2.人でなしの言
目が覚めたのに、何も見えなかった。だからまだ目を開けてないんだろうと思った。身体を動かそうとするが、ピクリとも動かない。自分の身体がどこにあるのか分からない。もしかして俺は死んだのだろうか。いつの間に?
音も聞こえない。においも感じない。声を出そうとするが、口が開かない。
やがてじんわりと染み入るように、身体に違和感が戻り、それが痺れに、そして痛みに変わった。
縛られている。ガムテープだろうか。目と口もテープで塞がれている。さらに顔をマスクのようなもので覆われ、耳には聴力検査で使うような分厚いヘッドフォンが当たっているらしい。寝かされているようだ。床は固く冷たい。
身じろぎをすると、誰かの気配が近付いてきた。ヘッドフォンが慎重に外される。
「ここがどこだかわかる?」
低い男の声だった。知らない声だ。
俺は首を横に振ろうとしたが、首も固定されていて上手く動かせなかった。
マスクと口のガムテープを勢いよく剥がされた。唇とその周りの肌がビリビリと痛む。
「ちょっと……」
「勝手に喋るな!」身がすくむほどの大声で怒鳴られた。「能力を使ってみろ。一回だけ許可する。実演しろ」
「この状態じゃできない」相変わらず何も見えず、身体も動かせない。
「ふむ。嘘じゃなさそうだな」知らない声はそう言った。
その後、能力を実演させるために縛めを解いてくれるのかと思ったら、そうでもなく、足音は立ち去って俺はまた放置された。
何が起きているんだろう。今は何時だ。そもそも何日なんだ。必死で記憶をたどるが、月曜日の夜中にコンビニへビールを買いに行ったことしか覚えていない。買い物を終えたかどうかも定かではない。店内で襲われた? それとも帰り道? もしかしたら前の週にコンビニへ行った日の記憶と混同しているかもしれない。コンビニなんて行っていないのかも?
必死で考えているうちに、ガサガサと耳障りな音に続けてスピーカー越しの声が聞こえた。
『まず始めに言っておくが……』
先ほどと同じ男のようだ。声は天井の方向から聞こえた。
『我々はべつに難しいことをお願いするつもりじゃない。ただ秘密を厳守してほしいということと、我々の不利益になることをしないでほしいということ、この二つをお願いしたいだけだ。その他には、我々の依頼する簡単な仕事を引き受けてくれるならその都度、相応の報酬を出すつもりだ』
やくざの勧誘みたいだな、と思った。やくざに勧誘なんかされたことないが。
「不利益って例えばどんな?」と、俺は聞いた。相手に声が届くかどうか不安で声を張り上げたつもりだったが、自分で情けなくなるほど震えて掠れた声が出た。
『べつに普通のことだよ、能力を使って我々を攻撃したり傷つけたりしないこと、能力を盾に我々を脅したり金品を要求したりしないこと、建物や備品を壊さない、放火したり窒息させたりしない、ライフラインを止めない、そういうごく常識的なことを心掛けてくれれば良い』
だったら俺が今されていることも非常識なことなんじゃないのか、と思ったが、それを口に出す勇気は無かった。
『手荒な歓迎で申し訳ないねェ』スピーカー越しに、別な声が言った。先程の男よりも声が高く、軽薄そうな口調だった。『チョーノーリョクシャは何するか分からないもんでねェ。両手両足縛っといても目だけで何かする奴もいたりするんで、こっちも警戒しちゃって、スマナイネ』
「俺の、能力を見たいなら、目と片手は使わせてもらわないと」俺は思い切って言った。声はまだ震えていた。
『そうなのォ?』軽薄な声は子供をあやすみたいな口調で返した。
「このままじゃどうにもできないし……そもそも何がどうなってここに連れてこられたのか……」
『まあ分かんないよネ、そりゃねェ。あなたみたいに急に能力に目覚める人ってのは超珍しいわけでもないけど、超多いってわけでもなくてねェ。要は貴重な人材だから、あちこちから引っ張り凧なワケ。他の組織からも勧誘受けてたんじゃないの、たぶん。でもなんかピンと来なかったのかナ、たぶんそうだよねェ、いまだにフリーなんだからサ。他の組織と比べるとねェ、うちは過激なほうだと思うよ。仕事を選ばないし、アコギで、暴力も使う。でもそのぶん報酬は高いし、やることさえやってくれれば他に煩いことは言わないから、しがらみは一番少ないと思うよ。後腐れ無いって言うかねェ』
