異変

1.夜中の出動

 熱めの風呂に浸かってくたくたになった身体にビールを流し込む。飲み始めが一番美味しい。テレビにはドラマが映っていたが、何となくBGMとして掛けただけで、内容はまったくわからない。


 手元の端末では、最近見始めた雑談配信のライブ映像が、有象無象の視聴者のコメントとともに流れていた。こちらも途中から見始めたのでよく分からないが、来月開催されるイベントの告知をしているようだった。


 メッセージの着信があり、表示された発信者の名前がオリガのものだったので、俺は映像を中断して通話リクエストに応じた。

「何?」

「あー、モトちゃん、今ですね、暇?」

 相変わらずオリガは、俺に対して敬語が抜け切らないようだった。俺のほうが五歳くらい上だから、大人同士なら大差ないとはいえ、向こうはそこそこ気になるのかもしれない。

「めっちゃビール飲んでたから暇じゃないけど。まあ出動はできるよ。どこ?」

「すいません夜分に」

「災害に夜分も何もないだろう。遠いの?」

たま駅。モノレールの」

「なら、そんなでもないな」

「急げる? モノレールは一旦止まっちゃってます」

「タクシーで行くわ。経費で出るならだけど」

「出る、もちろん。レシート取ってくれれば」

「はいはい」


 飲みかけのビールを流しに捨て、俺は上着を着込んだ。春とはいえ、夜分は冷える。念のためハンドウォーマーも付けた。指先が全て出るタイプの、筒型の手袋だ。指は使えないと困るし、いざというときに冷えて動かないのも困る。


 配車サービスで呼んだタクシーの運転手は俺のピリピリした態度を読み取ったのか、無駄口を叩かずほぼ無言で走らせた。


 二玉駅前の道路は小規模な渋滞が起きていた。退勤ラッシュはとっくに過ぎているが、まだまだ車通りはある時間帯だ。そこにこの「災害」だから、混乱はだいぶ大きそうだった。


「んっ、こりゃなんだあ……?」タクシーの運転手はだいぶ強引に他の車に譲らせて割り込みながら、不審そうな声を上げた。


 モノレールの線路は道路の真上をなぞるように渡り、巨大な歩道橋のような形の空中駅を貫通している。その駅の片側から、大量の白い吹き流しのようなものが飛び出して、クネクネと不規則に揺れていた。イソギンチャクの触手にも似たそれは、布のようにも、霧のようにも見えた。


 俺の目にはそう見えたが、この手の「超常災害」は誰にでも同じように見えるわけではない。ほとんどの人間には見えないし、見えたとしてもその形状は様々だ。この運転手の目に「何か」が見えているのか、それとも何も見えておらず不自然な渋滞に驚いているだけなのか、聞いて確かめる暇は無さそうだった。


 俺はここで降りたいと告げ、支払い機に端末をかざした。旧型の支払い機がもぞもぞと吐き出すレシートをもぎ取り、タクシーを降りる。


 降りた途端、ぐわっと嫌な音が耳を包んだ。脳内に染み込んで掻き乱すような、チリチリと不愉快な音だ。方向ははっきりしないが、やはり頭上の線路で蠢く白い触手から出ている気がする。


 歩道から駅に上がるための階段とエレベータの前には、工事現場で使われるような衝立が置かれ、「危険」「侵入禁止」と手書きの張り紙がされていた。

 この場合は、俺は入って良いんだっけ? オリガから連絡が入っていないか確かめようと端末を見た途端、横からぎゅっと腕を掴まれた。

「モトちゃん。助かった」

 こんな時間帯なのに、オリガは今日もきちんとスラックスにワイシャツ、ネクタイまでしていた。ただ、その上に羽織っているのはテカテカした青色のジャンパーだった。よく見ると胸にサッカーチームのロゴが入っている。

 なんでその組み合わせなんだよ、と突っ込んでいる暇は無かった。小走りのオリガに引っ張られて衝立の隙間を抜け、駅への階段を駆け上がる。


 既に人払いはされているらしい。アナウンスやBGMが消えて静まり返った駅は予想以上に不気味で、明かりだけが煌々と灯っているのがかえって怖い。階段を上り切ると、思わず「うわっ」と声が出た。


