邂逅

1.ショボい能力

 眼鏡を新調したら、物の輪郭がやたらくっきりと見えるようになった。


 街路樹、枝、葉、葉脈。ビル、窓、窓枠、庇。柱、階段、スロープ、手摺。信号機。街灯。立看板。車止め。ベンチ。マンホール。

 見飽きたはずの通勤路に、こんなにも沢山のものが溢れていたのかと、目が覚めるような思いだった。

 いつも立ち寄る自販機も、まるで下書きを消し忘れたイラストのように輪郭が際立っていた。飲料を選びながら俺は、自販機の輪郭がいよいよ濃く浮かび上がって主張してくるのを感じた。


 思わず俺は、自販機の側面の一辺となる輪郭線を指でつまんでいた。


 台紙に載ったシールのように、自販機の輪郭線はペリペリと剥がれた。


 その手応えは不思議なほど気持ち良かった。線はよくしなり、引けば引くほどその先も連鎖的に剥がれてくる。輪郭線を失った自販機はそこだけ蜃気楼のようにぼやけ、溶け出しそうに震えていた。そして俺が側面と前面の半分以上の輪郭を剥がしたとき、


 ぐるん。


 突然、自販機の本体が。直方体の外形が搔き消え、靄に包まれたような小空間が一瞬だけ見えた。続いて大量の飲料の容器がダバダバと落ちて歩道いっぱいに広がった。


「ちょっと! ちょっと!」いきなり激しく肩を叩かれた。「あなた! 何をやってるんです!」

 振り向くと、ゴロゴロ転がる飲料に躓いてよろけながら、スーツ姿の若い男が俺を睨みつけていた。生真面目ぶった眼鏡の向こうの目が、憤慨に燃えている。

「あなた、なんでこんなことするんです? 次元を破壊する気ですか?」

「いや、俺、別に……」

 弁解しようとして、ふと、男がこちらに伸ばしかけた手の輪郭がやけにくっきりと、強く、浮かび上がっていることに気づく。


 俺はまた思わずその輪郭線をつまんでいた。


 ペリペリペリ。


 小気味良い手応えとともに男の手から輪郭線が剥がれていく。男の目と口がアルファベットのOの形に開かれた。


 いい気味だ、と思ってしまった。そんな自分に少し驚いた。仕事のストレスが想像以上に降り積もっているのだろうか。それとも俺は前から、もともと、こんなに無慈悲で攻撃的な人間だっただろうか? 男の慌て顔を見ても、なんの感慨も湧いてこなかった。死ぬなら死ねばいいと思った。どうせ訳わかんない絡み方をしてきた怪しい奴だし、自業自得だ。

 ただ、目の前の男が輪郭線を失ったら、自販機と同じようにその中身をぶち撒けるのだろうか、と考え、なんかそれは汚くて嫌だなと思った。自分の靴にかかったら臭そうだし。俺はつまんでいた線を放した。


 輪郭線は磁石に引かれる鉄のようにぴゅるりと男の手に戻り、その肌に馴染んで見えなくなった。


 輪郭線の浮き上がっていない普通の姿になった男は、急に焦点のぼやけた目で俺を見て、「ア……エ……?」と言った。

 それから数秒置いて、凄く不審そうな顔をしつつ、

「エト……ナニカゴヨウデ……?」

 力の入れどころを間違えたような、妙な声色だった。

「は? お前が話しかけてきたんだろ」俺が強めの口調で返すと、男は曖昧な笑みと会釈を残し、ふらふらと背を向けて去って行った。


「なんなんだあれ」

 俺は男の後ろ姿を数秒見送ったが、間もなく歩道に飛び散った大量の飲料を見つけた通行人達が次々と足を止め、写真を撮ったり人を呼んだりし始めた。面倒なことになる前に、俺は無関係なふりをしてそっとそこを離れた。



 時刻を見て、遅刻しそうだったら休んでしまおうと思ったが、別段そんなこともなく普通に間に合ってしまった。


「ヒナモトくん、あのねえ」

 自分のデスクに収まり、昨日半分まで進めた業務の続きに取り掛かると、すぐに上司が話しかけてきた。ヒナモトくん、の「く」に変な抑揚のついた言い方で、何かのアラームのように耳に付く。俺は、近頃ではこの声を聞くだけで反射的に、話の内容に関わらずイライラするのだった。

 上司の用件は、先月俺が提出したリストをもう一度出してほしいとかいう話だった。同じものをまた出すだけなら、大した手間ではない。しかし、先月提出したぶんは要するに失くしてしまったということだろう。先月死ぬほど急かして提出させたくせに、今日まで使っていなかったということだし。それを隠す気もないところがまたうんざりする。


 この無神経なオッサンの輪郭線をペロッと剥がして裏返してやったら……俺は自分の想像に寒気を感じた。


 俺は椅子に掛けており、上司は二つ隣のデスクから立って俺の席まで来たところ。上司の手が、目の前にある。輪郭線が際立っている。書類を渡す動作とともにそっと手を伸ばせば、その輪郭線を取れる距離。ペロリ。剥がしたらどうなる? 内臓を撒き散らして裏返る? あるいはその手前で止めれば、さっきの奴のように記憶喪失になって、フラフラ去って行くのだろうか。記憶はどれくらい消えるのだろう。自我は、性格は、判断力は? わからない。だいたい、ここの課の業務を指示するこの上司が欠けたら、仕事はどうなる。会社は。クソな上司でも急に消えられると面倒だ。


