3.反省しない奴
退屈な会社勤めの隙間に夢見る架空の冒険の中で、架空の俺はたびたび負傷した。それは名誉の負傷、冒険者の勲章だった。架空の俺は傷つけば傷つくほど成長し、凄味を増し、身も心も強くなった。苦痛に雄々しく耐え、タフに生き延びて闘う自分を俺は何度も空想した。空想の中の苦痛はどこか甘美で、積み重なるほどに俺の内面を強化させ充実させてくれる、魔法のスパイスのようなものだった。
現実の、本物の俺はといえば、本当の苦痛を前にして惨めさで心が潰れて消えそうだった。
朝起きるたびに傷の痛みはそこにあり、恐怖と興奮が過ぎ去った後に味わうそれはひたすらに俺の自尊心を傷つけ、気力を奪い、この世のすべてへの失望を植え付けた。手脚は痛むだけでなく、熱を持って浮腫み、俺のしたいことをことごとく拒否して妨害した。自分の身体がまるで自分の敵のように見えてくる。睨みつけているとその輪郭線が浮き上がってきて、ああ、これをペリッとしてしまえば俺は何もかも忘れて実質死んだことになれるのかな、と思う。でもそうする勇気は出なかった。俺が俺を忘れても、奴らは俺を忘れてはくれない。「依頼」から逃げたことがバレたら、また連れ去られて、今度はもっと痛い目に遭わされるだろう。記憶が消えたところで、俺の身体はここに残り、苦痛を受けるのはこの身体なのだ。
枕元に痛み止めを置いておくことを覚えた。目覚めるたびに、最初にすることは薬だ。時間の間隔など気にしていられない。パッケージに書いてある用法の倍の頻度で飲んでいたが、それでも何となく少しマシな時間が数十分訪れるだけで、他の時間はひたすらに耐えがたい苦痛を味わった。
コンビニはマンションから徒歩三分。だが今の俺には遠すぎた。出前を何度か頼んだが、これでは貯金が持たないと気付いて、通販サイトでレトルトやカップ麺を箱買いした。何しろ今の俺は無職だし、この身体では当分簡単なバイトもできない。こんなことになるなら、もっと真面目に貯金を増やしておけば良かった。けど「こんなこと」って何だ。とつぜん超能力に目覚めたり、怪しい連中に攫われて手脚を刺されたりするのが「人生において備えておくべきリスク」なのか?
テレビを眺めたり、ネットを眺めたり、痛みを堪えながら茫洋と時間が過ぎていく。何もする気がおきなくて、考えたり悩んだりする気もおきなくて、引きこもっていても退屈さは感じなかった。どちらかと言うと、何かをしなければ時間が過ぎ去ってくれないことのほうが辛かった。
五日が経ち、十日が経った。依頼をどうするか、返事をする期日はまだ先だ。奴らは専用の電話番号を俺に伝えていた。依頼を受けるのか受けないのか、決めた時点で電話で知らせろと。もし、期日になっても電話がなければ、いずれにしろこちらから一度かけるヨ、とあいつは言った。なんかまた試されているんだろうなと思う。期日になるまでこちらから連絡しなかったら、さぞかし印象が悪いだろう。どんな仕事だってそうだ。しかし期日がまだまだ先の現時点で、依頼を受けると連絡したらまるでやる気が漲っているようで嫌だし、逆に依頼を受けないと早々に連絡するのも反抗的すぎる。そもそも受けないなんてことが許されるのだろうか。あと、受けるにしたって、この傷の状態では無理なんでは?