 白い触手の「本体」が改札の向こう側の空間をぎっしりと埋めている。それは象の腹と足を幾重にも鏡写しにして増幅したような、生き物の質感と無生物の単調さを併せ持つ物体だった。無数の太い灰色の「足」がじんわりと蠢き、その隙間から白い吹き流しのような触手がランダムに飛び出して揺れる。なんとも言えない気持ち悪さに、目眩がしそうになる。ビールの酔いは吹き飛んだ。


「見えます?」オリガが聞いた。

「見える」俺は短く答えた。


 灰色の足の群れは改札階の半分をぎっちり埋め尽くしている。床から天井までほぼ隙間なく。おそらく、ここからホーム階に上がる二つの階段も埋め、ホームも埋め尽くしているはずだ。そしてさらに溢れて駅から飛び出したぶんが、先ほど地上から見えた白い吹き流しの群れなのだろう。


「ちょっと、どでかいな……」

「行ける?」オリガが少し不安そうに俺の顔を窺う。

「うーん、まあ行けるだろうけど」


 俺は気味の悪い化け物にじっと目を凝らした。これほどぎちぎちに詰まっているのに、改札のこちら側には出て来ないのは何故だろう。明らかに人外の存在なのに、「改札は境界である」という人間的なルールを律儀に守っている感じが、妙に腹が立つ。


 灰色の腹と足の群体を見つめていると、くっきりと輪郭線が見えた。ランダムに飛び出して揺れる白い触手のほうは、やはりなんとも言えない。一応、輪郭線は見えるものの、不安定でぼやけがちだった。


 俺は見えているものをオリガに伝え、サポートを頼んだ。

「よしきた」オリガは冗談めかして言ったが、かなり緊張した顔だった。「もう少し、近付く?」

「いや、ここでいい」

 俺は足元を縦横に走るタイルの継ぎ目に指を当てた。


 浮かび上がってきたタイルの輪郭線を剥がす。タイルの継ぎ目に沿って、黒い線がぶわっと浮き上がった。鞭をしならせるように持ち上げると、線は波打ちながら改札機の足元まで剥がれ、そのまま改札機の輪郭線を連鎖的に巻き込んで剥がれる。改札機と灰色の化け物が接しているところを見極めようと、俺は目を細め半歩踏み出した。


 別々の物体が接している境界を一本の「線」と認識できる瞬間は、多くはない。何度も試す中でわかってきたことは、俺の目が「線」をきちんと認識できているかどうが、この能力の発動に大きく影響しているということだ。間違って駅そのものだけを破壊してしまわないように、俺は慎重にタイミングを計った。


 改札機の縁の、微妙に角ばったカーブと、そこに食い込んだ灰色の足の境目が浮き上がる。俺は息を詰めて素早く手元の線を手繰った。端が捲れてしまえばこちらものだ。ぴゅるぴゅると小気味良いリズムで化け物の輪郭線が剥がれ出す。灰色の足の群は、陽炎のように揺めきながら崩壊を始めた。


 みっちりと埋め尽くされていた場所に空隙が生まれ、急速に広がる。泡を消すように灰色の足の群れが消えて、駅の改札階の本来の景色が取り戻されていく。


「早い、早い」ずっと俺のそばに立っていたオリガが、少し焦った声を上げた。「モトちゃん、ヤバいヤバい」

「それ、褒めてる?」

「いやいや、手加減して。スピード落として。駅が壊れます」

「これくらい?」俺は線を手繰る手元を緩めた。

「もうちょっと……いやいや、まだ早いって」

「そんな当然のことっぽく言われてもな」


 オリガの目に見えるらしい次元の歪みが、俺にはいまだに分からない。大抵の特技者は経験を積むうちに自分の能力の力加減が分かるらしいが、俺にはさっぱりだった。


「これ、全部繋がってるの?」オリガが聞いた。


 改札階を埋めていた物体はほぼ一掃され、残りはホームへと上る階段部分だけだった。俺とオリガはぶっ壊れた改札の跡地を通り抜け、改札フロアに侵入した。階段は一番線と二番線にひとつずつあり、どちらも灰色のもので埋め尽くされている。俺の手の中の「線」は左手の一番線の階段へと繋がっていた。

