輪郭線上のアリア

森戸 麻子

プロローグ 一線を越えるとき

 痛み。痛み。痛み。痛み。そのことしか考えられない。隣で低い男の声と、軽薄な高い声が交互に何か言い続けている。その言葉は何ひとつ聞き取れないが、内容はわかっていた。俺に能力のをしろと迫っているのだ。


 目の前には男がいた。キャスター付きの椅子に座らされて、両手は背もたれの後ろで手錠をされ、両足首もそれぞれ別の手錠で椅子の中心部に繋がれている。腰には荷物用の細縄が巻かれていた。

 知らない男だった。あまり若くもない。疲れた顔で、目はどんよりとして眠そうで、頭は禿げかかっている。

 実験台に差し出されるということは、彼はこいつらの仲間ではないのだろうか。これからどんな目に遭わされるかわかっているのだろうか。

 左腕と両脚から大量の血を流している俺を見ても表情を変えないということは、すべて承知の上で完全に諦めているのか。


 傷付いていないほうの手を伸ばす。俺の座らされているパイプ椅子が軋むが、両脚が痛すぎてそれ以上身じろぎもできない。

 痛み。痛み。痛み。痛み。

 頭が沸騰しそうだ。目の前の視界とは別に、真っ赤に埋め尽くされた別の視界があって、苦痛に満ちた何者かの叫び声が頭の内側を埋め尽くす。


「届かないか?」

 俺に命じていたやつらのひとりが、男の乗ったキャスターを乱暴に引き寄せた。

 実験台の男はどんよりとした目を少し上げて俺を見た。


 が浮かび上がる。


 男の目、顔、禿げかかった頭、耳、丸まった肩、くたびれたTシャツとそのシワ、手錠とロープとキャスター付きの椅子。すべての輪郭が、ペンでなぞったようにくっきりと浮かび上がる。

 俺は男の手首の輪郭線をつまんだ。シールを台紙から剥がすときのような、小気味良いいつもの感触とともに、男の輪郭を形作る線が連鎖的に剥がれ出す。手首から腕へ、腕から肩へ。男の身体に変化は見えなかったが、Tシャツは袖の輪郭線を少し剥がした瞬間にふつっと消えた。


 男の上半身が露わになる。思った以上に痩せていて、腹にはちょうど大人の足で踏みつけたくらいの大きさの青あざがあった。


「全部だヨ。遠慮しないでねェ」耳障りで軽薄な声が、俺の耳元に告げる。

 遠慮などあるはずもない。俺が心配するのは俺の痛みのことだけ。目の前の男が泣いて命乞いしようが、構うつもりはなかった。

 男は疲れた眠そうな目を、ほんの少しだけ見開いた。


 俺は震える指で剥がした線を巻き取り、腕を軽く振りながら手繰る。

「あ」

 誰かの声と、俺自身の無意識に出た声が重なった。

 くぐもった音とともに男の身体が床に投げ出される。気づかないうちに椅子の輪郭線も一緒に剥がしてしまったらしく、座面といくつかの部品が消え、残りの部品はバラバラに飛び散っていた。

 男の輪郭線はもう、半分も残っていない。右の脇から腰にかけてと、右脚の途中までだ。

 それを全部剥がしてしまったらどうなるのか、俺にもわからない。バラバラになって飛び散るのか、跡形も無く消えるのか、それとも……いずれにしろ無事でいられるはずはない。

 自分の痛みだけで埋め尽くされていた俺の頭の中に、微かな不安が頭をもたげる。


 こんなことをして、いいのだろうか?


 だが、良いも悪いもなかった。パイプ椅子の上で身を乗り出そうとした途端、両脚と左腕の刺し傷が塩水をぶっかけたように激しく痛んだ。染み入るような痛みの波が俺の全身を骨の髄まで洗う。血の気が引き、冷たい汗が噴き出し、意識が遠のき、また引きずり戻されるように覚醒する。

 痛み。痛み。痛み。痛みだけ。

 輪郭線をほとんど失った男は、疲れた表情のまま床に横たわっていて、俺はその気楽そうな顔に急激に怒りを覚えた。


 あんたはいいよな、全然痛くなくて。俺のこの地獄の苦しみの半分でも味わえばいいんじゃないのか。どうせろくな人間じゃないんだろ? こんなところでこんな連中とつるんでる時点でさ。


 動悸と息切れに喘ぎながら、残っていた最後の線を手繰り寄せる。ペリペリと連鎖する軽い手応えとともに、男を形作っていた輪郭線の残りがすべて剥がれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る