5.ヒナモトまた捕まる

 目が覚めたのに、何も見えなかった。だからまだ目を開けてないんだろうと思った。身体も全く動かない。俺の身体はどこだろう。なんだか、前にもこんなことが無かったか?


 ぞっと背中を駆け上がるような恐怖で、一気に覚醒する。縛られている。一分の隙もなく。目の前は真っ暗。口と鼻は塞がれていないが、何かマスクのようなものが口の前にあるらしく、息を吐くたびに蒸れる。耳にはまたヘッドフォンか。無音。


「やめてくれ」俺はマスクの中で喚いた。「何もしてないだろ、何も……」


 こんな目に遭いたくないから、ずっと従ってきたのに。酷くないか。こんなこと絶対におかしい。警察に言うべきだった。最初にやられて帰宅したときに、公の権力を頼って委ねるべきだったのだ。自分の悪行も打ち明けることになって、前科はついたかもしれないが、何度も縛られたりぶっ刺されたりすることは無かっただろう。


 前回と同様に、襲撃を受けた記憶はなかった。外出したかどうかも覚えていない。今は何時、何日なのだろう。


 最初のパニックが収まってくると、椅子のようなものに座らされていることに気づいた。背もたれに身体と腕を縛られ、脚は椅子の左右の足に縛られた状態らしい。ヘッドフォンが急に外され、複数の人間がごちゃごちゃ話し合う声が耳に飛び込んできた。

「起きました? ヒナモトさん」知らない男の声がする。「すいません。いま外しますからね。痛くないですか」

「なんなんです、これは」俺は怒りを込めて言おうとしたが、声は力無く震えていた。


 口を覆うものが外されて新鮮な空気が入る。


「すいません。ヒナモトさん。我々の手違いで」と、男が言う。

 人を拉致して縛り上げる手違いがあってたまるか。

「俺、何かしましたか? こんなのおかしいですよね? なんで毎回毎回……」

「まあ、落ち着いてください。我々とは初対面のはずです」


 縄が解かれ目隠しが外された。


 知らない部屋だった。

 正確には、三方を白い壁に囲まれた箱型の空間だった。残り一面には壁がなく、灰色の通路に接している。俺はその空間の中央でパイプ椅子に座らされ、知らない男達に取り囲まれていた。


 五人いた。どの男も二、三十代といったところだ。全員、オフィスカジュアルみたいな小ざっぱりとした装いで、ガラが悪そうな感じには見えない。うち三人は通路近くに立ち、こちらをチラチラ見ながら何かブツブツと議論をしている。残り二人は、俺の前に屈み込んで顔色を伺うように覗いていた。


「何がどうなってるんですか」俺はまた声を震わせながら聞いた。

 事務所でススキと話した記憶が蘇ってきた。どうもあの帰りに襲われたような気がする。あの後、帰宅した記憶がない。帰りの電車に乗ったのは確かなはずだが……。


「すいません。これを」俺を覗き込んでいる男の片方が、眼鏡を差し出す。

 俺は仕方なく自分の眼鏡を受け取って掛けた。


 ぶわっと輪郭が浮き上がってくる。


「ヒナモトさんにお伝えしたいことがございまして、テキストか通話でお話しする予定だったのですが、どうもこちらの手違いがあったようで……」

「ここはどこですか?」と、俺は聞いた。

「申し遅れました、うちはカンナ中央ネットと言って」

「いや、組織名じゃなくて、ここの地名です。モノレール沿線ですか?」

「ああ、そうですね、モノレールも近いです」男が口にした駅名は馴染みがあるものだったので、俺は少しほっとした。


 パイプ椅子から立ち上がる。縛られていたせいか、少し手足が痺れている気がするが、動くのに問題はなさそうだった。


 覗き込んでいた二人を押し退け、話し合っている三人を素通りして俺は通路に出ようとした。

「ちょっ、ちょっと」「ヒナモトさん?」男達は驚いた顔で、俺を緩く囲むように立ち塞がった。


「どこへ行くんです?」俺の拘束を解いた男が、すごく不思議そうに、心外そうに言った。

「どこって、帰るんですよ」と俺は言う。

「でもまだお話が」

「いや、結構です」

「まだ何も言ってないですよ」

「とにかくお断りです」

「あの、断るとかじゃなくて、これはあなたにとっても大事な話で……」

「ああそうですか?」俺はまったく無感動に手を伸ばした。相手の男が伸ばしかけた腕の、手首のところの輪郭線を摘む。


 ペリペリペリ。


 いつも、この瞬間だけは、流れるままに全てを剥がしてしまいたいと思う。現実の世界ってものがカッチリと単純化されて平坦になり、俺はただ出来損ないの紙工作か何かを無邪気に弄り倒してる子供のような気分になる。


