6.交渉決裂

 元の、三方を壁に囲まれた空間に連れ戻され、パイプ椅子に座らされた。さすがに縛られはしなかったが、縛られているのと同じことだ。三人の男にエレベータの女が加わり、俺を取り囲む。俺が記憶を奪った二人はどこかへいなくなっていた。


「ヒナモトさん」背の高い男が言った。「あなたが高い能力をお持ちだってことはよく分かりましたよ。Nコートが過剰にあなたを警戒した理由も分かりました。あの二人の記憶はもう戻らないんでしょうかね?」

「わからない。わかりません」俺は足元に目を落として言った。「……今のところ記憶を取り戻した人を見たことはない。でも、そもそも関わりのない人ばかりだから、後日のことまでは」

 オリガのことが頭に浮かんだ。俺の攻撃を食らわせてから、「後日」の様子を知れた唯一の人間だが、回復の兆しは感じられなかった。俺が壊した他の無生物にしても、後で直っていたという経験はない。俺が消したベンチや自販機は後日元通りになっていたが、明らかに誰かが新品を置き直しただけだった。

「困った能力ですね。というか、あなたの性格が困った性格というべきか」

「すみません」

 ススキ達にされたことを思い出し、また同じ状況に陥りつつあると気付いて俺は急激に怖くなってきた。

「正直こんなに見境の無いことをする人だとは思ってませんでしたよ」

「すみません……」

「しつこいようですが、あの二人を元に戻すことはできないんですね?」

「俺には、何もできません」


 壊したものを戻せなんて初めて言われたな、と思う。今まで言われなかったのが幸運だっただけだが。だいたい、こいつらが先に俺を攫って縛り上げたんだから、俺のしたことは正当防衛じゃないのか?


 別の男二人が俺の目の前に小机と書類を持ってきた。ペンを渡され、次々と何枚もの書類に名前、生年月日、住所を書かされた。雇用契約に必要な書類だと説明され、よく読んでからサインするようにと念を押されたが、俺の目はぎっしり書かれた文字の上を上滑りするだけだった。


「現時点では期限付きの契約社員という形で、試用期間としますね」背の高い男が言った。

「まだ、仕事の内容を聞いてないんだけど……」俺は一応、言い返した。

「最初は新人研修です。それから、幾つかの部門を数週間から数ヶ月ずつ体験してもらいます。それから適性を見て本配属となります」

「何をしている会社なんです?」

「IT系ですね」

 答えになっていない。IT企業に超能力者は要らんだろう。そもそも「IT系」ってなんだよ。「製造業」くらい漠然としてるんだが。


「ではこの後、研修棟にご案内します」背の高い男は言った。

「まだ、帰してもらえないんですか」

「これから一ヶ月泊まり込みで研修を受けていただきます」

「いやいや、そんな」

 緊急入院じゃあるまいし。事前の予告も承諾もなく、一度帰らせてもらうことすらできないのなら、それは研修という名の監禁だろう。

「おかしいでしょう、いくらなんでも。そういうことならこの書類は一度持ち帰らせていただいて……」俺は自分がサインした書類の束を素早く掻き集めて立ち上がった。

 男達が書類を取り返そうとしてきたら輪郭線を剥がしてやるつもりだったが、それよりも素早く、女があの奇妙な形に握った手を俺に向かって翳した。


 ぴたりと、呼吸が止まった。


 丁度息を吸い直そうとしていたので、タイミングが悪すぎた。二秒でもう耐えがたく苦しくなった。


 俺は持っていた書類の輪郭線を次々と剥がした。紙はするすると虚空に消えた。破いたくらいでは勝手に復元される可能性もありそうだが、消えてしまえばこいつらだってどうしようもないはずだ。


「往生際が悪いよ、オッサン」女が突き出した手を捻るように握り直した。


 途端に身体の力が抜けて俺は床に崩れ落ちた。


 息ができない苦しさよりも、床に打ち倒された屈辱よりも、「オッサン」が一番こたえた。チクショウ。これでもまだ、ギリギリ二十代だぞ。てめえだってあと数年もすればババアじゃねえか!