どういうことなんだろう。俺のように「能力」に目覚めた者は全員が何かしらの組織に入って働かなければならないのだろうか。それはとても納得しがたかったが、なんとなく、ああやっぱり、という気もした。世の中、都合のいい話なんて無いように出来ているのだ。何も知らない一般人に混ざって能力を使い放題で、仕事もせずブラブラ遊び暮らすだけなんて、そんなこと許されないんだ。どうせそんなことだろうと思っていた。
「とにかく……解いてくれませんか。俺は攻撃なんかしないし、仕事も、俺に出来ることならやります」
『まあそう言っといて裏切る奴も多いから』最初の男が言った。『反抗の芽は摘んでおかないとな』
その言い回しが具体的に何を意味するのか分からず、俺は背筋が寒くなった。このままずっと解放されなかったら、食事は、トイレは? そもそも今この体勢ですでに全身が痛くて仕方がない。どこか血管が圧迫されていて、手足が壊死してしまったらどうする。あるいは先ほどのようにまた口も耳も塞がれ、全ての感覚が遮断された状態で何日も放置なんかされたら……人は極端に感覚を遮断されると気が狂ってしまうと聞いたことがある。あれは都市伝説だろうか、それとも科学的な裏付けがあるのか? どっちにしろ、たとえ迷信だとしても、今の俺はこのまま目隠しを取ってもらえず放置などされたらパニックを起こす自信がある。俺は体育会系じゃないし、ブラック企業勤めでもないし、軍隊経験もないし、貧しく恵まれない幼少期など過ごしてないし、逆に超上流家庭で躾という名の厳しい束縛を受けたりもしてない。甘々のユルユルのゆとり三昧で生きてきたのだ。なんならこうやって今縛られて目を塞がれた状態で知らない人達からスピーカー越しに詰められてるというだけで、激しい動悸と気持ち悪い汗が止まらないし、声はぶるぶる震え、涙と鼻水が爆発寸前で、下も失禁寸前だ。
ぜったい耐えられない。こいつらは俺を拷問する気だろうか。する価値も無いのに? というか、俺に何をさせたいんだろう。俺は全面降伏してる。なのに何故、まだ話が続いてる? 俺と彼らの間に対立など起きるはずがない。だって彼らは巨大な暴力そのもので、俺はなす術なくペチャンコにされるだけのチリ紙だから。
『フン、顔色真っ青だヨ、存外にちいせえ男だねェ』また軽薄な口調の声が言った。『連盟の勧誘を突っぱねて暴れてる一匹狼だっていうから、気合い入れて捕まえてみたのにサァ。ただのクソニートじゃネェか。つまらんねェ。こんなの一人どうにもできないなんて連盟も落ちぶれてきたんじゃないの? それともあんまりにも役立たずなんで連盟にも見放されたか』
『いや、こいつの能力が分からんことにはどうにも』と、低い声の方の男が返した。
『まあ、そりゃそうだねェ、オイ、お前はどういうチョーノーリョク持ってるの?』軽薄な声の奴は俺に聞いた。
正直に答えて大丈夫なのか不安だった。しかし嘘をついて誤魔化し通す自信も無い。
「物を壊す能力です。壊すか、消すか、分解するか……結果は自分でも予想できない。あんまり沢山試したことないし」
『フーム。よく分からないネ。素手で物が壊せる? そりゃ単に拳が強い人と何が違うの?』
「俺は……物の輪郭が見えるんです。輪郭が線になって浮き上がって見える。それをつまんで剥がすと……壊れます」
『人間も?』と低い声の男が聞く。
「人間は最後まで剥がしたことないです。いつも途中まで。途中でやめると、相手は記憶を失う、っていうか、ほんとに記憶を失ったかどうかは確かめたことないけど、なんかぼんやりしてその直前のことを覚えてない感じになります」
『フーン、ナルホドネ』軽薄な方の声が言う。『そりゃ強力だ。貴重な才能だねェ。小心者が大変なチカラを授かって持て余してるワケだ』
『なぜ連盟の勧誘を突っぱねたんだ?』低い声の男が聞く。
「連盟の勧誘って、俺に突っかかってきた変な眼鏡がそうだったんですか? ほとんど話してないし、結局何の用事だったのか……」
『フフフ。あんたはよく分からん男だ』軽薄な声は面白がるように言った。『うちの組織向きだよ、きっとネ。うちは目的がシンプルだから。金、利益、得。ただそれだけサ、簡単デショ? これをああしてほしい、ていう依頼があって、それさえこなせば、あとは自由。もちろん無理そうな依頼は断ってくれて構わないしネ。ペナルティとかノルマとか無いからネ。まあバイトみたいなもんだヨ。変な責任は負わされないし、全体像も知らなくていい。あんたみたいな小心者にはうってつけの働き方だろ、ネェ?』