こんなことを五分も考えていると身体の芯から怠くなって、もう何も考えたくない、と頭が拒否し始める。ああ、やはり記憶を失ってしまいたい。ひと思いに殺されたい。全財産払ったっていい。もう何もいらない、夢も未来もいらない、ただただ苦痛から逃れたい。
ほんとに、こんな性格だから、あいつらにも呆れられて蔑まれたんだ。あれをされたときの、スピーカー越しに浴びせられた痛烈な罵倒が、ぐるぐる頭に浮かんで俺を苛んだ。
お前にゃそれでジューブンだろ。クソお坊ちゃんみたいだからネェ。ただのクソニートじゃんか。クソ小心者。あんまりにも役立たずなんで連盟にも見放されたか。
ほんとに充分だった。夢の中の架空の俺は、手足がもげたってタフに冒険を続ける強靭な勇者だった。現実の俺は、チクッとされただけでこのザマだ。痛い、辛い、怖いと泣き喚き、浴びるほど薬を飲んで口を開けてテレビを見ているだけ。自分がこれまでにしてきた悪行は棚に上げて。俺は悪役どころか道端のモブキャラにすらなれない。だって部屋から一歩も出ないんだから。誰の物語にも登場しない、生きてるだけ資源の無駄、ゴミにも劣る存在……
十五日が経った。
帰宅して以来初めて、風呂に湯を張った。それまでは二、三日に一度、部分的にシャワーを当てるだけだった。久しぶりに湯に浸かると、覚悟していたほど傷には沁みなかった。医者の手当てが上手かったのだろう、表面的な傷口はとりあえずほぼ塞がっていた。ぼんやり湯船に浸かっていると、あっという間にお湯が黒ずんで、すえた汗臭いにおいになった。
初日に比べれば、かなり痛みは和らいでいた。まだまだ痛いが、なんとか我慢はできる程度だ。もう数日すればコンビニに買い物へ行くことができそうだ。身体はきちんと回復しつつある。それに気づくと、俺は急にまたどうしようもなく惨めさが増して泣きたくなった。
風呂から上がってぼんやりしていると、友人のアジマからメッセージが来た。学生時代の仲間で、就職してからもときどき会っているグループの一人だ。この週末に集まって飲まないか、という誘いだった。
俺は理由は書かずに行けない旨だけ返信し、それから、アジマになら今の状況を話せると考えた。突拍子もない話でも、俺に非がある話でも、アジマはたぶん、俺の側に立って聞いてくれる。そういう奴だ。俺は端末の小さな入力画面に、文字を打ち始めた。
『じつは、まだ他の奴には話さないでほしいんだけどさ』
アジマはすぐに『え、なになに?』と返信してきた。
『俺、じつは、最近急に変な』
そこで操作を間違えて送信してしまった。
急に変な体質になって、そのせいで怪しい連中に攫われて……と続けるつもりだったが、なぜか俺の指は止まってしまった。
どうやっても、続きの言葉が出てこない。冷たい汗が脇の下に浮かび、不安がじんわりと胸を締め付ける。
アジマは少し様子を見るような間を置いてから、『なんかあったの? どうした?』と送ってきた。
『じつは、仕事、辞めたんだ』と、俺は話を逸らした。
『ええー! マジ?』
『なんか急に無理になっちゃって。ストレス溜めてたのかも』
『うわー大変だったね。じゃあ今、無職?』
『そうだよ、ニート』
『いいじゃん。ちょっと羨ましい。笑。いや大変だろうけどさ。でも今のうちいっぱい休んどきなよ』
『だよな。そうしてるよ』と、俺は書いた。
いつの間にか顔がほころんでいた。このままアジマと普通の日常のやり取りをしていれば、その瞬間だけでも俺は普通の日常に生きる一般人のままでいられるような気がした。嘘でも、アジマの思い浮かべている、ただの今まで通りの俺を演じていたかった。
『じゃあ、なんだ、色々落ち着いたらモトちゃんを囲む会を開かないとな』と、アジマはビールの絵文字付きで書いた。
『うん。今はちょっと色々あれなんだけど』
『だよね。色々忙しいところゴメンよー』
『いやいや、こっちこそ、なんか悪い』
『あんま思い詰めるなよ〜?』
『え、何急に』
『モトちゃんて淡々としてるからさあ。笑。一人で思い詰める前に連絡くれよな。囲む会も、奢るからさ』
『いや、それは申し訳ないって』どうせそんな機会はぜったいに無いのに、俺は本気で遠慮した。
『まあ気にすんなって、お互い様だろー? 俺だって急にクビになるかも分かんないんだしさ。そんときはモトちゃんにタカリまくるから。よろしくね!』
『いやいや。まあアジマが困ってたら奢るけど』
