第64話 生贄の王女

 ポーランド宮廷内でも、フリデリカをヴラドに差しだすことについては強い異論が存在した。

 これが神聖ローマ帝国のような権威主義的な国家であったならば、そもそもこのような婚姻政策が話題に上ることさえなかったであろう。

 かのコペルニクスを生んだ学問の都であり、コンスタンツ公会議で人類史上初めて基本的人権について言及したポーランドだからこそ、実現した政策であったのは間違いない。

 本来モルダヴィアを狙っていたポーランドが、ここにきて親ワラキアへと舵をきったのには理由がある。

 まず第一に首都を中心に流行に兆しを見せ始めた、天然痘の対応にワラキアの力を是が非にも借りたかったからであった。

 天然痘は貴賤を問わぬ感染病である以上、国王たるカジミェシュ四世が感染するようなことがあれば、それはヤギェヴォ朝の断絶に直結しかねない。

 連合王国であるポーランドにとって、王朝の断絶は絶対に避けねばならない政治的命題なのだった。

 そして第二に、ポーランド王国にはもともとリトアニア大公であったヴワディスワフ二世が、対抗馬であるブランデンブルグ選帝侯ではなく息子ヴワディスワフ三世に王位を継承させた。

 そのため貴族たちに権限を譲り過ぎており、他国の王家に比して王権が弱いという宿唖があった。

 ところが今回の戦いでハンガリー十字軍に参加していた貴族の大半が死に絶えたことで、期せずして中央集権を図る絶好の機会が訪れていた。

 カジミェシュ四世はこれを期に王室の権限強化を徹底的に推し進めるつもりであったのである。

 そのためには日の出の勢いのワラキアとオスマン両国を、同時に緊張状態を抱えるのは避けたいところであったのだ。

「……綺麗だぞ、フリデリカ。お前ならかのワラキア公の心を射止めることなぞ造作もなかろう」

「ありがとうございます、義兄上」

 義妹ながら実に妖艶なフレデリカを見てカジェミシュ四世は思う。

 帝国の娘は幼きにすぎ、いまだワラキア公も手をつけていない状態だと聞く。

 であるならば、ワラキア公の最初の子供は十中八九までフリデリカが産むはずであった。

 現実問題として、後ろ盾としての国力でポーランド王国と斜陽の老帝国の力の差は歴然である。

 庶子は貴族に養子に出されることがほとんどだが、カスティリヤ王国のエンリケ二世のように庶子の身から国王に成りあがった人物もいないわけではない。

 先王が教皇に嫌われているような時は特にそうだ。

 次代のワラキア大公をポーランドの血でおそうことも、決して夢物語ではないとカジミェシュは考えていた。

 それにフリデリカは十分すぎるほどに美しい女だ。

 たかが十一歳の子供とではそもそも勝負にすらならないはずであった。

「ふふふ……新たな連合王国というのも悪くはない」

 もはや泥沼の東欧に関わるのは止めて領国経営に専念し、さらにウクライナ以東を支配下に治める。

 それがカジミェシュ四世の大戦略であり、オスマンに対する番犬としてヴラド以上の男は見当たりそうになかったのである。

 しかし二十歳の誕生日を迎えたフリデリカにとってカジミェシュ四世の思惑など知ったことではなかった。

………どうしてそっとしておいてくれなかったのか……

 思いは血の繋がらぬ娘を大事に育ててくれた父母のもとに飛ぶ。

 母親の身分が低かったことから侯爵家の養子に出されたが、子供のいない侯爵夫妻は実の子のように自分を可愛がってくれた。

 どこかの貴族の息子を婿に迎え、侯爵家を継いで両親たちとずっと暮らすことだけが、フリデリカの望みであった。

 一度は自分を捨てた王宮が何故今頃になって自分の存在を思い出したものか、それがフリデリカには悔しい。

 しかも相手は残虐極まりない戦悪魔ヴラド三世。

 その知らせを受けてから幾晩涙に枕を濡らしてきたろうか。

 生きながらにしてハンガリー王国摂政と三万の兵士を焼き殺したという虐殺者、それが自分の夫になるというのだ。

 いつ自分も殺されるかわからない。

 フリデリカには王族として生を受けた運命を呪うよりほかはなかった。

 それが流されるままに生きてきた彼女の限界だった。



 フリデリカの輿入れは両国の利害の一致とともに異例の速さで決定された。

 ヴラドとしてはいつまでもモルダヴィアに軍事支援を続けるには戦力が少なすぎたし、ハンガリー領と国境を接するポーランドとの緊張緩和は急務であった。

