第101話 ロードスからの風
ミストラスに構えた自身の居城の中でソマスはただ瞑目していた。
当初ソマス優位にあった戦況は、数々の小競り合いがソマス側の勝利に終わったにも関わらずデメトリオスが圧倒的に優位なものに変わっていた。
デメトリオスが不屈の意志をもってソマスの打倒に邁進したのに対し、ソマスは兄デメトリオスとの戦いには消極的で、どうしても倒す気になれなかったことが戦況を悪化させた。
しかもソマスはあくまでもコンスタンティノポリスの命運を主眼においていたのに対し、デメトリオスはまがりなりにもモレアス公領の将来についてオスマンの属国ではあるものの、皇帝デメトリオスのもとでの平穏な統治を許されるという明確な未来図を描いて見せたことが決定打であった。
モレアス公領の貴族たちは、日を追うにつれて続々とデメトリオスの軍門に下っていったのである。
ソマスは冷徹な知者ではあったが、軍人には向かない男だった。
「お許しください陛下、どうかご武運を」
もはや居城の陥落まで間がないことはわかっていた。
味方の傭兵たちは逃亡し、主だった家臣郎党が二百ほど残るばかりであるのに対し、デメトリオスの包囲軍は三千以上を数えるのである。
これほど無為に死を迎えなければならないことに、忸怩たる思いはあるが今となってはそれも詮無いことであった。
「滅び、か」
おそらくはコンスタンティノポリスもモレアスも、全てはオスマンの蛮人たちに蹂躙されローマの栄光は永久に失われてしまうのだろう。
そんな予感と諦念がソマスを包んだ。
ならばこそせめて美しく滅びなくてはならなかった。
髪を整え、正装を身にまとい、化粧を施した艶姿のまま、ソマスは来るべき瞬間を待ち続けた。
――階下の喧噪が聞こえてくる。
どうやら城内にデメトリオスの軍勢が侵入したものと思われた。
すでに家臣たちには、無理せずに降伏するよう指示を出していた。
もっとも容易く降る気がないのは明らかであったのだが。
「命を無駄にするなよ、私の最後を伝えられるのはお前たちだけなのだからな」
ソマスの居室の扉が大きく開かれたのはその時だった。
「ソマス公とお見受けするがよろしいか?」
ソマスにとって意外なことに、現れたのは見目美しい女将であった。
肩で切りそろえられた赤毛がなんとも燃えるような光沢を帯び、わずかに釣り上がった切れ長の瞳と相まって人目を惹くことおびただしい。
デメトリオス旗下にかように美しい女将がいるなど聞いたこともなかった。
いったい何者なのか。
「確かにこの身はソマスである。我が首討って末代までの手柄とせよ」
女将は闊達な笑い声をあげて首を振った。
「何か勘違いをしておられるようだ。我が名はアンジェリーナ。スカンデルベグの娘にしてワラキア公の側妃たるものだ。恋敵の父君を助けるべくまかりこした」
「スカンデルベグの娘だと?」
ソマスは女将の言葉に耳を疑わずにはいられなかった。
スカンデルベグがアルバニア全土を奪回に動いているのは聞き及んでいたが、まさかモレアスに援軍を出せるほどに勝ち進んでいようとは!
