8.世知辛い世の中
「――と、いうようなことがありました」オリガはひとしきり説明を終えて、ダブルリングの小さなメモ帳をパタンと閉じた。
「うん」
報告を受けていた無精髭の男は、灰色の安っぽいデスクの向こうで、伸びをするように少しのけぞった。椅子が嫌な音を立てて軋む。
男はデスクの前に立つオリガと俺を眺めながら、だいぶうんざりしたような顔だった。
歳は俺より一回りくらい上に見える。作業着に毛が生えたような服装と髭のせいで、むさ苦しい雰囲気だ。
住宅地の片隅に立つプレハブの事務所には、俺とオリガとその男の三人だけだ。部屋には似たようなデスクがいくつも並んでいるが、今は他の人員は見当たらなかった。
「で、彼がその跳ねっ返り君か」髭の男は俺を見た。
「ヒナモトさんです」オリガが言った。「ヒナモトさん、こちらがうちの所長の
「どうも」と俺は言って、何気なく手を伸ばした。
「おおっと!」大佐戸は椅子を軋ませてまた大袈裟にのけぞった。「おい、触るなよ? 剥がすなよ? お前がどういう特技を使うかは分かってんだからな」
「何もしませんよ」俺は急いで両手を背中に回した。
「まったく恐ろしい。こういう人が野放しになってんのも恐ろしいけど、うちに来られても恐ろしいって」
まるで殺人鬼か害獣みたいな言われようだ。
「とにかくカンナ中央ネットと揉めてるので……あと、Nコートとも」オリガは言った。
「なんでそんな、ヤクザみたいなとことばっかり揉めんのかな? それがまずおかしいんだよ」
「けど、一方的に襲われたんですよ」俺は思わず言い返した。
「一方的に暴れるような奴だからだろ」大佐戸はわざとらしく溜息をついた。「同類を呼び寄せてんだよ。お前がうちのオリガに何をしてくれたのかは分かってんだからな。よく、のこのことうちの保護を受けに来れたな」
「すみません。お邪魔なら帰るんで……」
「いやいや、そういうことじゃないって。しれっと帰ろうとすんな。お前みたいなのを野放しにしてたら街が幾つあっても足りないんだよ」
じゃあどっちなんだよ、と俺は思い、とりあえず黙っていた。
そもそも、カフェを出た後、オリガにほとんど問答無用でここまで連れてこられたのだ。のこのこ保護を受けに来たなどと言われる筋合いはないのだが。
「それで?」と大佐戸は言った。
少しの間を置いてから、オリガが口を開いた。「いったんヒナモトさんに護衛をつけるか、少なくとも通勤路の周辺の巡回強化はした方がいいかもしれません」
「うん。すれば?」大佐戸は少し笑いながら言った。
「私がですか」
「他に誰がいる?」
「私では戦力にならないので。ジュウヤさんとか、小林さんとか、物理的に対抗できる人の方が」
「あー。マジか」大佐戸は急に真剣な顔色になってデスクに身を乗り出した。「オリガ。お前、さては、メモに書き忘れたな?」
「え?」
「お前が自分探しの旅をしてる間に、こっちは状況かなり変わったんだけど。マジで浦島太郎だな。浦島より酷いよ、過去の記憶も無いんだもんなあ」
「ええと……すみません」オリガは手元の手帳を見下ろして言ったが、実際そんなにすまないとは思っていない口調だった。
「まったく、お前が心配だよ。大丈夫なの? 日本語喋ったり電車に乗ったりはできるみたいだから、脳味噌が吹き飛んだわけじゃないんだろうけど」
「そういう知識の面は大丈夫です。個々の具体的な出来事を覚えてないだけで」
「一回検査は受けた方がいいと思うけどな。普通の病院でもいいから。頭打ったとかなんとか嘘ついて、MRIだけでも撮ってもらったら? とにかくな、状況は変わったんだよ。先月くらいから超常災害が頻発して、動けるやつはみんな出払ってる」
「災害?」
「そう、災害。えーと、どこかになかったかな」大佐戸は椅子を軋ませながらデスクの上を探し回り、乱雑に積まれた書類の束の下からタブレット端末を引っ張り出した。
大佐戸は画面を操作してから俺たちの方に向けて見せた。