 またカジミェシュ四世も、直系の絶えた貴族領を王室に編入することとし、貴族の反抗に対する先手をうって軍を集め中央集権化を進めていた。

 両者とも今しばらくは国内問題で精一杯であったのだ。

 フリデリカ王女のブダへの来訪は秋も深まり始める十月と決まった。


 俺の精神面の負担はともかく、ポーランド王国と同盟に近い関係が結べたことで、ようやく内政を充実させる余裕が生まれている。

 ハンガリーのよいところはなんといっても欧州一の温泉大国であるところだ。

 もと日本人の俺にはたまらないうれしさである。

 さらにルーマニアと並んで亜炭の産地でもあり、原油も産出していた。

 ドナウ川周辺の農業生産力も高く、戦火さえ及ばなければ東欧でも指折りの豊かさを享受していても不思議ではないところだ。

 ハンガリーに来てからすぐに種痘を実施したことで流行は最小限で済んでいる。

 瓶詰はワラキアの特産化しているから、ハンガリーの農民にはマヨネーズを始めとする新製品の加工を教えた。

 これがまた評判で瞬く間に欧州一帯へと広がっていた。

 とりあえず国民の評判は上々である。

 ヤーノシュに粛清されていた貴族の係累を召しだしては見たものの、やはりというべきか全く使い物にならない。

 有能ならそもそもヤーノシュは粛清などしなかったろう。

 仕方がないのでヤーノシュ派の貴族を粛清させた後は領地だけ与えて中央政府から遠ざけ、その子弟をブダに設立した大学に根こそぎぶち込んでいた。

 これで使える官僚になってくれればいいが、体のいい人質でもあるので仮に使えなくても問題はない。

 それよりセルビアやボスニアから流入する避難民の中から、優秀なものを安価で召しだすことが出来たからだ。

 先の戦でわかったことだが、やはり砲兵を野戦で運用するのは難しい。

 一層の小型化と機動性の向上は必須であろう。

 現にフォルデスの戦いで序盤には活躍した砲兵は銃兵たちの機動についていけず、放棄のやむなきにいたっている。

 しかし兵数に劣るワラキア軍としては、銃兵の防御力だけではなんとも心もとないものであった。

 何らかの手段で野戦で使える火力の向上を図らねばならなかったのである。

 その技術的ブレイクスルーを担うのが、史実ではウルバンの大砲を開発しコンスタンティノープル陥落のきっかけを産んだウルバンであった。

「だからオレは小型化の話をしてるんだよ! でかくするより小さくするほうが難しいって何回も言ってんだろ? ウルバン!」

「大きいことは男の夢でございますぞ殿下! ナニと大砲は大きければ大きいほど良いのです!」

「このおっさん俺の言うことなにも聞いてねええええええ!!」

 ハンガリー国内にいたところを早速ゲットして武器の製作にあたらせていたが、作るもの作るもの偏執的に大きくしようとばかりするのでほとほと手を焼いている。

 それでも武器製作者としての腕は一流であるところがまた始末が悪かった。

 火縄銃を大型化した大鉄砲や原始的な迫撃砲も実用化の一歩手前までこぎつけているのは、ひとえにウルバンの才能の賜物だ。

「むむっ? 閃きましたぞ! 大砲ではなく棒火矢ならば、最初から作っておけば大砲よりは持ち運びやすく連射が効きましょう!」

「それだあああああああああああ!」

 地対地ロケットならばウルバンの大砲のように一日数発しか撃てず、しかもすぐ壊れるような欠陥品にはならないはず!

「かくなるうえはファロスの灯台より大きな棒火矢をば…………」

「頼むから大きいことから離れろおおおおおおおお!!」

 本当になんなのこいつ!


 ウルバンとのやりとりに疲れ果てた夜、寝台の上でヘレナがいかにも怒ってます! といいたげに頬を膨らませていた。

「ようも妾を騙してくれたなあ、我が夫……」

「な、なんのことでしょうか?」

 思わず敬語になってしまう俺がいた。

 この状態のヘレナに勝てる気が全くしない。

「昨晩のアレでは子は宿らぬと侍女(サレス)が申しておった………ようも妾にあんな恥ずかしい真似をさせてくれたな……!」

 くそっ! あの侍女、余計なことを!

「覚悟は出来ておろうな、我が夫」

「おおおお、落ち着いて話し合おう。まずは保健体育の時間だ」

「なんじゃそれは?」


 その後ふたりに何があったのかは不明だが、しばらくヘレナは何かを想像しては恥じらう様子をみせたらしい。

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