 書類の残りがまだ十枚ほど、床に散らばっていたが、俺のサインがある頁は全てこの世から消えていた。これでもう、こいつらは、法的に俺を縛ることはできないはずだ。ただ問題は、女が俺を本気で窒息させに掛かっているこの状況で、既に法律なんてものに道端の石ころ程度の意味も無いということだった。


 頭がガンガン痛み始める。経験したことのない苦しみだった。顔の中心にカッと熱が集まり、無意識に自分の手が喉を掴もうとする。ここを掻きむしって捌いてしまったら空気が入るんじゃないかって……そんなわけがない、もっと苦しむことになるだけだと、必死で考え直す。男達が何かを言っているが耳に入らない。視界が、クリアに見えているはずなのに、頭の中で像を成さない。床、書類、男の靴、女のスニーカー、自分の手と指、輪郭線はまだ見えている。ぐらぐらと陽炎のように、不安定に揺れながら、しかしまだはっきりと「線」はある。


 ああ、もういいかな、これくらいでそろそろ負けで、終わりでいいかな。


 暗闇に灯った小さな蝋燭の火のような諦めと死の予感を振り払い、俺は「線」をつかみ無我夢中で剥がした。


 床に散った書類の輪郭線だと思っていたが、俺が摘んだのは床と壁の境目の線だった。


 びゅわんと弾力を持ってたわむ黒い線は、そのままこの空間の角まで剥がれ、二つの壁面の境目の線へと繋がって剥がれ続ける。天井と壁の境となる線も剥がれ、更に天井を走るタイルの継ぎ目に沿って真上の照明にたどり着き、埋め込まれた電球の輪郭線をも連鎖して剥ぎ取る。


 急に解放され、冷たく新鮮な酸素が肺に流れ込んだ。


 そのことに驚く間も無く、と身体の下の床が崩れる。

 俺は何を剥がしている? この部屋そのもの、建物の輪郭線を内側から掴んでいるのだ。遮断されていた酸素を取り戻そうと、激しく三度呼吸する間に、ぞっと血の気が引くような浮遊と落下の感覚を味わう。


 俺は建物を破壊してしまい、足場を失って落ちていくのだと思った。死ぬのだろうか。死ぬだろうな。ここは十二階だったはずだ。建物が消えたのなら、この階にいた人間は全員、墜落して死ぬのだろう。張本人である俺も含めて。馬鹿みたいな自爆テロだけど、窒息死より楽そうだから、俺の最後の望みは果たされたわけだ。苦しみたくないという望みが。


 墜落の衝撃を待ったが、何も起こらなかった。身の毛がよだつような浮遊感が消え、身体が止まっている。恐る恐る目を開けると、無数にひび割れた鏡に映したような景色が広がっている。先ほどいた白い壁の空間に、降りたはずのエレベータ、灰色の通路、寒空の見える窓の断片が細長く切り取られて入り込み、万華鏡を覗き込んだような錯綜した視界だ。男達の姿も、あちこちにその断片が見えるだけ。自分の身体だけが、どこも欠けることなくこの異空間に浮いていた。


 いや、俺一人ではなかった。数歩離れたところに、あの女が立っていた。


 床も壁も天井もない。上も下も、右も左もない。いつも、輪郭線を剥がすときに一瞬だけ見える小さな異空間に、俺は取り込まれてしまったのかもしれない。元の世界に戻れるんだろうか、と思わず不安を覚え、そもそも戻ったら墜落して死ぬだけだと気付く。


 ということは、俺、今、もう実質死んでる? なんだこれ。こんな死に方ってある?


「オッサン、守りたいものとか、助けたい人とか、いないの?」

 若い女が聞いた。軽蔑というよりは、悲しみと憐れみの入り混じった目だった。


「いないと、おかしいかな?」と、俺は返した。


 自分で聞く自分の声は、まさに、若い者から図星を刺されて必死で強がるオッサンの声色そのもので、我ながら心底ダサいと感じた。死んでもこれじゃ、ほんとに浮かばれない。両親もあの世でさぞかし惨めなことだろう。でも要するにそれは、俺の得た力が分不相応なものだったということで、神がいるのだとしたら神の采配ミスというやつだ。俺なんかに何を期待したわけ?