 どこまで剥がれるんだろう。


 全てをトコトンまで滅茶苦茶にしてしまったら、その先はどうなるんだろう。


 二人の男が無力化され、残りの三人は青ざめた顔で俺から一歩下がった。

「ヒナモトさん……」

「まだ何かあんの?」俺は相手の声に被せるように返した。

「我々はあなたに危害を加えたりしません。そんなつもりありません」一番大柄な、しかし一番俺から離れた位置に立った男が言った。「ヒナモトさんが最近関わっている組織はNコートでしょう」

「へえ。組織名とかよく知らなかった」

「あそこは良くないですよ。それをご忠告したかったんです」

「それはどうも」

「あそこは特技者を集めて鉄砲玉として使ってます。チラシ配りだとか配送業だとか、さもない用事を言いつけて街中を巡回させておき、チャンスが来たら邪魔者の排除を命じます。特技者の能力を闇討ちに使わせ、面倒ごとになりそうならそのままお払い箱にして使い捨てるんです。ヒナモトさんも、変なことになる前に手を引かないと拙いことになりますよ」


 まあ、結局そんなところだろうと危惧していたから、驚きは無かった。今日のススキは口当たりの良いことばかり言っていたが、奴らがヤクザだってことは元から身に染みて分かっている。彼女自身が「仕事も手段も選ばない」組織だと最初に言っていたはずだ。俺に「集荷」などの接客を伴う仕事を振ろうとしてるのも、他所のビルやオフィスに立ち入る業務に慣れさせ、いずれは「配送行者を装ってターゲットの懐に入り込んだ上で、記憶を奪う」という任務を負わせたいからだろう。そう考えれば、周到すぎる試用期間や高額な報酬にも納得が行くというものだ。


「我々はヒナモトさんをスカウトしたいんです」男は言った。「Nコートとの契約は単発の依頼で、雇用契約は結ばれていませんね? まったくセコい会社だ。うちではちゃんと、ヒナモトさんに、正社員の枠を用意できます。もちろん鉄砲玉として使い捨てたりなんかしないし、福利厚生も一通りのものを揃えてます」

「いや、俺、別に働きたいとは言ってないし」


 なんでこう、どいつもこいつも、俺を雇ったり囲ったりしたがるんだ。俺がそれを喜んで有り難がるとでも思ってるのか?


「目の前で二人やられてるのに、暢気なものだね」と、俺は言った。


 輪郭線を剥がされた二人のうち、片方はぽかんとして辺りを見回しており、もう片方はオドオドと俺や他の男の顔色を窺っていた。


 大柄な男は少し間を置いてから、「彼らに何をしたんですか?」と聞いた。

「さあ……」お前も同じ目に遭えば分かるよ、と思ったが、あんまり挑発するのも嫌なので黙っていた。


 男達がそれきり無言なので、俺はそのまま通路に出た。灰色の通路の片側に、一定間隔で壁の無い小部屋のようなスペースが並んでいる。そのうちの幾つかには人がいるようだったが、通路は無人だった。突き当たりにエレベータが見えたので、俺はそちらへ向かって歩いて行った。


 とにかく帰って寝よう。何時だか分からないが、まだ日は暮れていないらしい。エレベータの脇にある小窓から、冬の寒そうな青空が見えた。


 この、カンナなんとかという会社がどんなに凄い条件を提示するつもりだろうと、俺の心はまったく動かなかった。人を急に拉致して縛り上げたり、取り囲んで甘い言葉で勧誘したりする奴らが、まともなはずはない。どうせまともじゃないのなら、俺はより強い方に付く。当然のことだ。俺の保身を図ってくれるのは俺だけなのだ。


 エレベータの表示によれば、俺のいる場所は十二階のようだった。上階から降りてきたエレベータに乗り込むと先客がいた。白いボアコートのポケットに両手を突っ込んだ、若い女だった。この寒いのに膝丈のスカートからすらりと足が伸び、磨いたように滑らかな脹脛を晒している。足元はスニーカーとカラフルな短い靴下。

