第62話 ラドゥの願い

 ワラキアへ帰国したソロスは計画の失敗をヴラドへと報告した。

「残念ですが、ラドゥ殿下はワラキアへの帰還を望んでいません。あのまま皇太子殿下の側近として生きていくものと」

「そうか」

 短く答える俺の声はひび割れていた。

 皇帝や皇太子に邪魔される想定はしていたが、まさかラドゥ自身に断られるとは考えもしないことであった。

 すでに別れて久しいとはいえ、ラドゥとそんなにも心が離れているとは思わなかった。

 兄様、兄様、と子犬のようにつきまとっていたあの頃のイメージと、現在のラドゥが一致しないのだ。

 しかし現実は現実として受け止めなければならないことを俺は知っている。

「ラドゥは何か言っていたか?」

「いえ……オスマンで大切にされているから、と。大公殿下がお健やかでありますように、と」

「そうか」

 史実においてもラドゥはメフメト二世に可愛がられた。

 ラドゥのためにこのままオスマン帝国への臣従を続けることのできない自分は、やはりあのころとは変わってしまったのだろう。

 二人の道は別れ、あるいはもう二度と交わることはないのかもしれない。

 だが、今はそうであるとしても。未来もまたそうではあるとは限らないと信じたかった。

 ヴラドの御前を退出したソロスは、ベルドの執務室へと足を運んだ。

 このところヴラドの片腕として頭角を現わしているベルドは、以前のようにヴラドの傍にいられなくなっていた。

「私に何か用か? ソロス殿」

「実はラドゥ殿下からベルド様に手紙を預かっておりまして。決して中身を覗いでなどおりませんのでご心配なく」

「は、はあ…………」

 たかが手紙を渡すだけなのに、怯えた様子のソロスに戸惑いながら、ベルドはラドゥの手紙を受け取った。

 ソロスがそそくさと退出するのを待って、ベルドは仮眠用のベッドに腰かけ、懐かしいラドゥの手紙に視線を落とした。

 手紙には美しいオスマン名産のチューリップの花びらが押されていた。


 やあベルド、元気かい?

 相変わらず兄様にくっついていられてうらやましいよ。

 きっと君のことだから、兄様の手も握っていないのだろうけど、騎士として生きるのはそんなに大事なことかなあ? ねえ

 まあ、ほとんど胸は成長していないだろうから、周りに気づかれる心配がないことだけが救いかな?


「心の底から余計なお世話ですよ、ラドゥ!!!!」


 あまりといえばあまりな書き出しに、手紙に向かって突っ込んでしまうベルドである。


 ソロス殿はこの手紙を見てはいないと思う。

 そんなことをしたらベルドに殺される、と散々脅しておいたからね。

 それから兄様から聞いたと思うけど、僕はそっちに帰らないよ? メフメト様やメムノン先生を裏切るわけにはいかないからね。

 恨むつもりはないけれど、兄様とベルドがいなくなってから、僕を家族として大切にしてくれたのは二人だけなんだ。

 わかってるだろう? 僕はとても寂しがり屋なんだよ。

 兄様もベルドもいなくなったこっちで、たったひとりで過ごしていけるはずがないじゃないか。

 ベルドはいいよね。大好きな兄様といつもいっしょにいられてさ。

 僕だって兄様にずっと甘えて暮らすことができたら、それが一番幸せなことだったのにさ。

 ――でも、そうはならなかった。

 兄様は大公としてみんなの命を背負って生きていくと決めた。

 もう、僕とベルドと兄様の三人だけが世界のすべてだったあの頃じゃない。

 ベルドもそうだよね?

 僕がメフメト様やメムノン先生を捨てられないように、兄様だって今の仲間を捨てることはできない。

 いや、その仲間を守るためなら、僕を敵にすることだってできるんだって。

 あの人は優しいくせに見栄っ張りだから、すぐに抱えこまずに済むことまで抱えこもうとする人だから。

 神でもないただの人でありながら、思い通りにならないこの世界にひとりで抗おうとする人だから。

 ああ、でもひとつ提案があるんだ。

 もしよかったら僕のところに来ないかい? ベルド。

 さすがに腹心に去られたら、兄様もオスマン帝国に逆らおうなんて諦めるかもしれないからね。

 まあ、兄様大好きっこのベルドには無理な相談だろうけど。


 だからさ。

 もう僕は兄様の味方ではいられなくなるから。

 もし僕と兄様が戦うような運命があるとしたら、僕は必ず君の前に行くから。

 ――――君が僕を殺して。


 優しくて可愛いベルドにこんなお願いをするのは申し訳ないけれど。

 君にしかこんなお願いは託せないから、許して欲しい。


 最後だから言うけど、君は僕の初恋だよ。ベルドンサ


「馬鹿ッ! ラドゥの馬鹿! 寂しがりやのおたんこなす! 優しいのはどっちですか! 兄様大好きっこなのはどっちですか!」


 手紙を胸にかき抱いて、ベルドは身も世もなく啼いた。

 あの日共に過ごした幼なじみはもう帰ってこない。

 よくも悪くもラドゥもヴラドも、自分も大人へ変わってしまったのだ。

 だからこそ――――


「私は誓いを守るよラドゥ。この命燃え尽きるまで」

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