どこかの交差点を映した定点カメラの映像だった。信号が青になり、歩行者が渡っていく。朝八時台くらいなのだろうか、制服やスーツ姿の通行人が多い。
だが、横断歩道のちょうど中央あたりで、ちょっとした混乱が起きていた。特に何もあるようには見えないのに、そこに差し掛かった途端に歩行者達が微妙に向きを変えるのだ。他の歩行者を押しのける形になるのにも構わず、横断歩道の端の方に寄っていく。
まるで、見えない何かを避けるように。
横断歩道の中心だけを避けて両脇をぞろぞろ渡っていく人の流れができ、やがて信号が赤に変わる。今度は車がそこを横切っていくが、やはり多くの車が道路の中心部分を避けて左に寄っているように見えた。
「ここに何かあるんですか?」オリガが聞いた。
「まあ、あると言うべきか、ないと言うべきか……別次元のものだろうな。それがはみ出してきてる。カメラには映らないし、ほとんどの人には見えていないが、無意識に避けてるんだ。それで、おれたちみたいな特技者なら、現場に行けばはっきり見える。よく分からん岩のオブジェみたいなのが出現してたそうだ」
「岩?」
「岩みたいに見えた、とジュウヤは言ってた。実際の岩ではないと思う。それで、彼の能力で取り除くことができたんで、とりあえずそれで収まった。ただ、原因はわからない」
「なるほど」オリガは考え込むような目でじっと画面を見つめた。
動画は最後まで再生が終わると、自動でループしてまた最初の歩行者の様子を映し出した。
「で、こんなのが毎日のように見つかる。普通の人間には見えないんで、しばらく気づかれずに放置されてたりする」
「そのまま放置してちゃ駄目なんでしょうか」オリガは生真面目な顔で聞いた。
「この規模だったらまあそうだけど、さすがに道を塞ぐくらいの規模になると普通に危ないんだ。歩行者が道路にはみ出してきたり、逆に車が歩道に乗り上げたりして。渋滞も起きる。今んとこ、完全に道を塞いだっていうケースは無いみたいだが、それも時間の問題じゃないかと思う。こいつら、どうも放置してると育つみたいなんだ」
「へえ」オリガは何故か少し楽しそうに笑った。「次元の裏側で何か起きてるんでしょうか?」
「何かは起きてるようだが、それがなんなのかは分からん。とにかく、全員で手分けして巡回して、見つけ次第取り除く、っていうのをやってる。それのせいでうちの通常の業務は今かなり滞ってる」
「そうなんですか? それってまずいんじゃないですか」
「まずいよ。でも警察からの頼みじゃ断れないし」
「警察が動いてるんですか」
「非公式にだけどな。警察というより、役所かな。今んところ市内で多発してるから。他の市でも起きてるのかもしれないが、情報がこっちまで来ない」
少しの間、沈黙が流れた。
「というわけなんで、ヒナモトさんだっけ? あー、お前がうちの保護を受けたいというならもちろん歓迎するけどさ、その代わりと言っちゃなんだけど、うちに来るんならお前にも出動してもらうよ」
「出動、ですか」俺はぼんやりと返した。
「そう、こういう超常現象的な災害の対応。人が足りないもんでね。ボランティアって形になるけど、やってくれるよな?」
「でもヒナモトさんは仕事が……たぶん今後また会社勤めされるんで」とオリガが言った。
「もちろん仕事のない日だけでいいよ。あと早朝とか夜とか、仕事に差し支えない範囲で出られるなら出てほしい。他の連中もみんなそうしてる。ジュウヤなんか本業も激務なのにずっと出てくれてて、昼休みも返上だよ。さすがにこれ以上は身体壊しそうだから、仕事辞めてもらってこっちに専念してもらえないか考えてるんだが」
「それはさすがに無理でしょう。ジュウヤさんにだって生活があるわけだし」
「いや、うちに専念してもらってうちから給料を出す方向で今、進めてるよ。何らかの形で交付金か補助金を付けてもらう。だって交通の整備は役所と警察の仕事だろ? 本来はさ。税金でやってもらわなきゃ」
なんだか世知辛い話になってるな、と俺は他人事みたいに聞いていた。