『やったあ。さすが。太っ腹。モトちゃんも、困ってたら言ってよ? 今、困ってない?』
『まあ、色々大変だが、なんとかやるよ。大丈夫』
大丈夫、と書いてる間は、なんだか本当に大丈夫な気がしていた。アジマはそれから共通の友人達の近況をぽつぽつ教えてくれて、また連絡するという文にもう一度ビールの絵文字を付けた。よっぽど飲みたいらしい。
やり取りを終えて端末から顔を上げる。俺の口は笑っていて、目は涙をボロボロ流していた。頭の中は空っぽで、自分の感情の動きが掴めない。身体は痛い。風呂に入った疲れが時間差で染みてきた。やっぱり入らない方が良かったのかな。
玄関のチャイムが鳴った。何か通販で買っていただろうか。居留守を使ってしまいたいくらい、億劫だ。でも、これを居留守でやり過ごしたらまたすごく惨めになりそうで、怠い身体を無理やり起こして玄関へ出た。
そういえば宅配じゃなくて「奴ら」の可能性もあるんだったな、と、ドアを細く開けてから思い出す。ドアチェーンは一応掛けていた。
ドアの隙間に覗いたのはスーツの若い男、見知った眼鏡の若者だった。
「やあ、ヒナモトさん、探しましたよ」二度目に会ったときと、同じことを言う。「会うのは初めてじゃないですよね。私は覚えてませんが。私を覚えてます?」
「一応……でもお前が何者か知らない」
「まあそうでしょう、私は特技者連盟のオリガと申します、特技者連盟についてはまた後ほど。あなたの……ヒナモトさんの、最近始まった体質について、お伝えしなきゃいけないことがあって。ていうか、すごいやつれてますね。大丈夫ですか。もしかして、別な団体からの接触を受けました?」
「たぶんそう」と俺は言った。
苦々しいものが込み上げてくる。何もかも遅すぎた。てめえは遅すぎたんだよと怒鳴りたくなる。本当は、俺自身が招いたことだけど。
「そうですか。ややこしいことになってないと良いですが。たぶんなってますね。ああ、本当に、酷そうですね。あなた酷い顔をしていますね。何かありましたね。大丈夫ですか?」
「……頼みがある」と、俺は言った。
「はい、なんでしょう」
「コンビニで……弁当を買ってきて欲しい。俺は今、歩けない。ずっとカップ麺とレトルトご飯とカロリーメイトばっかり食ってる。もう限界だ」
「あ、あらら、それはそれは」
「弁当とかお菓子とか多めに買ってきて欲しい。金を……」
「あ、いや、お代はこっちで持ちますよ、経費で落ちますからね」オリガは小刻みに数度頷き、俺の好みや食べられないものをてきぱきと確認して、コンビニへ出掛けて行った。
特技者連盟、略さずに言えば、特殊技能保持者連盟は、団体としての分類はNPO法人となっている。つまり、営利を求めた活動はしていない。先天的に、あるいは後天的に、特殊な「技能」を持つことになった人達を、精神面でケアしたり円滑な社会生活を続けられるようにサポートを提供している。俺のように技能を得たことをきっかけに仕事を失ったり孤立したりする人間は多いらしく、そういう人に就職先を紹介したり、金銭面を含め様々な支援をするといった事業が、連盟の活動の大きな柱になっている。
その他に、物理学や生化学の研究機関にデータ提供をしたり、治験の協力などもしている。特技者の存在を理解した上でその学問的な価値を認める研究機関は、あまり多くはないが、たとえば俺のように物理現象の根本的なところに介入できる能力などは、宇宙の原理を知るために重要なデータ源となることもあるらしい。
また、普通の人に無い体質を抱えていると、病気や怪我をしたときに特別な治療方針が要る場合もある。特技者に理解のある医師や専門家を少しずつ増やして連携していくことも、連盟の重要な課題だ。表立って活動すると「自称・超能力者」が大量に寄ってくるので、なるべく目立たず小規模で活動しているが、かといって知名度が低すぎると就職先の斡旋や病院との連携がしづらくなる。そのため、程よい塩梅を模索しながら活動を続けている。
「思ったより地味というか、生活組合みたいな感じだな」オリガの説明を聞いて俺は呟いた。
「まあそうです、生協みたいなもんです。あくまでも特技者の人達の生活の質の向上とか、困窮しないためのセーフティネットの構築が目的となります。だから組織としての結束は薄く、地味で無害な組織です」
「もっと、なんか、正義の味方みたいなやつかと思ってた」
「正義の味方?」
「能力者を集めて組織して、世界の敵と戦ったりさ」
