4.足止めの幻影

 早起きしすぎて、頭が痛い。

 平日よりは一時間以上遅い起床だったが、身体はすっかり土曜日のつもりになっているらしい。


 天気が良さそうなので薄手のコートで出てきたら、風が冷たかった。二玉駅の改札前は日も当たらないので、余計に寒い。

 そして人通りも全くない。元から利用客が多い駅ではない上に、土曜の朝だ。構内は節電のため消灯していて薄暗く、改札脇の駅員詰所も今はシャッターを閉めている。鳥の声がチラチラ聞こえるBGMと、販売中の明かりが灯った券売機だけが、なんとかこの駅が稼働していることを知らせていた。


 オリガは自分で念押ししたくせに五分遅れて来た。

「すみません、お待たせしました」


 本日は特にチグハグな服装ではない。襟なしのシャツと紺のジャケット、チノパンにスニーカーと、何処に居ても違和感がなさそうな格好だ。そのうえ痩せ型で眼鏡だから、見るからにインドア派というのか……これから何処ぞに乗り込んで闘おうという雰囲気ではない。

 俺も似たり寄ったりの感じだし、眼鏡で出不精で。それで土曜の朝から二人で人気のないモノレール。

 傍目にはどういう組み合わせに見えるんだろうな。会話が弾むわけでもないし。


 オリガは特に説明せず、改札の中に入り、一番線ホームに上がった。


 土曜なので電車の本数も間引かれている。線路を挟んで向かい合う二つのホームのどちらにも人影はなく、電車もしばらく来そうにない。


 オリガはホームの縁ギリギリまで踏み出して、線路の続く先を右、左と順に確かめた。モノレールは吊り下げ型で、ホームの天井に走る白く太い一本線が、その先で街の上空に続いている。一定間隔で長い柱が立って、そのレールを支える。南側はまっすぐな一本線、北側はYの字のように二股に分かれてカーブしながら続く。


 オリガは無言で階段を降りて改札階に引き返し、二番線ホームに上がり直した。俺はSNSの新着投稿を確認しながら付いて行った。

 二番線の端のほうに、いつの間にか乗客が一人だけ立っていた。足元のおぼつかない感じの老婆だ。


 オリガは時刻表を確認し、待合用の椅子に腰掛けた。

 オレンジ色のプラスチックの椅子が冷たそうで俺は躊躇した。身体を冷やすと、以前刺された傷が後から痛むことがあって、近頃は固い椅子が苦手だった。

「乗るの?」俺は椅子の側に立ったまま聞いた。

「とりあえず乗ってみますかね。あっちの方向に」オリガは二股に分かれた線路の左側のほうを指した。「弱いけど次元の歪みがありそう。それにNコートの拠点も近いので」


 そういえば、俺が一度ススキに呼び出されたオフィスがその方面だった。


「例の人が強い力を使ってくれれば一発なんですけど。今は特に動きが無いようだから、地道に探すしかない」オリガは言った。

「お前の目だと、次元の歪みはわかってもそれが誰なのかとか、能力の種類はわからない?」

「うーん、歪み自体は歪みでしかないから……色とか種類とかはない。ただ、能力によって強さや範囲の違いとか、強弱の繰り返しのパターンみたいなのはあるんで、その特徴からわかる場合もあります」

「そうすると、今見えてる弱めの歪みが誰なのかまでは特定できないと」

「そうだね。行ってみるしかない」


 ホームを吹き抜ける冷たい風に煽られて、すっかり身体が冷えた頃に電車が来た。車内はガラ空きだ。特に会話らしい会話もないまま、俺とオリガは三駅先の南公園駅で降りた。


 公園と名はついているが、用水路のようなコンクリート固めの小川沿いに申し訳程度の広場が作られ、ベンチや東屋がポツポツ並んでいるだけだ。この辺りは十数年前に街の景観をアーティスティックに再デザインするという市の計画があったのだが、不景気で頓挫している。洒落た感じに作り込まれたベンチの塗装が剥げて、カラスの溜まり場になっていた。