「じゃあ一旦こちらから……」

 オリガが階段へと向かいかけるのを俺は制して、思い切り腕を振り上げた。


「ちょっ、ちょっ……モトちゃん?」

 オリガの抗議の声を無視して俺は勢い良く腕を振り下ろした。剥がれていく輪郭線の手応えを確かめながら、腕をしならせるように何度か振る。階段の先を埋めていた灰色が消え、この位置からは見えない一番線ホームの空間のそれも消える。崩壊は加速して連鎖し、線路を跨いで二番線のホームを洗い、向こう側の階段を下って……それが俺に「見え」ていた。物理的な視界には映らないはずのものが、俺の脳内の概念的な視野の中に映っていて、それは俺の空想や願望ではなく確かに現実の裏側へと接続されていた。


 そうか、オリガにもこんなふうに何かが「見え」るのか。


 両方の階段の異常が、一掃されていた。

 オリガはとても非難がましい目で俺を見ていた。

「なんだよ?」

「危ない」オリガは子供を叱るような声を張り上げた。「危ないって言ってるのに」

「綺麗に片付いたじゃん」

「壊し過ぎ!」

「そう?」

「ホームにもいろんな備品があるんですよ。駅を壊さないで。これじゃ我々のほうが災害でしょうが」


 階段を上がってホームに出ると、確かに、自販機が崩壊していた。一番線も二番線も、飲み物がゴロゴロ転がっている。線路にも少し落ちていた。線路自体は無事なようだった。

 それ以外には、ホームがやたら綺麗というか、空っぽで簡素に見えた。たぶん、元々備え付けてあったベンチや電光掲示板、ゴミ箱などが消えてしまったのだろう。

「まあ、でも、早く片付いたし。結果的には」

「ここ、市が運営してるんですよ」

「うん、だから、市が直すんでしょ? まさか俺ら持ちじゃないよな?」

「市ですね」

「だからいいじゃん?」

「税金なんですけど」

「……まあね。そうね」


 ホームに居るのは俺たちだけではなかった。


 小柄な少年が立っていた。一瞬、小太りな体型に見えたが、よく見ると大きめのパーカーとカーゴパンツで体型が隠れているだけのようだ。ホームの縁に立ち、線路を見下ろしていた視線をこちらに向ける。警戒心を露わにした目だった。


「大丈夫ですか?」オリガは無警戒に歩み寄っていった。

「いや、なんだよ。何?」少年は顔を顰めた。


 声が若い。高校生くらいか。細面で、やや癖のある目鼻立ちだった。


「えっと……事故の処理で、今ここは立入制限中なんです」オリガは言った。

「事故? なんの事故?」

「原因は調査中ですけど」

「何かの事故で、こうなったってこと?」

「まあ、広い意味では、そんな感じ」


 少年にこの超常現象が見えていたかどうか分からないから、オリガの言い方も曖昧だった。ただ、見えていないにしても、何も感じなかったとは考えにくいが。


 結局、オリガにしつこく問い詰められて、少年は駅員の呼びかけを無視してホームに残っていたことを認めた。ベンチの裏側に隠れていたそうだ。灰色の物体や白い吹き流しのようなものも見えていたらしい。急にそれらが消え、ベンチも消えたので、何事かと思い線路の様子を見ていたところに、俺たちが来たわけだ。


「お怪我はありませんか。気分が悪いとかは」オリガは聞いた。

「別に」少年は短く返した。彼の手は苛立ちを感じさせる動作で、パーカーのチャックを弄っていた。変わったデザインのパーカーで、チャックが途中で二股に分かれてYの字になっている。スライダーは二つあり、片方は上向きに進んでチャックを閉じ、もう片方は下向きに進んで閉じるようになっている。少年はだるそうな手付きで二つのスライダーをランダムに動かしていて、ときどきチャックが開きすぎて「Y」の上部の三角形がブラブラと取れそうになった。


「もう、帰っていいっすか?」少年はまだ喋ろうとするオリガを遮って言った。

「あ、はあ、勿論いいですよ」オリガは慌ただしく名刺を取り出した。「あのもし、後で具合が悪くなったり、聞きたいことが出てきたらこちらに……」

「はいはいはいはい」少年は名刺を受け取ろうとせず歩き出した。「オレほんとにもう、帰るんで、帰りたいんで。妻子が待ってるんで」

「妻子がいるの?」俺は思わず聞き返したが、

「いるわけねーじゃん、なに信じてるの?」少年は物凄い勢いで突っかかってきた。


 うわー。めんどくせえ奴だ。


 オリガの顔色を窺ったが、彼はいつもの事務的な微笑を浮かべているだけで、特に反応していなかった。こいつはこいつで、自分の知りたいこと以外は全く耳に入っていないときがある。


