第100話 フリデリカの奮戦

 オスマン軍の選択肢はおおまかにいって三つある。

 ひとつはこのままコンスタンティノポリスの攻城を続けることだ。

 しかしヤン・イスクラ率いる傭兵部隊の戦闘力はあまりにも強大で、早急な落城が望めないのは明らかだった。

 先日ワラキア軍が多用していた手榴弾や火炎瓶を大量に装備している以上、疲弊の激しいオスマン軍にはその損害に耐え切れぬ可能性すらある。

 海峡を封鎖していた砲台群が壊滅して、ボスフォラス海峡の制海権が完全とはいえないのも大きい。

 オスマン艦隊はいまだ八割以上が健在だが、海峡の封鎖を継続するためにそのほぼ全力が拘束されており、物資輸送に深刻な船舶の不足をもたらしていた。

 ふたつめはワラキア軍の後をたどり追撃することだ。

 しかしこれにはいまだワラキア軍がどこへ逃げたか定かでないという致命的な欠点がある。

 もう少し情報を集めれば判明するのかもしれないが、仮にブカレスト要塞あたりに篭られてしまってはもはや追撃どころではない。

 現状では実現可能性の低い選択肢であった。

 みっつめはワラキアと講和を結ぶことである。

 これは今のところメフメト二世とメムノンが継戦の意志を明らかにしている以上、考慮する余地のないものだ。

 スルタンの直系がメフメト二世以外に存在しないため本国貴族がいきなり離反することはないであろうが、服属させた属国や辺境はオスマンの力が弱体化すればいつ叛旗を翻してもおかしくない。

 一応ワラキア公を戦場で破ったという名分が立たないではないのだが、このままなんの成果もあげられずに講和するようなことがあればアルバニアやブルガリアの失陥は確実である。

 というよりワラキア公が、支援を受けたアルバニアとブルガリアの解放を条件にしてくるのは間違いないのだ。

 仮にそうなれば首都であるトラキアのアドリアノーポリが直接危機に晒される。

 とうてい呑める条件ではなかった。

 もっとも、オスマン帝国の存続という観点からは、たとえ国土が縮小しようともここで和平するべきなのかもしれなかったが。


「ぬるいぬるいぬるいなあ! そんなじゃ暇すぎてあくびがでちまうぜえ!」

 楽しそうに指揮を執るヤン・イスクラの蛮声を病室で聞きながら、ヴァニエールは化け物め、と思う。

 野戦指揮官として優秀な部類と自負してきたが、ヤン・イスクラは規格外であった。

 敵が何をしたいのかと的確に読み、それを絶妙のタイミングで邪魔している。

 自分や幹部が狙撃されないよう気を配りながらである。

 弾薬や人命の損耗も、ヴァニエールが指揮していたころより半分以下で済んでいるのだから恐ろしい手腕であった。

「もう頑張るだけ無駄だと思うがね。オスマンさんもいつまで意地を張っていられるかな?」




 東欧世界の覇権を決める戦いから遠く離れたポーランドでも、その影響は如実に現れている。

 この戦いの帰趨は、ポーランドの国家戦略において大きな戦略の変更を強いるものなのだが、果たしてどちらが勝つのかカジェミェシュ四世には判断がつかなかった。

 そんな折りである。ワラキアへと嫁に出した義妹が訪れたのは。

「――息災であったか、我が義妹よ」

「陛下の御情を持ちまして」

 正直なところカジェミェシュ四世は目を疑っていた。

 最初はフリデリカがワラキア亡国の危機を察して、逃げ帰ってきたのではないかとさえ疑っていたのだ。

 それほどにこの義妹は気の弱い平凡な娘にすぎなかった。

 ところがこうして相まみえれば、その堂々たる威風はまるで一国の王妃であるかのようである。

 たった二年足らずで何があれば人をここまで変えてしまえるものか、カジェミェシュ四世には想像もつかなかった。

「時間がありませんので単刀直入に申します、陛下にはワラキアへ早急な援軍をお出し頂きたいのです。それもできるかぎり注目される程度の数で」

 フリデリカの要求にカジェミェシェ四世は表情は変えずに失望した。

 意気込みは立派だが、それだけで一国を動かしうるものではない。

 それともあの怯えるような義妹が、正々堂々こうした要求を述べることができることを喜ぶべきであろうか。

「フリデリカ、無茶を言うものではない。ワラキア公が祖国を守ろうとしているように、余にもポーランドを守るという責務がある。一国の命運を博打に賭けるような真似はできんのだよ」