 俺には誰もいない。何もない。


 持っていないし、欲しくない。それで寂しいと思ったこともないし、満足して相応に暮らしてきた。これは強がりではなく本当の、本心からの気持ちだ。


 俺はこの社会で有象無象に紛れて、埋もれて忘れ去られて暮らしたいのだ。


「俺の生き方に文句があるわけ?」俺は、女に向かって開き直った。「じゃあ、あんたは何のためにこういうことしてるんだよ」

「そんなことテメエに教えるわけないじゃん。なに甘えてんの?」女は呆れたように言った。


 ボアコートの両ポケットに入っていた手が、するりと出てきて、彼女はまた俺に向かって手を翳そうとした。


 俺は咄嗟に、無数の景色の断片の中に手を突っ込み、闇雲に何かの輪郭線を掴んだ。彼女を倒したいなんてまったく思わないし、倒せる気もしない。ただ、苦しむのは嫌だ。どうにかして逃れたくて、やれることは何もなくて、俺にできるのは壊すことだけ。


 全ての景色の全ての輪郭線が、強く濃く浮かび上がっている。何もかもくっきりと見える。この世の終わりがこんなにもくっきりと。まるで誰かが描いた絵のようだ。ごちゃごちゃに入り乱れて、断片となって散り、寄り合わさって歪み、互いを映し合う。滅茶苦茶にひび割れた鏡に映り込む、悪夢のパッチワーク。


「ヒナモトさんっ!」

 出し抜けに、別な人間が割り込んだ。


 悪夢の景色が遠ざかり、別な悪夢が……路上に立ち尽くす俺の前にオリガが立ち、深刻な顔で俺の両肩に手を置いて叫んでいる、そんな妙に現実じみた悪夢が陽炎のように立ち現れた。そしてすぐ消えた。


 ビル内の景色の断片が万華鏡のように集まった世界と、オリガの立つ路上の風景が、交互に俺の前に現れては消える。頭がくらくらして吐き気が込み上げてきた。


「ヒナモトさん! ダメです!」オリガの声も近付いたり遠ざかったりする。「次元を破壊しちゃダメです! 落ち着いて!」


 落ち着いてってなんだよ。お前が一番落ち着けよ。


 女の姿がもう見えない。万華鏡のような異空間が急激に現実味を失くして、名残惜しげに俺を引っ張りながら、薄れていく。俺も一緒に消えてしまいたいんだけどな。


「ヒナモトさん! ヒナモトさんっ!」


 最後にオリガのいる方だけが残った。


 冷たい、真冬の、もうすぐ日が暮れ始める街の路上だった。少し広めの歩道の端で、オリガは俺の顔を覗き込んで騒いでいた。


 俺の手の中には、何もない。息はできている。怪我はしていない。


 急に吹き付ける外の風が、氷のように冷たい。


「ああ……、えっと、なに?」俺は聞いた。


「ヒナモトさん……」

 オリガは危機が去ったことに気付いて、やっと俺の両肩に食い込ませていた手を下ろした。眼鏡をかけた生真面目な顔に、少しだけほっとしたような表情が浮かんだ。

「ヒナモトさん、無茶は、いけません……」

「無茶はしてない。襲われてたんだ」

「だからって次元を破壊したら、この空間ごと死んじゃいます」

「俺にそんな力があるわけない」

「でもあれくらいのことはできちゃうわけでしょう?」

 オリガは、俺たちが立つ歩道の脇のビルを、振り仰いだ。


 レンガ調の壁の、二十階建てほどのオフィスビル。その真ん中あたり、おそらく十二階のあたりの一角が、立体パズルのピースを抜き取ったみたいに欠けていた。どうしてこれでまだビルの形を保てるのか不思議なくらい、その階だけが僅かな鉄骨を残して綺麗に消えている。


 道路を挟んで向かいの歩道には、早速、この異常事態を撮影しようと端末のカメラを向けた通行人たちが集まっていた。


「ここを離れましょう、とにかく」オリガは俺の腕を掴んでかなり強く引っ張りながら歩き出した。

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