままのオリガにガシッと腕を掴まれた。

「加減して」息ができていないはずなのに、オリガは僅かな呼気を絞り出すようにして言った。「勝てる、すぐ、……から」

「いやいや」

 窒息しかけているのに加減とか言ってる場合か? オリガの顔は酸欠で真っ赤だった。タフなんだかバカなんだか。


「ちょっとさ、何が望みなんだよ?」俺は三澤に向かって言った。

「いなくなってよ」三澤は手をオリガの方に向けたまま言った。「邪魔なの。邪魔しないで。

「やめろ」俺はつまんでいた輪郭線を引いた。


 先ほどフヤマの幻影を剥がした時とは違う、小気味良い手応えとともに廊下の縁の輪郭線はツルツルと剥がれ出した。


 床が消えてその下のコンクリートが剥き出しになり、壁が消えてその向こう側に暗い無人の部屋が覗く。


「モ……ッ!」

 オリガはまだ俺の腕を掴んでいた。相当苦しそうな顔のまま、首を横に振る。


 その確信みたいなものはどこから来るんだ。


「がはっ」オリガの顔がさらに歪み、ひゅうっと変な音を立てて喉が動く。

 入れ替わりで、今度は俺の息が止まる。


 こんなのキリがない――そう思いかけたとき、オリガの先程の言葉が脳裏に浮かんだ。


 こいつは「初手から全力で来る特技者」だ。そうしなければならない理由がある。


 おそらく彼女の特技には持続力がない。それに、体格から考えても物理的な殴り合いには持ち込まれたくないのだろう。


 三澤が立つ廊下の中央までは五メートル程度だろうか。駆け寄って直接殴ればそれまでのようにも思える。呼吸を止められている恐怖を抑えて走り出そうとしてみたが、すぐに右脚の内側を縫い付けられるような感覚があり、思い切り床にすっ転んだ。


 そういえばこいつ、単に窒息させるだけの特技者ではないんだった。常に「転ばせる」と「呼吸を止める」がセットだし、実際のところは相手の筋肉や臓器の動きを妨害したり、あるいは人体に限らず何かの動きを一時的にような能力なのかもしれない。


 ずれた眼鏡を戻そうとして、つい、掴んでいた輪郭線の端を放してしまった。線は吸い込まれるようにピチッと廊下の端に戻る。灰色の床は壁際まで滑らかで継ぎ目が無く、床に打ち倒されたままの俺の手の届く範囲に手頃な輪郭線が見出せない。


 三澤の顔を睨み上げる。全身が絞り上げられるように苦しくて、目の前が暗くなりそうだ。彼女の方も手を突き出して俺を睨みながら、かなり渋い顔をしていた。おそらく、体力切れが近いのだ。


 オリガがふらつきながら俺の前に出る。


 三澤は顔をしかめて手の向きを変えようとしたが、一瞬迷うように手の形を緩めた。


 急に俺の身体が解放された。無意識のうちに肺が全力で息を吸い込み、喉がヒリヒリと渇く。床から起きあがろうとするが、腕と膝に力が入らない。


 オリガがゆっくりと三澤に歩み寄った。彼女は腕を下ろしかけたまま中途半端な位置で止め、口を引き結んで一歩下がった。


「ごめん」オリガは足を早めて一気に距離を詰めた。「今回は譲ってくれる?」

「今回はって何?」三澤はカッとなったように言い返した。

「君はもう戦えないでしょう、どっちにしろ。何をやりかけてたか知らないけど、私たちが体力を使い切らせてしまったから。今日は運が無かったと諦めてくれ」

「けど、ね……」


 三澤が何か言いかけたが、オリガが急にナイフで切り込むように腕を彼女の首元に向かわせた。三澤も素早く腕を上げて受けながら間合いを取ろうとしたが、オリガの脚の方が早く、彼女のスカートから剥き出しの脛を蹴り、更に横ざまに払う。バランスを崩して転ぶ彼女の肩に追い打ちで肘を入れ、ぎょっとするような勢いで床に叩きつけた。


 変な姿勢で床につぶれた三澤は、三秒間動かなかった。


「おい、大丈……」

っ…………て!」三澤は怒り狂った調子で叫んだが、あまりの痛みに動くこともままならないようだった。「マジ最悪。頭おかしいんじゃないの!?」


 オリガは彼女に背を向け、来た方向に俺を促した。「行こう。階段」

「え、や、大丈夫なの?」俺は慌てて追いながら、三澤を振り返った。

「大丈夫。もう体力切れ。あの子はここから半日くらいは何もできない」

「いやその心配じゃなくてね」


 オリガがこんな奴だと思わなかった。びっくりしすぎて、俺の方が震えそうになる。


「いや、あれほんとに大丈夫? 骨折ったりしてない? 救急車とか呼ばなくていいの?」

 言ってて自分でも訳がわからなくなってきた。なんだよ敵を倒して救急車って。


「さあ。必要なら自分で呼ぶでしょ」オリガはエレベータの脇の階段に向かった。

「お前が女の子殴るなんて思わなかったよ……俺けっこう今、ドン引きしてるんだけど」

「うん、でも、彼女強いんだもの」オリガは階段を上りながら、溜息をついた。「私、以前彼女に負けてるんですよね。素手で。あの子は生身でもめちゃくちゃ強い」

「ええ……」

「だから手加減しちゃ失礼でしょう。というか、手加減したら勝てないんで。骨なんか折れてないと思うよ。そんなヤワじゃない」

「ええ……」

 なにそれ怖い。

 というか、こいつサラッと言ったけど、つまり連盟は過去にNコートだけじゃなく、三澤の所属するカンナ中央ネットとも大揉めしたってことだよな? そんな話聞いてないんだが。


 特に根拠はないけど、このあと俺は色々な修羅場の末に死ぬんじゃないかという気がしてきた。


「あー。オリガさん。ダメ元で聞くけど、俺そろそろ帰っていい?」

「何言ってるの。これからですよ」オリガは生真面目に言った。「謎の新人さんを生け捕りにして連れ帰らないと。そのために、私の特技をここまで温存してきたんだから」

「いや、もういいかなと思ってさ。考えてみたらモノレールなんか何度止まっても俺は困らないし」

「モトちゃん。真面目にやってください」

「真面目だよ。真面目に帰りたい」

「はいはい」

「だって、あんだけ思い切りぶん殴れるんならお前一人でやれると思う。特技とか関係なくない?」

「さっきのは特殊なので。この後が本番だから」

「いらねえ……俺の人生においてこれほどいらなかった本番って無いわ」

「モトちゃんってほんとに自分勝手ですよね」オリガは不意に楽しそうに微笑み、階段の残り数段を身軽に上った。

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