 オリガが特に迷わず進んでいくようなので、俺はネットニュースの見出しを流し読みしながら付いていった。


「おかしいな」

 小川を左手に見ながらしばらく歩いてから、オリガは立ち止まって首を傾げた。

「何が?」俺は端末を仕舞って顔を上げた。

「私たち、橋を渡ってませんよね」

「どうだったかな。渡った覚えは無いような」

「川の流れが逆になってる」オリガは柵の向こうの小川を見下ろした。


 垂直に切り立ったコンクリートの壁に挟まれた、幅三、四メートル程度の川だ。水面は道路よりも二メートル近く下にあり、水はやや緑色だが思ったよりも澄んでいる。波も立たない緩やかな流れで、水面に浮く木の葉が今は俺たちの行手の方向に流れていた。


「幻術を使われてるな。ああ面倒だ」オリガは別に面倒とも思ってなさそうな、暢気な口調で言って頭を軽く振った。

「俺にはこの流れが逆かどうかわからないんだけど」

「私たち駅を出てから、川を渡らずすぐ右に行ったでしょう。でもいつの間にか川を渡って、反対側の岸を逆向きに歩いています。だってほら、モノレールの線路が向こう岸」


 オリガが示した頭上を見ると、確かに、空中線路を支える柱が川の対岸にある。


「お前が待ち伏せをくらうなんて意外だな」俺は言った。

 オリガの目なら、特技者が何かすればすぐに次元の歪みとしてそれが見えるので、やられるまで気付かないなんてことはそうそう無いはずだが。

「まあ、こちらから会いに行ってる状況なんで」とオリガは言った。「特技者に会わないように逃げ回る場合には、私の特技は便利なんだけど」

「うーん、確かに」


 実際オリガは自分から俺に近付いた結果、何度も俺にやられている。実戦要員としては無能すぎる。

 一方、俺はそれなりの攻撃力はあるが、次元の歪みがわからないため、自分の力加減も相手の能力の規模もまったく読めない。目をつぶって適当に刀を振り回しているに近い。


 改めて考えるとほんとにカスみたいな組み合わせだ。大佐戸は俺たちを敵陣に送り出すことに躊躇は無かったのだろうか。それとも、そんなことに構っていられないくらいもう一件の騒ぎの方が深刻なのか。


「どうする? 一旦渡って戻るか」俺は数メートル先に見えた橋を指した。

「どうしようかな。渡った覚えが無い以上、今見えているものの方が幻影で、動き回ると余計に混乱する可能性も」

「そう? 幻影にしちゃリアルだな」

 街並みや空を見渡すが、不自然なところはないし、頭がぼんやりしている感じもしない。これが幻だとしたら、自分の認識力に一気に自信が無くなりそうだ。


 しかし、どちらに進むべきかそれ以上悩む必要は無かった。俺たちが進む歩道を塞ぐように、いつの間にか背の高い男が現れて立っていた。


 吊り目で長髪。やたらに艶々した髪を高くひとつに括って、その先が肩まで届いている。

 こういう奴たまに見かけるけど、その髪型で何の仕事をしてるんだろうと思う。歳は俺とそんなに変わらないか、若干歳上にも見える。

 春とはいえまだ普通に寒い時期なのに、半袖のポロシャツから逞ましく日に焼けた腕が覗いていた。真っ白なストレッチパンツに派手めのベルト、スポーツブランドのスニーカー。ゴルフにでも来たような装いだ。

 男があまりにも自信ありげで爽やかなので、コートを着込んでいる俺の方が不審者みたいな気がしてくる。


「Nコートのフヤマさんですよね」オリガが言った。

「俺もあんたが誰だか知ってるよ」フヤマは不敵な笑みを見せた。「オリガさん。……と、ヒナモト」


 なんでこっちだけ呼び捨てなんだ。


 俺の方では、Nコートの人間でまともに顔がわかるのはススキくらいなのに、フヤマはどういう事情で俺を知っているのだろうか。一方的に知られているのはあまり気分が良いものではない。