というか、オリガは俺がまた会社員として再起すると決めつけているが、現状は無職なわけだし、この組織で人を雇う予定があるのなら俺を雇ってはくれないんだろうか。
俺の考えを読んだかのように、大佐戸は苦い顔で俺を睨んで、「お前は雇わん」と言った。
「なんで?」
「なんで、じゃあないんだよ。ほんとに図々しい奴だな。この流れでなんでうちがお前を信用できるわけ? まずオリガの記憶を消した分の損害を賠償してもらうから、当分タダで働け」
「でも、私は大丈夫ですから……」
「オリガ、てめえも黙れ」大佐戸は口を挟もうとしたオリガに人差し指を突きつけた。「お前はな、そういうところだぞ。そもそもお前のそういうところが、話を大きくしてるんだぞ。まったくこの忙しいときに、何度も記憶喪失になりやがって」
「すみません。うっかりしてて」
「うっかりでこんなことになってたまるか。とにかくオリガ、お前がこの狂犬を拾ったんだからな。責任持って護衛でも見回りでもずっとしてろ。他の組織に取られんように見張っとけ。それで超常災害が起きるたびにお前ら二人セットで呼び出すから、対応するように。基本的には道を塞いでるおかしなものを退けるか消すかして片付けるだけの仕事だ。簡単だろ?」
「ええと、どうなんでしょう」オリガは困ったように俺の顔をうかがった。
「まあ、物を消すとか壊すとかならたぶん」俺は言った。「けど、一応聞いときたいんですけど、オリガの記憶を消した分の賠償っていくらなんですか?」
「は?」と大佐戸は言った。
「俺の日当が一回五千円だとして、何回出動すると賠償が終わるんでしょうか」
「そういう問題じゃねえよ。そもそも人の記憶を金で買おうとするんじゃねえ」
「いや、先にそういう話をしたのそっちでしょ」
「マジで性根が腐ってるよ、お前は」大佐戸はうんざりした顔で首を振った。
事務仕事に追われているらしい大佐戸は俺の連絡先を聞き出してメモすると、後日連絡すると言って慌ただしく俺とオリガを追い出した。
日はとっくに沈んで風が一段と冷たくなっていた。それほど遅い時間帯でもないが、外灯の少ない住宅街は暗くて物寂しかった。
「なんだか、逆に面倒なことになってすみません」オリガは言った。「私が状況を把握しきれてませんでした。とりあえず家まで送ります」
「怒ってないの?」と俺は聞いた。
「何が?」オリガは不思議そうに首を傾げた。
「記憶を消したこと」
「さあ……」オリガの顔にまた奇妙な笑みが浮かんだ。「怒るほどの重要な記憶があったのかな。大したものじゃないと思いますよ。自分で書いたメモを読み返す限りは」
「……俺にこんなこと言われたくないだろうけど、あんまり自分に無頓着なのは良くないと思うよ」
「そういうつもりではないんですけどね。でもご忠告には感謝します。今後は気をつけます」
「そう……」
言ってるそばからオリガは俺の手の届くところを暢気に歩いているわけで、俺の目にはその輪郭線がはっきり浮き上がって見えていて、いつでもそれを剥がすことができる。今すぐにでも。
何も気をつけてないじゃん。
それか、俺ごときじゃ敵対者として眼中にも入らないってことか?
この先起きることやすべきことに対して、不安しか無かった。
一方のオリガは、何故か安心しきった顔で、機嫌も良さそうだった。
「しかし私は思いがけず得をしました。ヒナモトさんと組ませてもらえるなら、こんなに心強いことはないです」
「本気かよ。なんでそう思うのかね」
「だって、私が今まで見てきた特技者の中で、おそらくヒナモトさんが一番強いですから」
「は? あ、他の特技者のことは記憶にないから、っていうこと?」
「いえいえ。ちゃんと資料を見て他の人と比較した上で、です。ヒナモトさんが暫定最強ですね」
「絶対違うと思うけど」
「まあ、今にわかりますよ」
オリガは鼻歌でも歌い出しそうなほどのご機嫌で、俺の一歩先を歩いて行った。
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