第61話 分たれた兄弟

 宮廷から1キロほど離れた場所にモスク風の重厚な造りの宿舎があった。すでに夜も更け、ろうそくの明かりすら見られなくなった暗闇で、一人の男が足音ひとつたてずに軽やかな身のこなしで宿舎の2階へと身を躍らせた。

「…………殿下………ラドゥ殿下目をお覚ましください!」

「誰です?」

「私はヴラド公に仕える者。殿下の命にてラドゥ殿下を国外にお連れするようにと申しつかっております」

 男の名をハリムと言う。

 シエナの古い部下で、まだヴラドたちが人質としてエディルネに滞在しているころからオスマンにもぐりこんだ間諜であった。

「それはできません………」

 兄がのばしてくれた救いの手をラドゥは悲しげに首を振って断った。

 今ここでラドゥを連れ出すということは、オスマンとワラキアの全面戦争を誘発しかねないことである。

 人質を勝手に誘拐されて黙っているほどオスマンは柔弱な国家ではない。

 目の前の間諜がどんな手段を用意しているのかわからないが、ラドゥほどの立場の人間を今後隠しきることもワラキアには不可能であるはずだった。

「殿下によく似た死体を用意しております。事故にみせかけて死んだとみせればいくらかなりと時間が稼げましょう」

「あなたはオスマンという国を見くびりすぎている。兄さまにお伝えください。どうか陛下への恩義をお忘れなきようにと」

 ラドゥたち兄弟が命あるのは、ひとえにムラト2世陛下の温情のおかげなのだ。どんな理由があったにせよラドゥはその事実を本気で信じていた。

「…………ならばやむをえません。殿下にはここで死んでいただく!」

「それは兄さまのご意思ですか?」

「いいえヴラド殿下は真実貴方を救いだそうとしておられる。しかし我々臣下にとってラドゥ殿下、貴方という存在は危険すぎる! 貴方が生きているだけでワラキア公は肉親の情と君主の責務の板挟みに苦しみ続けるのです!」

 敵には驚くほど冷酷になれるヴラドだが、その実味方の人間にはとろけるように甘い。

 まして唯一の肉親であるラドゥに対する愛情の深さをシエナをはじめとするヴラドの腹心は十分によく承知していた。

 この場で殺せなくとも、国外に連れ出したら人知れず殺して埋めるようにハリムはシエナから命令されていたのである。

 ソロスが身柄の確保に失敗したならば、いかなる手段を用いてもラドゥを殺せというのがオスマン内のワラキア工作員に命じられた最優先命令であった。


「………私という存在は兄さまにとって邪魔なのですか……」

 断腸の思いとともにラドゥは誰にともなくつぶやく。

 漠然とではあるがそんな予感はしていた。

「しかり。殿下たちがいかに互いを思い合っていようともはや立場が違うのです。御覚悟を!」

「そうはいかん」

「なにっ?」

 ここで初めてハリムは自分が罠に飛び込んだことに気づいた。

 自分が気配をつかめぬほどの手練に、いつの間にか部屋は取り囲まれていたのである。

 せめてラドゥの命だけでも奪おうと動きだすハリムのこめかみを、弩から放たれた矢が目にもとまらぬ速さで串刺しに貫いた。

 痛みを感じる暇すらなくハリムは糸の切れた操り人形のように前のめりにラドゥの足元へ崩れ落ちた。

「だから言ったのです。貴方はオスマンを見くびりすぎていると」

 冷めた瞳でハリムが絶命するのを見届けたラドゥを、暗殺者たちをひきつれてやってきたメムノンが、子犬をいたぶる小僧っ子のような楽しそうな笑顔で肩を抱いた。

「これでわかっただろうラドゥ。あの悪魔とお前が手を取り合う未来などこの世のどこにもありはしない」

 あの日兄と別れたときに、漠然とこの日が来ることを予感していた気がする。

 この世でただ一人の肉親。優しく、強く、そして本当は誰よりも弱い大切な兄との別れを。

 いつかあの兄の役に立ちたかった。

 願わくば兄弟ともに故郷で楽しく笑いながら暮したかった。

 ただ兄のそばにいるだけで幸せだった。

 しかしもうその夢が叶うことはない。

 何より兄の部下たちが決してそれを許さないことを、ハリムははからずも証明していた。

 いったいいつから自分と兄の距離はこんなにも開いてしまったのだろう……。


「お許しください兄さま。私は貴方が恐れていたものになります―――――」

 翌朝、ラドゥはソロスとの面会を希望した。

「もう、私をワラキアに連れ戻すのは諦めるよう兄様に。それと……この手紙をベルド殿にお渡しください。兄様と僕だけの幼なじみですから」

「必ずや」

 ラドゥの決然とした佇まいに、ソロスは計画が土台から失われていくのを自覚していた。

 もはやこの公子はオスマン帝国の駒であり、ヴラドに兄弟として手を貸す気持ちを持っていない。

 それが本人の意思である以上、ソロスに出来ることなどなにひとつなかった。

「ああ、それと」

 どこか哀しそうな、何かを諦めたような顔でラドゥは苦笑する。

「忠告しておきますが、手紙は読まぬほうがよろしいですよ? おそらく読んだ人間はベルドに殺されます。文字通りの意味で」

 スルタンにすら相対する外交官ソロスともあろう男が、このときのラドゥには一言も返せず頷くことしかできなかった。

 ラドゥが嘘をついていないことが、外交官である彼にはよくわかったからであった。

 こうしてラドゥ奪還の千載一遇の機会は失われ、二度とめぐってくることはなかったのである。

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