7.次元の裏側

 オリガが慣れた足取りで入ったのは駅前のオフィスビルのひとつだった。ボタンがやけに少ない高層階用のエレベータを降りると、ひっそりとしたカフェが出迎えた。


 テーブルは大きな窓ガラスに沿うように置かれ、駅前のビル街を一望できた。三十階。地上を行く人や車が米粒のように見える。


「ヒナモトさんは、ダンジョンゲームとか、やりますか?」

 二人分のコーヒーとケーキが来てから、オリガは不意に妙なことを言った。

「ダンジョン?」

「ゲーム内で建物や洞窟の中を探検したりするような。マップがあって、自分の現在地が表示されてたりする……」

「あんまやらないけど、まあ分かるよ」

「たまに現実には存在し得ないようなマップがあるんです。ずっと一定の方向へ進んでいたのに、いつの間にか元の場所に戻ってるとか。図面で考えれば外に出るはずの扉の向こうが、また屋内だったり。それはゲームの中だから可能なことで、プレーヤーは仕組みを何となく知ってるから驚かないけど、ゲームの内側のキャラクターにとってはある種の超常現象ですよね。行き止まりが無いのに他の場所へ行けない、あるいは、行けるはずのない場所へ急に接続される。もしくは過去に戻されたり未来に飛ばされたり、関連するはずのない二つの現象が何故か連動したり。裏で動いてるプログラム次第で、ゲーム内部の時間と空間、物事の因果関係を自由に付け替えられるわけです。特技者がこの現実世界に対して引き起こす事も、それに似たものと言えます」

「うーん」と俺は言った。特に意見や異論があるわけではなく、ケーキが口に入っていたのでそれ以上は喋れなかった。


 すごくねっとりとしたチーズケーキで、美味いが、胃にもたれそうだった。


 窓の外の、駅前の街並みを見下ろす。縦横に交わる道路と、そこを流れるおもちゃのような車の列、隙間なく詰められたビル群。この景色自体がゲームの画面みたいな現実感の無さだ。隙間に蠢く米粒のような人々を見ながら、その一粒が自分と同じ大きさと重要性を持った一個の人間だと実感することは、かなり難しい。


「よく分かんないな」口が空いたので、俺はようやく言った。

「分かりづらいですか。この例えで大抵の人は何となく掴んでくれるんですが」

「お前の引き継ぎ資料にそう書いてあった?」

「まあ、そうですし、私自身がこの説明で飲み込みやすかったから」

「俺は普段ゲームをしないからピンと来てないのかもしれない。それか、プログラムってものを具体的に知りすぎてるから」

「あれ、もしかしてプログラマーさん?」

「一応、仕事で書いたりしてた。それだけをゴリゴリやる専門家ではないけど」

「すごいですね」

「すごくはないよ。とにかく何というか、プログラムって実際は地味で、当たり前なことの組み合わせでしかない。でも俺が自分の特技を使うとき、地味で当たり前のことをしてる感覚が無いから……」

「ヒナモトさんはその点では初心者だから、ということだと思いますね」

「そうだろうな。自分の能力がいまだに何なのか分からないし。さっき俺、危なかったの?」

「危なかったですねー」オリガはカップを持ち上げようとしていた手を止めて、何故か、にこっと微笑んだ。


 窓の外に見下ろせる街は、急速に日が暮れていく。ティータイムには遅いし、夕飯には早すぎる、半端な時間帯だからか店内は閑散としていた。


「何が危なかったのかもよく分からないんだよな。でも助かったよ。いつも丁度よく来るよな……俺を監視してるの?」

「連盟としてマークはしてますけど、監視ってほどでは」

「マークしてる?」

「うん、マーク? ウォッチ? 何と言うのか……所属や今後の身の振り方が不確定な特技者は、分かる限りトレースはしてるはずです。トレースというか……フォロー? アフターケア? うーん」

「犯罪者予備軍をお巡りが気に掛けてるような状況か」

「まあ、そんなネガティブなものではないけど、近いかもしれません」


 俺は何となく、深く溜息を吐いた。今日は色々なことがありすぎた。


「すみません」オリガは俺の溜息を別の意味に取ったようだった。「プライバシーを探ったりはしてませんから」

「いや、それは別にいい。俺は何度か助けられてるんだし、文句は言えない」

「ほんとに、監視なんてしてないですよ。ただ私は、特技者が強い力を使うときはすぐ分かるんです。見えるんですよ。どこにいてもね」オリガは自分の四角い眼鏡に軽く触れた。「次元の歪みはすぐに分かるんです。それが私の特技です。私にとってはこの世界全体が、波の無い巨大なプールのようなもので。次元が歪むと、プールの底に穴を開けたようになります。真っ平らだった水面に流れと渦ができて、その全体がひとつの場所を指し示す。どれほど離れていても……いえ、限度はありますけど、よほど遠すぎない限りは」

