第99話 親友の来援
ワラキア公国軍の前面から、恐ろしいほどの勢いで黒煙が噴きあがったのはそのときだった。
幅数キロになんなんとする長大な距離にわたって、まるで原油火災のような密度の濃い黒煙が発生していた。
実際にこの火災には原油の成分もふんだんに使われている。
見たことのない黒煙にしばしオスマン軍は驚愕とともに停止を余儀なくされたのだった。
後世の歴史家は指弾する。
まさにこのときオスマン軍は黒煙に向かって突入するべきであったと。
しかし現実問題として油脂が充満し目を開けてなどいられない環境で、万余の軍が突撃すればどうなるか、それは素人でもわかることだった。
まして火災の炎と地雷すら設置されたなかに迂闊に飛び込めば、やはり追撃どころの騒ぎではなかったであろう。
オスマン軍の視界を遮る密度の濃い黒煙の正体は、ワラキア軍が戦史上初めて実戦に投入した化学煙幕であった。
約一時間後、ようやく煙が晴れたとき、ワラキア軍の姿は影も形も見当たらず、西の空にはすでに夕闇が迫ろうとしていた。
誰もいなくなった戦場を、呆然とメムノンとメフメト二世は見つめるしかなかった。
「まさか、逃げおるとは」
メムノンもメフメト二世も、ヴラドの逃亡には失望を隠せなかった。
ワラキア軍が撃退されたと知れれば、孤立したコンスタンティノポリスは手もなく落ちる。
コンスタンティノポリスが落ちればヴラドの命運も尽きるはずであった。
ならば最後の最後まで死力を尽くして戦い、ここで潔く雌雄を決するのが英雄たるの勤めではないのか?
ただ滅亡する時間を先延ばしにしていったい誰の感銘が呼べるというのか。
艦隊がボスフォラス海峡の出口でかなりこっぴどく叩かれた、という報告はメムノンたちの耳にも届いていた。
おそらくはどこかの入江で海路脱出を図るに違いない。
追撃しようにもワラキア軍の逃走経路がわからないなかで夜間行軍させるのは危険が大き過ぎた。
「所詮それまでの男か」
英雄たるの価値のわからぬ男をライバル視していたことにメフメト二世は深く失望した。
そしてメフメト二世は嘆息とともにこれ以上のヴラドの追撃を諦めざるをえなかった。
もはやヴラドの不敗の神話は破られたのである。
あとは出来うるかぎり惨めな最後を遂げさせてやることで溜飲を下げるほかあるまい。
「鬨を挙げよ!」
余こそはワラキア公を最初に破った男である。
そして明日にはコンスタンティノポリスの支配者となるべき男なのだ。
ワラキアの到着前に落城寸前であったコンスタンティノポリスが、ワラキア軍の敗北を目にして抵抗できるはずがない。
仮に抵抗したとしても守りきる戦力がないのは明白だった。
スルタンにしてローマ皇帝でもあるという史上空前の偉業を前に、メフメト二世は笑みのこぼれるのを抑えることが出来なかった。
遂に勝利した。我こそはあの悪魔公ヴラド・ドラクリヤに勝利したのだ。
翌朝、早々にオスマンの軍使がコンスタンティノポリスを訪れていた。
しかし皇帝の譲位とコンスタンティノポリスの明け渡しという降伏条件は、皇帝に一顧だにされず一蹴された。
不思議なことにいまだコンスタンティノポリスの士気は軒昂だった。
使者の言葉を聞いたメフメト二世は深くうなづくとともに攻城戦の開始を下令した。
「せめて滅びを美しく飾ってやることも王者の勤めというものであろう」
皇帝コンスタンティノスも、ことここにいたって生きながらえるつもりはないに違いない。
仮に自分がその立場だとしたら、やはり勇壮に戦って果てることを選ぶはずだった。
そんなメフメト二世の夢想はオスマン軍の鼻面に打ち込まれた砲撃によって破られることになる。
轟音とともに榴弾の爆発が立て続けに発生していた。
人海戦術を多用するオスマン軍にとってその効果は予想以上に大きい
「いったい何事だ? この砲撃の量は?」
つい先日まで、コンスタンティノポリスにはほとんど榴弾がなかったはずだ。
しかも命中率まで先日とは段違いに高まっている。
ありえぬ事態であった。
さらに手榴弾が城壁から投擲されるに及んで、さすがのメムノンもメフメト二世もコンスタンティノポリスに何が起こったのかを悟らずにはいられなかった。
自分たちがヴラドと戦っている隙に、どこからか援軍が到着していたのだ。
「オレが来たからには十年経っても落とさせやしないぜ、スルタンさんよお」
ひび割れたガラガラ声で不敵に嘯く男が、テオドシウスの城壁からオスマン軍を見下ろしていた。
マルマラ海の西から補給物資とともにやってきたヤン・イスクラ率いる傭兵部隊四千名が、すでに満を持して待ち構えていたのである。
上部ハンガリーの雄、ヤン・イスクラの雷名を知るメムノンは怒りで目が眩む思いであった。
これではまるで詐術ではないか! 否、これほどたちの悪い詐術にひっかかったことはない!
当代を代表する君主と君主がその総力をあげて戦ったあげく、実はそれが詐術の手妻であったなどということがあってよいものか。
メムノンと同様かそれ以上に、メフメト二世は怒りに震えていた。
あの小人には英雄たるの資格がない。
余の好敵手たる資格すら認められない。
そうである以上、こうしてしてやられたままの自分を許容することはできなかった。
「必ずやこの報いを受けさせてやる!」
ヴラドもコンスタンティノスも、羽虫同然に蹂躙してその痕跡すらこの地上から消し去ってくれようとメフメト二世は決意した。
一方、メムノンの受けた衝撃は怒りや失望ではなく、地の底に吸い込まれるような敗北感であった。
「奴は悪魔か? いつからこの状況が見えていたのだ?」
メムノンにとってヴラドとの戦いは己の人生を賭けた智が、決してヴラドに劣るものではないということを証明するためのものだ。
ヴラドの小細工を粉砕し、勝利したと信じた瞬間には歓喜すら覚えた。
それが全てはヴラドの手のひらの上であったと知ったときの絶望は、おそらくメムノン以外には理解できぬほどに深く険しいものだった。
だが、メムノンもまた期せずしてメフメト二世と同じことを誓っていた。
それはヴラドに対する報復を達成するまで、絶対に敗北を認めるつもりはないということだった。
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