「攻撃をやめてくれませんか。まだ何もしてないのに」オリガは言った。

「でも、これからするでしょ?」フヤマは笑った。

「私もフヤマさんも、相手と戦うタイプの特技者じゃないでしょう。ここで言い争いをしても無益です」

「俺は単に足止めと時間稼ぎを命じられてるから。お二人がこうして俺の手の内でぐるぐる歩き回ってくれていれば、目的は達しているわけ」

「そうすると、私どもはいつまで足止めされるんでしょう」オリガは仕事の日程を確認するような口調で聞いた。

「いつまで、とは特に言われてないけど……まあ、俺が眠くなるまで?」


 眠くなるまでって、まだ朝だし。それだったら夜に来れば良かった、と思った。でもこのフヤマという男、夜に出くわせばそのまま朝までずっと起きてそうな雰囲気だ。徹夜明けでもう一日働きながら寝不足自慢とかしそう。


「おとなしいね。意外と」フヤマは俺を見て、挑発するように首を傾げた。


 長い髪が揺れる。

 洗うのめんどくさそう。


「なんで俺を知ってるの?」と、俺は聞いた。

「え、君は結構有名だけど」

「Nコートの中で?」

「いや、この市内で」フヤマはニヤッと笑った。

「そんな目立つことした覚え無いんだけど」

「それ本気で言ってる? 本気で言ってそうで怖いよねー」


 フヤマは歩道を塞ぐように立ったまま、何かしそうな様子も無く、身構えているふうでもない。本当にここに足止めすることが目的で、俺たちが動かない限りは何時間でも世間話をしているつもりなのかもしれない。


 しかし、こっちは早く終わらせて帰りたいのだ。


 俺はフヤマの足元をじっと見た。

 歩道には幾何学模様の溝がついたタイルが敷き詰められている。見つめると、タイルの溝と継ぎ目の輪郭線が浮き上がる。フヤマの踵の端が乗っているマンホールの蓋は壊さない方が良いだろうか。マンホールって、下水だよな?


 俺は屈んで足元のタイルの輪郭線に指を伸ばした。フヤマは俺が動いても慌てる様子はなく、じっとこちらを観察している。そういえば、いくら土曜の朝とはいえ人通りが無さすぎないか、と気付いた時、剥がし始めた「線」に奇妙な手応えがあった。