「なるほど」俺はゆっくりとコーヒーを口に含んだ。「怖いな。俺が何かすれば、お前は何処にいてもすぐに分かると」

「よほど強い力に限りますが」

「その強さの加減も俺は知らないから」

「まあその点が問題だしだいぶ不安ですよね。ヒナモトさん自身の、身の安全に関わることだし……」


 店員が来て、テーブルの端に伝票を置いていった。


「実はさっきの女と、その仲間等の組織にスカウトされたんだ」俺は言った。「今までは、えーと、あんたはどこまで覚えているのか分からないけど、俺は攫われて大怪我をさせられて……その後、そいつらから仕事をもらってて……」

「Nコートですね。大体は把握しております」オリガは頷いた。「彼らのよく使う手です。さっきのビルはカンナ中央ネットですね。あそこも割と有名です」

「スカウトは断ったんだけど。それで戦闘になった。断らないほうが良かったかな?」

「普通に考えて、誘いを断ると襲ってくるような相手なら断って正解だったのでは?」オリガはまたちょっと笑みを浮かべた。

「うーん、まあ。けど今まで働いてたところ、Nコートのほうも、長く関わらないほうがいいらしい。それはカンナの言い分だけど、俺自身もそう感じてる」

「どちらも辞めたら?」

「無職になっちゃうけど……でも、まあ、そうだよな」


 駅の改札口で待つだけの仕事をダラダラ続けていたのは、楽だったからだ。拘束時間が少なくて、頭も使わない。毎朝早起きして通勤しなくて良い。でも結局それが、犯罪じみたことに加担させられる下準備なのだとしたら、「楽だから」でいつまでも続けて良いはずがない。


「連盟から求人紹介もできますけど」オリガは言った。「ヒナモトさんの場合、学歴もあってきちんとしたところにお勤めだったわけですから、一般の転職エージェントを使った方がいい仕事に就けそうですけど」

「特技のことは無視して普通に転職活動をしろと」

「の、ほうが良いと思いますけどね。今後の生活で何を重視するかにもよりますが」


 気が重いが、正論だ。俺には親も家族もない。これから先の長い人生、急な怪我や病気をしたり、予想外の不幸に遭っても、自分以外に頼れる人はいない。安定した仕事は必要だ。


「俺が抜けようとしたらNコートは何かペナルティを負わせてくると思う?」

「まあ、過去には、そういうこともあったみたいですね」オリガは言った。「結構それはうちの連盟のほうも関わって大きなトラブルになったので、流石に彼らも懲りたはずですが。もしヒナモトさんがそういうことで揉めたらすぐに連絡をください。私の連絡先ってお渡ししましたっけ?」

「名刺貰ったけど」

「ああ、じゃあそれで」

「念のためもう一枚貰ってもいい?」

「ええ、勿論です」

 オリガは慣れた動作で胸ポケットから名刺ケースを取り出した。細く神経質そうな指が名刺を一枚取り出し、テーブル越しに差し出してくるのを俺はじっと見ていた。


 輪郭が濃くなる。線が浮き上がる。この次元に存在するものと存在しないもの、裏から操れるものと表に見えるもの。その境目に俺は触れることができるらしい。


 俺は名刺を受け取るふりをしてぱっと相手の手を捕らえた。

 左手でオリガの手を掴み、右手をその輪郭線に伸ばす。


「四度目は無いと思った? なんで学ばないの?」

「……え?」オリガはぽかんとした顔のまま聞き返した。「学ぶって?」

「あれ? もしかして『引き継ぎ』がされてない? 自分がなぜ最近何度も記憶を失っているか知らない?」

「いえ、ヒナモトさんの能力によるものだということは承知してます」

「じゃ何故気をつけないの?」俺はオリガの手の甲の輪郭線をつまんだ。

「気をつけるって、何を?」

「お前は避けられるはずだろ!」俺は急激にイライラしてきた。「避けられないにしても、初めから接触しないなり、もっと距離を取るなり……なんでヘラヘラ無防備にしてるんだよ! 殺されないと分かんないのか?」


 オリガの顔はずっとぽかんとしたままで、変わらなかった。


「たぶんもうお伝えしましたけど、私ども『連盟』はNPOですから。特技者の方が助けを必要としたときに、それを提供できる立場であることが大事です。だから相手を選り好みしないし、誰とも敵対しません」

「それは理想論だ。俺はお前を攻撃してるんだぞ?」

「過去の記憶がなんだっていうんです?」オリガは眼鏡の向こうの目を僅かに細めて、奇妙な表情になった。「良い思い出はまた作ればいいし、嫌な思い出なら持っていて自分の肥やしにはなりませんよ。そして思い出以外のものは、記録があるから」

「もう一度消すぞ。いいのか?」俺はそう言いながらも、輪郭線をつまんでいた右手と、オリガの手を捕らえていた左手を、思わず放してしまっていた。


 俺はずっと思い違いをしていた。この若者をバカで無力な相手だと思って、手加減をしてやってるくらいのつもりでいた。けどオリガにしてみればバカで無力なのは俺のほうで、彼の態度の意味するところは、油断ではなく余裕だったのだ。


 今、ぽかんとした顔になっているのは俺のほうで、オリガは薄く笑んでいる。


「……お前、怖いな」と俺は言った。

「みんなから言われます」と、オリガは言い、それからまたコーヒーカップを持ち上げて、にこっと笑った。

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