「まあそういう観点で言えば、あなたを攫った組織なんかが、一番そのイメージに近いはずです」
「そうなの?」俺は、自分を痛めつけた人でなし達の言動をぼんやりと思い返した。「とてもそうは見えなかったが……金と利益しか求めてないと言っていたし」
「そりゃ、大抵の組織は金と利益を求めますよ。うちみたいに非営利というほうが特殊なんです」
「けどどう考えても、あれはやくざにしか見えなかった。どこらへんが正義なの?」
「世界に仇なす敵を殲滅すべく闘っているんでしょう。自分達の信ずる秩序をもたらすために。それはやくざだって軍隊だって同じです。自分に矛先が向くときは、それは悪の組織で、尻馬に乗って応援するときには、正義の味方でしょう」
「うーん……極論を言えばそうだろうけど」
しかし俺の腕と脚にナイフを刺し込んでゲラゲラ笑っていたあいつらが、どんな「正義」を信奉していると言うのか。組織としては何らかの理念を掲げていたとしても、奴ら個人には悪意と悪趣味しか備わっていない気がする。
「正義の味方が、こんなことする?」俺は改めて、自分の左腕と両脚の惨状を見下ろした。
「つまり彼らは、あなたを悪とみなしたってことでしょうね」と、オリガは言った。
そう言われると、ぐうの音も出なかった。よく考えたら俺は、無差別に路上の人間を襲って金品を奪う通り魔だった。正義の味方に歓迎されるはずもない。
またどんよりと落ち込んだ気分になった。怠さと痛みが増してくる。
「嫌な言い方しました。すみません」オリガは生真面目に言った。「ヒナモトさんにこんなことをする組織が正義なわけはありませんよ。そいつらがそれを自称してるというだけのことです」
「でも実際俺は悪人だ」
「そうですか?」
「さっき話しただろ。ここしばらくは他人から奪った金で暮らしてた」
「確かに、良いことではないですね」オリガはあっさりした口調で言った。「でもそれとこれとは別です。あなたがご自身を省みてどう思うかってことと、彼らにいいようにさせるってこととは全然別の問題です。とにかくこれは私の失策でした。ヒナモトさんという新しい特技者をいち早く把握していながら、後手に回ってしまった」
それは俺がオリガを攻撃したからだ。話を聞こうともせず、二度も記憶を奪ったから。
「記憶は戻ったのか?」と、俺は聞いた。
「いいえ。まあ色々大変ですよ。特に二度目は油断しててバックアップが最小限だったので、しばらく放浪しちゃってました。それで出遅れたんです」
「バックアップって。お前もしかして、人間じゃないの?」
「いえいえ、ただの生身の人間ですよ。バックアップというのは単に、私に何かあった場合の引き継ぎ資料です。私、こうしていかにも知ったような口で説明してますが、全部自分の書いた引き継ぎ資料の内容を受け売りしているだけです。実感としては私は何も知らないし、自分が誰なのかもよく知らない」
「ごめんよ」と俺は言った。
オリガが買ってきてくれたコンビニの牛丼を食べ終えたので、痛みを堪え、立ち上がる。そろそろまた薬の時間だ。
「とにかく今は混乱してるし疲れてる。少しゆっくり考えたい……」
「もちろんです」オリガもソファから立ち上がった。「急に上がり込んで失礼しました。先ほどお渡しした名刺の、電話かメールに連絡ください。いつでも構いませんから。就職のことでも、治療のことでも、今日みたいに買い出しの依頼でも……単に雑談したいとかでもいいですよ。うちは、まあ、要するに特技者のための便利屋さんですからね」
「ごめんよ」俺はオリガを玄関に送り出しながら、もう一度言った。
「別にいいんですよ。あなたが悪い人じゃないと知ってますから」
「へえ、そうなの?」俺はオリガが靴を履いたのを確かめてから、その後ろ姿に手を伸ばし、首の輪郭線をペリッと剥がした。
オリガだった奴はぼんやりと振り向いた。
「ア……アレ?」
「ここ、俺の家。出て行って」と、俺は言った。
「ハア……ハイ……」
本当に、なんで学習しないんだろう。こいつは馬鹿なのかな。
優しく便宜を図ってくれるだけの奴らとナイフでぶっ刺してくる奴ら、どっちに従うかなんて考えるまでもない。俺はこれ以上痛い思いをしたくない。絶対にだ。
叩き出す際に、ついでに財布を奪った。意外と多めに入っていた。これでまたしばらく食いつなげるだろう。
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