「感謝の言葉もない。それで? 父君はいずこにおられるのか?」
「父上はここにはおらぬ。一足先に我が夫を助けにいってもらったゆえな」
そういうアンジェリーナの顔は悔しそうな苦渋に満ちていた。
「本当は私が赴きたいところであったのだがいまだ私の腕は父上に遠く及ばぬゆえ仕方あるまい。それよりソマス殿に異存がなければ、共にコンスタンティノポリスへご同行願いたいのだが?」
どうやら目の前の少女は、早く夫のもとへ駆けつけたくていてもたってもいられぬらしい。
おそらくは自分を助けにくることも、本意ではなかったに違いなかった。
そういえば最初にヘレナを恋敵呼ばわりしていたようだが、なんともワラキア公は甲斐性もちな御仁であるようだ。
ソマスは思わず笑った。
先ほどまでの絶望が嘘のようだった。
いったい自分は何を一人でローマ千年の歴史を背負ったような気になっていたものか。
その歴史を背負うに相応しい人物はほかにいるというのに。
「娘の恋敵をその夫に引き合わせるのは親としては気がひけるが、命の恩人の頼みとあらば否やはない。それに私も一度息子になる男に会っておきたいでな」
「防げ! ち、近づけるな! 敵は我々の半分もいないのだぞ!」
悲鳴と怒号が交錯するなか、ブルジーマムルーク朝が動員した軍船が、また一隻巨大なたいまつとなって海面の華となる。
マムルーク朝の艦隊司令であるアルシャーフは、信じられないものを見るように絶叫した。
すでに海上を縦横無尽に走り回るのはもっぱらヴェネツィアが誇る帆走軍艦であり、ロードス島を陥落の一歩手前まで追い込んだマムルークの軍船は、せっかくの砲弾を使い果たしてもはや逃げ回るだけの哀れな獲物と化してしたのだった。
つい先日までロードス島を包囲し、勝利は目前であったはずなのに。
「なんだ? いったいこれはいったい何事なのだ?」
ガレー船に大砲を装備してロードスの要塞を砲撃しておきながら、アルシャーフは海戦の在り方が変わったことを想像すら出来ずにいた。
大砲は海上を疾駆する軍艦には当たらぬものだと信じられてきたからだ。
接舷切り込みの達者としての経験も、ギリシャの火を投射するヴェネツィア船の前には露ほどの役にも立たないでいる。
自分が知る海の男がその勇気と力を発揮すべき戦いが、火力によって蹂躙された瞬間であった。
「一隻たりとも逃がすな! パブロの戦隊は右翼から回れ! 挟み込むぞ!」
ヴェネツィアの船団を率いるのはモチェニーゴ家の当主ジョバンニ・モチェニードその人である。
当主ともあろうものがこうして自ら艦隊指揮官を務まるのにはわけがある。
ヴェネツィア元老院のなかでも親ワラキア派で知られる彼が、志願してロードス派遣軍を率いてきたのにはひとつの交換条件があった。
見事勝利のあかつきには、彼らは少々、寄り道をする権利を与えられていたのである。
結局日が翳り始める前にマムルークの艦隊は四分五裂したあげく、その八割以上を撃沈され残りは本国へと避退した。
たった一日の海戦だったが、マムルーク朝の艦隊はそのほとんどが海のもくずと化した以上、その再建には多大な資金と年月が必要となるであろう。
それもワラキアの技術援助をもとに、進化したヴェネツィアの帆走軍艦戦隊とギリシャの火を利用した火器の運用があればこそであった。
ロードス島に上陸したマムルーク朝の陸兵二万も、味方の艦隊に見捨てられ島内に孤立した状態では士気を保つことは難しかった。
砲撃であちこちの城壁にほころびが見られるものの、聖ヨハネ騎士団の築城技術と士気はそれを補って余りあるものだ。
早期の陥落が果たせなければ、遠からず聖ヨハネ騎士団の逆撃に駆逐されることは明白である。
補給を失い士気が低下した陸兵も降伏を選択するまで、それほど長い時間はかからなかった。
「さて、ジョバンニ殿、寄り道の準備はよろしいか?」
その声はあくまでも涼やかで、まるで本当に散歩に出かけるかのように軽い言葉であった。
(まったくどうして、真面目一辺倒かと思いきや、噂と違ってお茶目な方だ)
思わずジョバンニは苦笑する。
傍らでわくわくを抑えきれぬ様子の長身の武人に対し、ジョバンニは爽やかな笑顔とともに答えた。
「もちろんでございますぞ、リッシュモン大元帥殿。いささか長い寄り道にはなりましょうがな!」
追い風を受けて、疾風のように艦隊が進路を北に向けたのはその後まもなくのことであった。
ガレー船隊を切り離した帆走軍艦の群れは、速度を上げつつエーゲ海を切り裂いて驀進していったのである。
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