「あのさ、帰るのはいいんだけど……いいんだよな?」俺はオリガに確認を取りながら、「今日ここで見たことをネットに書かないで欲しいんだ。SNSにも」

「はあ? なんで?」少年はもう改札に向かう階段を降りかけていたが、機敏に振り向いた。

「なんでかは大体分かるだろ? あれを本当に見たんなら」

「いや、わからないよ。なんで?」

「つまり……これは事件でも事故でもない。ちょっと特殊な災害で。できるだけ目立たない形で片付けたい」

「オレがSNSに何書くかまで口出しするわけ? 破ったらどうなる? 逮捕でもするの?」

「いや、しないけどさ……警察じゃないし」

「警察じゃないのかよ。あんたらは誰?」

「特技者連盟です」と、これはオリガが答えた。「NPO団体です。本当はこういう災害対応は本業ではないんですが」

「ああ、宗教ね。ふーん」

「宗教じゃありませんよ」

「宗教はみんなそう言う」少年は言い捨て、俺たちを振り切るように階段を降りて行った。


「ありゃ、まずいんじゃないの?」俺はオリガを見た。

「うーん。まあ、彼一人がSNSで騒いだところで、大したことにはならないはず。彼がすごく有名なインフルエンサーとかなら別ですが」

「わからんよ。運とタイミング次第では誰でもバズるからな、今は」

「まあ、大丈夫でしょう。別に極秘というわけでもない。現にモノレールは止まっているし、そのこと自体は公のニュースになってるわけだから。それより、あの子が特技者じゃないかどうかだけ心配ですね」

「そうか。見えてたから、素質はあるのか……」


 とりあえず、この後のモノレールの運行再開を妨げないように、線路上に散らばった自販機の飲み物は手分けして拾い上げた。一番線に落ちたものは一番線ホームに、二番線に落ちたものは二番線ホームに。どちらのホームも飲み物の容器だらけだが、これをどうするかは、たぶん俺たちでは決められない。


「すまん。やり過ぎたな、確かに」

「まあ、過ぎたことはいいでしょう」オリガは散らばった飲み物の中から当然のようにコーラを一本抜き取り、開封して飲み始めた。

「おいおい。いいのかよ」

「だって、わざわざ数える人もいないでしょう」

「そうだろうけどさ」無性に喉が渇いてきたので、俺も烏龍茶を一本取った。


 改札階に戻ると、相変わらずそこも無人でしずまっていたが、券売機の前にパンツスーツの女が立っていた。


 俺たちが無言で近づいて行くと、女は「やあ。ヒナモト君、久しぶりだねェ」と言った。

 Nコートのススキだ。俺にとっては因縁の相手の一人である。


「何か御用で?」と、オリガ。

「いや、君らに用は無いよ」

「じゃあ、他の誰かに?」

「どうだろうネェ」ススキは底の読めない笑みを浮かべた。「さっき、男の子がひとり降りてったけど、君らの知り合い?」

「まだ、知り合いではないですね」と、オリガは言った。彼にしては珍しく、口調がよそよそしく冷たかった。

「そうか。まだってことは、これから知り合う?」

「探りを入れても無駄ですよ。私どもも、何も知らないんですから」

「そうかい。フムフム」ススキは軽く頷く。「じゃあいいヨ、君らに用は無い。バイバイ」

「なんか感じ悪いな」俺は思わず呟いた。

「ああ、ヒナモト君。君に頼みたい仕事はまだまだあるんだよネェ。うちは掛け持ちOKだから、いつでも連絡待ってるヨ」

「はい、はい」


 結局ススキは、立ち去る俺たちを見送りながらも券売機前から一歩も動かず、まるで誰かと待ち合わせでもしているかのような様子だった。


 俺とオリガは連盟本部への簡易報告をテキストチャットで済ませて、詳細な記録作成は明日以降に回すことにし、解散してそれぞれ帰宅した。「災害」の処理対応としては滞りなく(駅の備品が多数失われたこと以外は)済んだはずだったが、なんとなく、これだけで終わりそうにないという予感は残り続けた。

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