 ましてカジェミェシュ四世にとって、ワラキアは必ずしも永遠の友好国というわけではない。

 むしろ利権をめぐっては、仮想敵国に位置するといっても過言ではなかった。

 義妹には決して言えないことだが、カジェミェシュ四世はもし戦いがオスマンの圧勝に終わった場合、モルダヴィアを手中にせんと決意していたのだから。

「ヴラド殿下は勝ちます。勝ってこの東欧の覇者となるでしょう。そのときポーランド王国が手をつかねて傍観していた場合、それはポーランドにいかなる将来をもたらすでしょうか?」

 フリデリカの発言は、無視できぬ要素を含んでいるようにカジェミェシュ四世には感じられた。

 あまりに迷いのない確信に満ちた言動が、単にヴラドの勝利を信じているというだけでは済まないような気がしたのである。

「妻が夫を信じるのは美徳ではあるがな? 戦とはお前が考えるほどに甘いものではないぞ?」

「少し言葉に語弊がありましたわ。勝つのではありません。すでに勝ちつつあるのです。カッファの港では今頃はその話題で持ちきりでございましょう」

 カジェミェシュ四世は自らの顔が驚愕に支配されていくのを抑えることができなかった。

 カッファはポーランドが持つもっとも巨大な港湾都市である。

 そのカッファに情報が入るということは、ジェノバの艦隊がオスマンの艦隊を打ち破ったということかであろうか。

 確かにその可能性は考慮していた。

 なんといっても黒海に港を持つポーランドとしても、ジェノバ艦隊の精強ぶりは熟知するところであるからだ。

 オスマンがボスフォラス海峡を砲台で封鎖したと聞き及んだときには、ジェノバ艦隊もこれまでかと思ったものだが、ジャノバ艦隊が力づくで撃ち破ったのかもしれぬ。

「ジェノバ艦隊が勝利したからといって、ワラキア公が勝利するとかぎったものではないのだぞ?」

 この場合、ジェノバ艦隊ではなく、ワラキア公の勝利だけが問題なのだった。

 ジェノバは結局のところ一枚岩ではないし、オスマンにとって海軍力は戦の最重要要素ではないからだ。

 いくらジェノバが快哉を叫んでも、ワラキア公が陸戦で敗北し、あるいはコンスタンティノポリスが陥落してしまえば、最終的な勝利はオスマンで動かない。

「オスマンがまんまと殿下の陽動にかかり、コンスタンティノポリスへヤン・イスクラの入城を許したこと、カッファでは幼子ですら知っておりましょう」

「ヤン・イスクラだとっ!」

 薄く笑いながらフリデリカのこぼした言葉が与えた影響は甚大だった。

 上部ハンガリーの雄、ヤン・イスクラの名はカジェミェシュ四世も承知している。

 というよりも敵国である神聖ローマ帝国との抗争では、少なからず互いに協力しあってきた仲であった。

 もし彼が配下とともにコンスタンティノポリスへ入城したというのなら、もはや生半なことでは落ちまい。まず間違いなく一月や二月で落ちないことは確実だ。

 だが、いったいどんな魔術を使えば重囲にあるコンスタンティノポリスへ増援を送り込めるものか。

「その話、確かめさせてもらうがよいか?」

「お急ぎなされませ、陛下。ワラキアを支援しようとする国は何もポーランドばかりではありませぬ。あまり遅れては勝ち馬に乗っただけとそしりを受けましょう」

 援軍を乞うていながら、むしろそれがポーランドのためであるがごときフリデリカの言いように、カジェミェシュ四世は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。

 確かに、勝利が確実になったあとで支援をしたとしても、恩に感じてくれるはずがない。

 そうした恩の貸し借りが、国家間の交渉では馬鹿にならないのだ。

「――――確認が済み次第、三千の騎兵を送ろう」



「つ、疲れました…………!」

 慣れない演技にぐったりと長いすにもたれかかったフリデリカを、楽しそうに爛漫の笑みを浮かべて介抱するメイドがいる。

「お嬢様もやるときはやりますね!」

「もう二度とやりません!」

 フリデリカが疲労困憊するのも無理はない。

 カッファがワラキア勝利の報に沸いているなどというのはハッタリもいいところだったからだ。

 もちろんヴラドの成し遂げた戦略的勝利は確実なものであり、問題はそれがいつカッファにもたらされるかということであった。

 ジェノバの快速船ならばすでに入港しているであろう、という憶測をまるで見てきたかのように語って見せたフリデリカの演技力は見事というほかはない。

「私は殿下のお役に立てたでしょうか?」

「たてましたとも! これは殿下がお帰りの暁にはたっぷり閨でご褒美をいただかなくてはいけませんね! 懐妊の日も近いですよ!」

「っっっ!!!」

 真っ赤になって俯くフリデリカに優しい視線を投げながらフリデリカに長く仕える古参メイドは優しく肩をマッサージするのであった。

 のちに側妃フリデリカの腹心にして黒幕などと呼ばれる彼女だが、フリデリカを見つめるその瞳はどこまでも優しく曇りのないものであった。

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