 俺は一時間ほど黙って仕事をし、それからコーヒーを淹れに立った。オフィスの片隅にコーヒーサーバがある。そこに別の課の新人らしき女がちょうど立ち寄っていた。もうこいつでもいいかな、と思ったけど、彼女だってもしかしたら凄い有能で、居なくなったらみんなが困るような人員なのかもしれない。


 ぴちりと纏まったポニーテールが、女の振り返る動作で揺れる。輪郭が。浮き上がっている。髪。顔。目、鼻、口。肩、腕、袖口。


「あ、すみません」

 俺が待っていると思ったのか、女は自分のカップを持って素早くその場を空ける。

 そもそも、あまり親しくない相手だと輪郭線を取れるほど近寄れないな、と気付く。女性相手に手を伸ばしたらセクハラと疑われかねないし、男性相手でも昨今じゃどう受け取られるかわからない。握手するふり、が一番良さそうだが、そう上手くいくだろうか。「服に何かついてますよ」と言って手を伸ばす? いや、そこまでするくらいなら後ろから不意打ちでも同じだ。


 ポニーテールの女は去り、俺はコーヒーサーバの複雑に入り組んだ輪郭線を見つめながら、しかしこれはリース品だし壊したらやはり面倒だし……と考え、結局ただ普通にコーヒーを淹れてデスクに戻る。


 その後も表面上は普通に働き、普通に退勤して帰宅した。


 食事もそこそこに、自宅のボールペンや食器など、壊れても困らないものの輪郭線をいくつか剥がしてみた。食器はどれも、跡形もなく消えた。ボールペンは、一部の部品は残った。中に仕込まれたバネや金輪、グリップのシリコーンパーツなどがバラバラと落ちたが、本体の筒とインクチューブは消えてしまった。必ずしも外側の部品が消えて内側の部品が残るわけでもないらしい。最後に、壊れたまま処分を先延ばしにしていた炊飯器をやってみた。釜と内蓋と、大量のプラスチック製の小部品が残った。あとネジが数個。

「基準がわかんねえな」

 一定の結果が得られるのか、ランダムなのか。色々壊して試したいが、壊して惜しくないような物なんてそうそう持っていない。

 能力の詳細がわからないと、これで何か儲けようとか新しい仕事をしようなどとも思いつかない。

 部屋の隅を季節外れの小さな蜘蛛が歩いていた。虫なら丁度良い。生け捕りにして輪郭線を剥がしてやろうとしたが、あまりにも小さくて柔らかいんで、普通に指の力で潰れてしまった。

「うーん……」

 ゴキブリでも出てくれないかな、と一瞬思う。しかしアレは輪郭だけでも触りたくはないな。やはり却下。


 なんだかわからないし、明日までこの力が持続するとも限らない。そう考えると色々馬鹿らしくなって眠くなった。



 俺はその後も普通に暮らし続けた。あれ以来、変な奴からの接触は無かったし、収入が増えたり、恋人ができたり、性格がポジティブになったりもしなかった。ただ、たまにレジの順番待ちでイライラしたら、すぐ前に並んでいる人の輪郭をピリッと少しだけめくった。剥がされた相手は大抵、何か用事を思い出したようにフラフラ去っていく。おかげで少し待ち時間が減る。我ながらショボい超能力だなと思う。もっと有意義な使い方があれば良いのだが、あいにく戦闘を仕掛けてくる強敵もおらず、そんなものを自分から探しに行こうとも思えない。


 人間以外の物に対しては、ちょっとだけ剥がして戻す、は通用しないようだった。少しでも剥がすと、元には戻らず、その物体は消えたり分解したりしてしまう。道端の標識やベンチを何度か消してしまい、そのたびに警察が何かの手がかりを掴んで俺を追ってくるのではないかと怯えたが、それも杞憂だった。標識は消えたまま誰にも気付かれず、ベンチは翌月には新しいものが置かれていた。


 俺はこの能力を得たことを誰にも話さなかった。話さない、という強い決意があったわけではなく、話したい相手もその機会も特に無かったのだ。だいたい、自慢できるほど有用な能力ではないし、その力を使って俺のしてきたことはどれも、あまり褒められた所業ではない。


 ときどき、ムシャクシャすると路上ですれ違った他人をペリッとやった。輪郭線を途中まで剥がされて茫然自失した相手からは、鞄や財布を簡単に奪うことができた。現金だけ抜き取って、財布や鞄は捨てた。手に入れた金で適当に無駄遣いをしてみたり、前から欲しかった物を買ってみたりしたが、何をしても想像以上につまらなかった。俺の能力を使えば、金なんてものは道行く人からタダでいくらでも取れるもので、それを店に持ち込んで何かを買うという行為が、もはや右の棚から左の棚へ物を動かすような作業としか感じられなかった。むしろ、店に足を運んだり品物を選んだり家にそれを持ち帰ったりと、労力を払っている分だけ俺が損をしているような気すらしてきた。



 俺が裏返してしまった自販機の場所を見に行ったら、そこには何事も無かったかのように新しい自販機が置いてあった。ひとつ変わったことといえば、「防犯カメラ作動中」というこれ見よがしの看板が取り付けられたことだ。


 ぼんやりそれを眺めていると、あの日俺を叱りつけた眼鏡の男が、また現れた。

「探しましたよ、良かった……」


「え、何が?」と言って俺はそいつの手の輪郭線をペリッと剥がして戻した。

「ア……エ……」

「さっさと行けよ」俺は眼鏡男の財布を奪って追い払った。学習しない奴だ。むしゃくしゃして腹が立つ。




 仕事は辞めた。

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