第63話 新たな縁談

 無事十字軍を撃退し、懸念されていたオスマン朝の介入がされずに一息つけたと思っていたのもつかの間であった。

 1449年8月オスマン朝軍の大軍十万余は、突如としてセルビア王国及びアルヴァニア王国へと侵攻を開始した。

 ハンガリー王国というキリスト教圏の重しがはずれた以上、いつかはあるものと考えてはいたが、こうも早いと対応は困難であった。

 何しろハンガリー王国は占領維持に兵員を取られこそすれとうてい戦力化を図ることなどできないし、ワラキアとて少なからぬ損害を蒙って損害の回復に手一杯の有様である。援軍など思いもよらない。

 港を持てた事でアルヴァニアには武器や食料と幾許かの資金を供与することができたが、セルビアはもはや救えなかった。

 厳密に言えば、救おうと努力はしたが、スメデレヴォに立てこもるジュラジ・ブランコヴィッチの命運のほうが先に尽きてしまっていた。

 外交手腕と内政への識見には富んでいたジュラジだが、戦に関しては凡庸の域を出ることはなく、篭城からわずか一月弱で味方貴族の裏切りによりあっさりとその命を絶たれてしまったのである。

 これに対し、アルヴァニアの抵抗は見事だった。

 スカンデルベグの名が伊達でないことを証明する戦ぶりであったといえるだろう。

 主攻方面に位置し、スルタンムラト二世の親征を受けながら遂にアルヴァニアの北半を守りきったのである。

 彼は決して目新しい戦術や戦略の妙を駆使したわけではない。

 ただ本人の武勇とカリスマ、そして戦場での臨機の運用術だけで十倍近いオスマンの軍を退けたその手腕は、後世流石に民族の英雄とされるだけのものであった。

 ヴェネツィア商人を仲介とした今回の援助で、その彼とパイプを繋げたのは不幸中の幸いであろう。

 もっともこんな利敵行為がオスマンにばれたら、ワラキア討伐は必至だから内心肝を冷やしていたりしたが。



 ハンガリー王国の消滅は、東欧世界に深刻なパワーバランスの激変をもたらさずにはおかなかった。

 今後ますます俺の知る歴史とはかけ離れた出来事が増えていくのだろう。

 ハンガリー国内にまだ在住していた伝説の技術者、ウルバンを俺がこちら側に召しだすことに成功したように。

 セルビア王国を占領したオスマンは、その余勢を駆って属国として扱っていたボスニアのスチェバン・トマシェビチを廃して直轄化を成し遂げてしまった。

 史実以上にオスマンの国力が増してきている。

 メフメト二世だけではなく、ムラト二世もまた十分以上に優秀な君主であった。

 この劣勢をはねのけるのは容易なことではない。

 メフメト二世の即位まであと二年、俺は為すべきことの大きさと困難さに天を仰いで嘆息するほかなかった。


「…………殿下」

 ワラキア本国からブダへとやってきた外交官のソロンは、いかにも言いずらそうにしきりとヘレナを気にしていた。

 このところ俺がヘレナを執務室に置いていることは、すでに重臣たちが受け入れているものとばかり思っていたのだが。

 ヘレナの識見は並みの大人がたばになっても敵わないほどで、政治顧問としてこれほど頼りになる存在もいないと思っている。

 あるいは十一歳の幼女に、血なまぐさい政治的謀略をきかせたくないという大人の良識でソロンも躊躇したのかもしれない。

「……かまわぬ。余はヘレナに隠すべきことは何もない」

 ヘレナの顔が後光が差したかのようにほころぶのを見て、決断の正しさをかみ締めていた俺だったが、それもソロンが口を開くまでだった。

「……では申し上げます。先日ポーランド王カジェミェシュ4世陛下よりご使者がございました。この度の不幸な戦いを糧に、未来に向かって両国の平和を願う証として先々代ヴワディスワフ二世陛下の庶子でミェルドゥ侯爵家に養子となっておられたフリデリカ様との婚姻を要請しておられます」

 たちまち俺は自分の判断を後悔した。

 …………すまん、ソロン。俺が悪かったから何もなかったことにしてくれないだろうか?


 ヘレナの視線が突き刺さって痛い。

 何よりポーランドはハンガリー王国にも並ぶ大国だ。

 その国力だけを見れば、落日のローマ帝国より遥かに大きい。

「………とは申しましてもフリデリカ姫は庶子、殿下にはヘレナ姫という帝国の血を引く婚約者がおられることでもあり、側妾ということでも構わないとのこといかがなされますか?」

 うおう…………ビビッた、…………心底ビビッた。もしかしてポーランドにケンカ売られたかと思ったよ。

 何せ今回モルダヴィアからポーランドを追い払ったのは俺だ。

 意趣返しに刺客を起こりこまれても不思議ではない。下手をすると婚姻を拒否することを口実にワラキアと戦争をするつもりなのかも。

 ここでポーランドと正面から敵対するのは愚策だ。

 ポーランドに加えリトアニア・ウクライナの赤ルーシ・白ルーシなどを加えたその国土は欧州最強とさえ言っても過言ではないのである。

 ドイツ騎士団を打ち破り、プロイセン公国にも強い影響力をもつ。そして現王妃が神聖ローマ帝国皇帝の血を引くことを考え合わせればあるいはローマ帝国の血統よりありがたがる人間がいるのかもしれなかった。

「………無碍には出来ん相手だ。側妾でよいというのに断ってはあちらの顔が立つまい」

 国としての格を考えれば、どう見積もってもポーランドが上である。

 これほど下手に出ているのが不思議なほどだ。

 それをあえて面子をつぶしては、全面戦争に発展してもおかしくなかろう。

 理性はそう判断している。だが……

「……………確かにやむをえまいなあ、殿下………」

…………全身に黒オーラを纏った般若がおりました。

「こここ、これはね、違うんだよ、違うの! 名前だけ、名前だけなんだから! 俺が本当に愛してるのはヘレナだけだよ? 本当だよ?」

「………妾と違って豊満な女性だと良いがなあ、殿下………」

「殿下って言うのやめてー!!」

 言わないことではない、とソロンは思う。

 ヴラドが完全にヘレナの尻に引かれていることなど、ワラキア宮廷では常識なのだ。

 幼さゆえのコンプレックスを隠しきれぬヘレナが、この縁談を聞いてどのような態度にでるかなど火を見るより明らかだった。

(まあ…………傍目には惚気以外には見えませぬがな。)

 数日後、何かをやり遂げた漢の顔で眠りこけているヴラドの姿があったという。

 これはもしやと宮廷は色めき立った。

 その日は終日ヘレナがご満悦であったというが、不思議なことに内股になったり腰をかばったりする様子もない。

 いったい二人に何があったのかでワラキア宮廷はその噂でもちきりになったが、真実は永久に明らかにされることはなかったのだった………。

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