 硬質で整った顔だが、どこかあどけなさがあった。二十歳くらい、もしかすると、十代かもしれない。こんなところに子供が、と少し不思議に感じたが、上階に店なり溜まり場なりあるのかもしれないし、さほど気には留めなかった。


 エレベータが降下していく。なぜか、息が苦しい。そのことに気付いた瞬間、急激に見えない力に引き摺り込まれた。


 ガツンと側頭部に固いものが当たり、眼鏡が外れてどこかへ飛んでいった。俺の顔の横にあるのはエレベータの床だった。やや赤みのかかった、冷たく埃っぽい床。俺はその上に無様な格好で崩れ落ちていた。若い女は、心底軽蔑した目で俺を見下ろしている。ゴミでも見るような目だ。


 息ができなかった。比喩ではなく、本当に呼吸が止まっていた。どれほど空気を吸おうとしても、自分の横隔膜がピクリとも動かない。空気はそこにあるのに、俺は溺れていた。頭がジンと痺れるように痛み、締め付けられ、視野がぐらぐらと歪み、伸びたり縮んだりする。自分の血の流れる音がぐわんぐわんと耳を覆って、思考が遠のき、今すぐ死んでしまいたいくらい苦しい。


 女は右手を妙な形に緩く握り、俺の顔に向かって翳していた。


 特技者か。


 いったい何の能力なのだろう。苦しい。死ぬ。俺は死ぬのか。ススキ達が俺を最初に捕まえたとき、言われた言葉が脳裏に蘇る。ライフラインを止めないこと、窒息させたり放火したりしないこと……、などという一般的でない攻撃方法が例としてすぐに挙がったのは、既にそういう特技の存在が知られていたからか。他にもこういう特技者はいるのか? そういえば俺は、自分以外の特技者がどんな能力を持っているのか、よく考えなかったし調べようともしてこなかった。


 エレベータはいつの間にか、上昇に転じている。女は俺に翳しているのとは逆の手を階数ボタンに触れていた。

 息を吸いたい。頭が、脳みそが内側から絞り上げられるようだ。苦しい。ただただ物凄く苦しい。死んでしまう。


 エレベータが止まってドアが開いた瞬間、女が翳していた手を下ろした。

 俺を絞り上げていた見えない力が急に消え、ようやく息を吸えた。吸っても吸っても足りない。息を吐く暇が無い。肺が破裂しそうだ。喉が気持ち悪い笛のような音を立てて、俺の目と口からは蛇口を捻ったように涙と涎が垂れてきた。


 荒い息をし続けながら起きあがろうとするが、手足がもつれてガクガクと震える。


「フン。ダッサ」若い女はエレベータの開いた扉を手で押さえたまま、こちらを見下ろして吐き捨てるように言った。


 俺はエレベータの隅に転がっていた眼鏡を掴み、ぐちゃぐちゃの顔を袖口で拭いながらなんとか立ち上がった。


 さっき見た灰色の廊下に、さっき見た三人の男達が並んでいて、俺は単純に暴力で連れ戻されたことに気付く。話を打ち切って立ち去ろうとした俺を誰もまともに引き止めなかったのは、既に出口を塞いでいたからか。


 ススキ達に負けず劣らず、こいつらは過激な武闘派だった。


「ヒナモトさん」一番大柄な男が、だいぶ不機嫌そうに言った。「我々は話を長引かせたいわけじゃないし、無理難題言ってあなたを困らせようというわけでもない」


 だとしても俺を窒息させて困らせてるじゃないか? 何が言いたいんだかまったくわからない。穏やかそうな単語の羅列を口にしているが、まるで宇宙人の鳴き声でも聞いてるような気分だった。


 女はまだ、片手でエレベータの扉を押さえ、もう片手はいつでも俺に向かって翳せるように待ち構えている。


 泣きたい。今すぐ、ここから消えたい。どうせならワープする特技が欲しかった。俺は、こんなに無力でやられっぱなしでピンチに陥ってて、ほんとにこれで超能力者なんだろうか? 世の中って結局こんなものなんだろうか?


 男達と若い女の、有無を言わさぬ視線に負けて俺はエレベータから降りた。


 袋の鼠だ。殺される。もう死ぬしかない。


 いや、今すぐあっさり死ねるんならそれが一番ハッピーな終わり方なのかもしれない。これ以上痛い思いをするよりは。さっき窒息死してれば良かったのだ。なぜ息を吸ってしまったんだろう。

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