返事を待たれているようなので、「はい」と俺は言った。正直、相手が何を言っているのかまったく分からなかった。依頼とか働くとか、具体的にはどういうことだろう。本音を言えば俺はどんな仕事であれ一切したくはない。でも断ってもペナルティは無いんなら、断れば良いだけ? 彼らがこんなに厳重に俺を縛って警戒するわりに、求めることが簡単すぎて、何か裏があることは明らかだが、それがどういうものなのか見当もつかない。
「あの、俺は、家に帰れますか」
『まあ、まあ、そう焦るなヨ。もちろん帰してやるからサ。今日はまずお前のその能力ってやつを実演してもらって、それから依頼について伝える。引き受けるかどうかは家に帰ってからゆっくり考えてくれればいいヨ。ネェ? そんなに怯えるなヨ。こっちだってお前が怖いんだヨ、分かってくれるネ? 物を壊す超能力なんて、ヤベェ強力なチカラじゃんか、必ず当たるテッポウ持ってるようなもんじゃんか、必ず当たるテッポウ向けられてるこっちの気持ちも分かってくれるネ? お前はテッポウ持った赤ちゃんなのヨ、要するにネ。縛り上げておかなきゃ何するか分かんネェのよ、お前にそんなつもりがなくてもサァ』
いつの間にか相手の呼び掛けが「あなた」から「あんた」、そして「お前」になっている。
『まあ物分かりよくて結構ヨ、クソ小心者なだけだろうけど、素直なのは良いことだネ。今日は能力を実演してもらって、依頼をひとつ出す、それでお前はおうちに帰る。帰ってゆっくり考える。それでいいネ?』
「はい」と俺は言った。
相変わらず、視界は真っ暗だ。動かせるのは口だけ、使えるのは耳だけ。全身が痛い。ギリギリ、ミシミシと音がしそうなほど。指先ひとつ動かせない。寝返りも打てない。どうも縛られているだけでなく、床に固定されている気がする。
こんな状態で「はい」以外の答えをする奴がいるんだろうか?
『フフフ。素直だネ。いい子だネ。じゃあ今から実演をしてもらうから、半分解いてあげるヨ、目と手を使うんだっけ? 右手でいい?』
「はい」
『じゃあ右手残してネ。リョウ君、やって。起き上がらせてあげてネ。集中できるようにネェ。あのさ、一応予告しておいてあげるけど、ちょっとチクチクするヨ。チク、チク、チク、三回ネ、左腕と脚と脚。お前にゃそれでジューブンだろ、クソお坊ちゃんみたいだからネェ』
「えっ」と言う間も無く、乱暴に腕を掴まれ、バリバリとガムテープを剥がされた。この部屋にもう一人誰かが居たことに、初めて気付いた。最初からずっと居たのか。一言も喋らずに。俺をずっと見張っていた? 能力で余計なことをしないように、する気配があったらすぐに抑え付けるか、殺すため……
床から引き剥がされ、腰のあたりのテープを剥がされ、硬い椅子のようなものに座らされる。まだ目を塞がれたままだが、無言の相手はかなりの筋力と体格を持っているように感じた。自由になった腹筋のあたりにじんわりと血流が戻る。ふわふわとした開放感。汗で蒸れていた皮膚は涼しく、内側は暖かい。自由って素晴らしい。身体の一部を縛られていないというだけの、ごくごく小さな自由が、これほど身に染みるとは。そしてすぐ左腕も自由にされた。指先が生き返る……
そして「チク」が来た。
注射か何かするような位置、二の腕に、「チク」なんてもんじゃない、メシャリと何かが入り込んで熱くなって何かが入り込んで、熱い、火をつけたようだ、痛い! 痛い! 痛い!
自分の口から自分のものとは思えない悲鳴が上がった。
『フフフ。大袈裟だなァ』軽薄な声がスピーカー越しに笑う。
「貫通する?」俺を掴んでる男が野太い声で天井に向かって聞いた。
『アー、ウン、腕はさせといて。こいつは手ェ使う能力者みたいだからネ。脚はいいや。チクッとでいいヨ、チクッとだけ』
腕の熱いところにまたメシャリと負荷が押し付けられ、これ以上無いと思っていた痛みが坂道を駆け上がるように倍加される。肉を素手で引きちぎられるようなブチブチという感触にひとつひとつ目も眩むような痛み、痛み、痛みには天井が無いのだと思い知らされる、この痛みの上に更に酷い痛みがあり、それを上回る耐え難い痛みがあり、これ以上は無いと思ってもその上はもっと痛い、痛い! 痛い! 痛い!