 タイルが次々と消え、歩道に穴が開く。その下は何故か明るい空洞で、数十センチ下にまた同じタイルが見えた。


「あ?」


 手応えも変だ。普段の小気味良く軽い感触とは全く違う。砂を噛んだタイヤを無理に回すような、ずるずると不快な抵抗がある。


 それでも無理に線を手繰り続けると、ガラスを割るような手応えとともに、視界全体が崩れ落ちた。


「うわ、マジか」

 本当に幻影を見せられていたのか。

「だから、橋を渡らなくて良かったでしょう」オリガが何故か得意げに言う。


 崩れ落ちた視界の外側に元の本物の駅前が見えかけたが、フヤマが拳を握って突き上げるとテントを張り巡らしたようにまた新しい景色が現れた。


 先ほどと同じ、川沿いのタイル張りの歩道だったが、強い西日が差し空が赤くなっている。


 時間の感覚がおかしくなりそうだ。

 直接的な攻撃をしてくるタイプではなさそうだが、こうやって次々と違う幻影に閉じ込められたら精神的にはかなり削られるだろう。


「モトちゃん」オリガが小声で言った。「また壊せる?」

「うん、まあ」


 この景色が本物でない以上、意味があるとは思えなかったが、俺はまた屈んでタイルの輪郭線を剥がした。


 ずるずるずる。


 気分の萎える手応えだ。それでもタイルは次々と消えていき、やがてガラスが割れるように景色全体が崩れ落ちる。


 本物の景色が見える前に、フヤマは素早く拳を突き上げた。今度現れた景色は、見慣れない遊具の並ぶ真昼の公園だった。


「こんなのキリがないぞ」俺は足元に現れた砂場の囲いの輪郭線に手を伸ばす。


 ずるずるずる。


「大丈夫、十回くらいやれば相手が死ぬ」オリガは俺の耳元に囁いた。


 フヤマは三角錐型のジャングルジムの端に片足をかけ、少し離れたところから俺の動作をじっと眺めている。今のところ、余裕そうな顔のままだ。


「死ぬってどういうこと?」俺はちらりとオリガを振り返る。

「体力勝負。向こうが先に倒れる」

「そうかねえ」


 俺は輪郭線を手繰って砂場の囲いを消しながら、そこに立て掛けてあった木の枝の輪郭線に繋げ、そのまま地面を伝ってツツジの植え込みに繋げた。


 景色が割れる。


 フヤマの姿が一瞬揺らいでから戻り、また拳を握りしめるのが見えた。


 今度の景色は同じ公園の、夜だった。

 外灯の白い光で遊具の長い影ができていた。


 暗いので輪郭線がぼやけないか不安だったが、なんとかまた砂場の囲いの縁を掴めた。


 その後、見覚えのある海岸や、マンション前のバス停、スーパーの駐車場など、市内のどこかと思われる色々な場所の色々な時間帯の幻影を見せられた。どれも本当に精巧で本物と見分けのつかない景色だが、俺たち以外の人影が全く無かった。


 十三回目に幻影が崩れ落ちたとき、フヤマはそれ以上拳を握ろうとせず、その場にどかっと座り込んだ。


「体力化け物かよ」フヤマは息が乱れ、額に汗の粒が幾つも浮いていた。「ああ……クソ。引くわー。あり得ねえ」


 俺たちがいるのは、駅前の小さな広場と一体化した歩道だった。結局、駅を出てすぐに幻影に誘い込まれていたらしい。


 道を塞いで座り込むフヤマを、通行人が迷惑そうに避けていく。東屋の屋根に陣取ったカラスがギャーギャー言っている。

 そういえばフヤマの作り出す幻影の中には動物も見当たらなかったな、と思った。


「もう行っていいんですよね」ずっと黙っていたオリガが言った。

「いいよ、もう行こう」俺は言った。「どっち?」

「そっちかな」オリガは駅前を横切る川沿いの道を指して歩き出した。

「うん。なんかさっき行った道のような気がするけど、あれは夢だったんだよな……損した気分だ。疲れるな」

「大丈夫?」オリガはやや不安そうに俺を見た。「まだ能力使えそう?」

「ああ、それは全然。そうだ、あいつの記憶も一応剥がしとく?」

 俺はまだ同じところに座り込んでいるフヤマを振り返った。


「いえ、やめといた方が」

「まあそうだな。無駄な恨みを買うことはないか」

「というか、普通にあの体格の人に近づいたらモトちゃんがやられるでしょう。物理的に」

「ああ……そういう」

 特技者としては体力切れだとしても、あれだけ腕っ節が良ければ座ったまま俺をねじ伏せるくらいは容易いかもしれない。


 フヤマはまだ座り込んだまま俺を睨んでいた。


「なんか怖い」

「まあまあ」オリガは宥めるような声で言い、川沿いの道へと俺を促す。

「やっぱり今やっておかない? 後で殴り込みをかけられるよりは」

「別に、あの人そんなに悪い人じゃないですよ」

「ええ……お前の『悪い人じゃない』って全然当てにならないけど」

 だってこいつ、俺のこともそう言ってたし。

「こっちは無傷で相手を無力化できたんだから充分でしょう。まだこの後が大変かもしれないんだから」オリガはさっさと先へ行ってしまう。


 俺はもう一度だけフヤマの方を振り返ってから、オリガを追って川沿いの道へと向かった。

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