自分の鼓膜が自分の声で破れるのではないかというくらい叫んだ。
「チッ……うるせぇな」俺を掴んでる男が心底面倒そうに呟く。
右脚が解放され、太腿の裏側にまたメシャリと刺し込まれる。新しい痛みに驚く暇もなく、左脚にも同じ痛みが来た。
「うるせえよ」
頭の右側を拳骨でゴンゴン殴られて、ようやく俺の喉は叫ぶのをやめた。口が自分のものじゃないみたいだ。気づくとごめんなさいごめんなさい許してください許してくださいと止めどなく言い続けている。それも「うるせえ」と殴られた。
『アハハハハ。いじめ甲斐があるネェ』スピーカー越しの軽薄な声が言う。『まだ刺さったまんまだヨ。これから抜くヨ』
「嘘でしょ」思わず声が漏れる。
『いやほんとほんと。刺しっぱなしというわけにもいかんデショ』
はあああ、と俺の側にいる男は、本当に心底から面倒そうに溜息をついた。
抜くときは刺すときの五倍痛かった。特に腕を貫通したものを抜くときは頭が沸騰するような感覚になり、フワッと意識が飛びかけてもうこれで飛んでしまえば楽になるのにと思って、それから俺の空っぽの胃がぐねぐねとでんぐり返って酸っぱい唾みたいなものをベショベショ吐いた。
「汚ねえ。もうやだコイツ」男が呆れた声で言う。
『こんなんじゃウンともスンとも言わない子も多いのにねェ、いやはやリアクションが大きい子は楽しいもんだネェ』
軽薄な声の奴は本当に笑っていた。本当に、お笑い番組でも見ているかのように。人でなし、という言葉が浮かぶ。もちろん口になんか出せなかった。
実演は文房具や日用品、拳銃のようなもの、それから拘束された男二人をやらされた。それから依頼の内容を言われ、左腕と両脚の怪我に丁重な手当てをされ、コンビニに行ったときに自分が着ていた服を返された。俺は縛られているあいだ自分がずっと全裸にオムツにぐるぐる巻きのガムテープという格好だったことを知った。オムツはめちゃくちゃに汚れていたがもはやなんとも思わなかった。肌着に腕を通すことができず、前開きのシャツだけ着て、下はどうにか下着とズボンを履いた。手当てをした医者は、市販の痛み止めでも飲んでしばらく静かにしてれば動かせるようになると言った。「今から体操選手かピアニストになれますかっつったら、なれないけど、そんな予定無いでしょ? 普通に暮らすぶんには問題ない。傷が塞がったら痛くても積極的に動かすようにね。でないと動かせなくなるから」俺はただはい、はい、と下を向いて頷いた。
部屋を出るときもう一度目隠しをされ、車で自宅に帰された。エレベータがあるマンションで良かった。両脚は一歩進むたびにビリビリ痛んだが、手当てした医者が打ってくれた麻酔が少しは効いているようだった。
俺は「実演」のために見知らぬ男二人の輪郭線を剥がしたが、そのとき初めて知ったことがあった。俺は一人目を「途中まで」剥がし、二人目を「完全に」剥がすように命じられたが、どちらも結果は同じだった。二人とも記憶を失っただけだった。内臓を撒き散らしたり、骨だけ残ったり、あるいはそれ以外の形で肉体が分解することはなかった。
俺は自分の能力について勘違いをしていた。これまでの経験から、人間だけは途中まで剥がしてからやめることができ、人間以外に対してはそれができないのだと思っていた。しかし実際には人間に対しても「途中まで」などという操作は無かったのだ。俺が途中までだと思っていた「ペリッと」が、既にこの能力の完成形だった。
俺はずっと、自分は一線を越えてはいないと思っていた。つまり、まだ人を壊してはいないと。けど本当は、俺はとっくの昔に、あの最初の瞬間に、堂々と一線を越えていたのだ。そしてずっと無邪気に、無差別に、沢山の人間を壊し続けていた。何の疑いも持たず、ほとんど罪悪感も無いまま。
人でなしは俺だった。
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