第37話 和平前夜
モルダヴィア公国の宮廷とはいえ、護衛の全てがモルダヴィアに任されるわけではない。
敵の多いヴラドは常に暗殺の危機に瀕しているため専門の護衛が必要であった。
現状、ヴラドには数十名の精鋭が護衛として付き従っており、彼らは交代で不寝番にあたっていた。
その指揮を執っているのは、ヴラドの親衛隊長でもあるベルドである。
「精が出ますなベルド殿」
「これはイワン様、あまり御酒を過ごされますな」
酒に酔ってワイングラスを片手に話しかけてきたイワンにベルドは苦笑した。
「おつらくはありませんかな?」
「この程度で根をあげるようでは騎士など務まりません」
「私が言っているのはそういう意味ではないのですが……もしおつらいことがあればこのイワン、いつなりと貴女のお傍に参じましょう」
「は、はあ…………?」
「お休みなさいベルド殿」
「お休みなさいイワン様」
微笑しながら手を振り去っていくイワンの背中を見るベルドの目は、なぜか背筋が寒くなるほど冷たかった。
「私はヴラド様の騎士――それ以外になるつもりはない」
女ではなく男として、ヴラドのために生きる。
そう決意したあの日の思いは、今もいささかも褪せることなくベルドの胸で燃え盛っていた。
「――――それで寝てしまった、と」
「う、うむ……しかしっ! 我が夫に頭を撫でられるのはとても気持ちいいのじゃぞ? さすがの妾もあれをされては!」
「お子様ですか」
「妾はお子様ではないのじゃあああ!」
「もう、甘い! 甘すぎます! 殿下に子供の本性を見抜かれる前の昨晩が好機だったのに! どうして抱かれてしまわなかったのですか!」
恐るべきことにこのイスラムの元暗殺者出身の侍女は、ヘレナにヴラドを押し倒すよう吹き込んでいたのである。
彼女にとってよい男はえてして誘惑の多いものであり、先手必勝でヴラドの寵愛を獲得することこそがヘレナの野望を後押しするはずであった。
「だ、だいたい我が君に棒などついておらなんだのじゃ! 聞いていた話と違うのじゃ!」
「それを起たせるのが女の武器でございます。姫にはまだ早すぎたようですが」
盛大に斜め上に偏った侍女とヘレナの、ヴラドを巡る女の戦いはまだ始まったばかりであった。
朝食が済むと、俺とヘレナは与えられた客間で寛いでいた。
まだ船旅を終えたばかりのヘレナには休息の時間が必要ということで、晩餐会などは数日後に延ばされたらしい。
「ふむ、まあトランシルヴァニアの分割はいいとして……ハンガリーと本気で和平するつもりはあるまいな? 我が夫」
砂糖菓子を頬張りながらヘレナが悪戯っぽく笑う。
本当にこうした政治談議を交わすときのヘレナは生き生きとしていて、見た目どおりの少女でないことを改めて俺に感じさせた。
「今はお互いに時間が必要だからな」
ヤーノシュとしては、自らの戦略策源地であるトランシルヴァニアを手放すのは断腸の思いであろう。
しかしヤン・イスクラとの戦いで消耗し、さらにトランシルヴァニアで打撃を蒙った状態で、ワラキアと雌雄を決するのはあまりにリスクが高すぎた。
それにいかに一代の英雄であろうとも、自らの地位を息子に引き継ぎたいと考えるのは本能であるとも言える。
ラースローとマーチャーシュを人質にとられた現状では、ヤーノシュが和平を断る可能性は低かった。
だからといってヤーノシュが馬鹿正直に和平を守るとは考えてもいない。
トランシルヴァニアをワラキアに奪われ、ワラキアを仮想敵国として認識せねばならない以上、ハンガリー王国は念願の神聖ローマ帝国に食指を伸ばすこともオスマンと正面きって争うこともできない2流の国家に成り下がる。
一代の英雄たるヤーノシュがそれをよしとするはずがなかった。
「我が君はハンガリーが動くまで何年と見る?」
ヘレナの問いに俺は薄く嗤った。
確かに鋭い政治センスを持ったヘレナではあるが、やはり英雄の底力を見ぬくには絶対的に経験が不足しているらしかった。
「――早ければ3ケ月持つかどうか、さ」
「まさか……本気で?」
国内の粛清を完了したとはいえ、ヤーノシュの権力基盤は砂上の楼閣のようなものだ。
ただ一度の失敗が、あるいはほんの一部の貴族の暴走がハンガリー王国という国家をも崩壊させかねない危ういバランスの上にヤーノシュは立っている。
古い大貴族を粛清し、トランシルヴァニア出身の傭兵あがりが国家を主導する立場に立つということはそういうことだった。
この恐るべき危うさを改善するためには、ワラキアに対する画期的な勝利とトランシルヴァニアの奪還が必須の条件であった。
問題なのはワラキアの支配により、トランシルヴァニアの権力構造が変化してしまうことだ。
ハンガリー王国宰相としてサス人を優遇してきたヤーノシュにとって、ルーマニア人優遇を打ち出したヴラドの治世がトランシルヴァニアに根付いてしまうのは非常に都合が悪く、出来うるかぎり早く取り戻したいというのが本音なのである。
粛清による国政の停滞を解消できたならば、ヤーノシュはすぐさま兵を挙げるだろうと俺は推測していた。
「戦は拙速を尊ぶと聞いたような覚えはあるが……だとすると今度の戦いは中途半端には終わらぬ。それこそ命賭けで戦いを挑んでくるぞ!」
再度ワラキアに負ければ、いかにヤーノシュが英雄であろうとも失脚は免れない。
失脚すれば無理な粛清を実施した報いが必ずヤーノシュに跳ね返るであろう。
だとするならば、あと先を考えずひたすら勝つためにいかなる犠牲も省みず向かってくるに違いなかった。
「生憎と、こっちは毎回命賭けさ」
小国ワラキアには最初から後などない。
再起するだけの資金も権力基盤も俺は持っていないからだ。
いかにヤーノシュが覚悟を決めてかかろうと、こちらのすることに変わりはなかった。
「それではモルダヴィアに長居する余裕はないな」
「ああ、お披露目したらすぐに帰国するぞ? 姫には悪いが」
「ヘレナと呼べと言ったろう? 我が夫(つま)」
丘を越えた眼下に、特徴的な尖塔の屋根が立ち並ぶオレディアの街並みが見えてきた。
都市としては規模は小さいが、トランシルヴァニアとハンガリーの結節点にあたるこの都市は中継貿易でそれなりに栄えた比較的豊かな都市だった。
気が急いたせいか、予想より一日早い到着である。
「――――見えてきたぞ、ヘレナ。もう少し我慢してくれ」
スプリングの存在しない中世の馬車は、決して乗り心地のよいものではない。
むしろ女子供には負担にしかならない劣悪なものと言っていいだろう。
ヘレナの小さな身体が馬車の旅で耐えられるか、と不安を感じずにはいられなかった。
「うむ、ちょうどよいクッションがあるから大丈夫じゃ!」
そういって俺の膝の上にのるヘレナが可愛らしすぎて、つい固まってしまったのは内緒だ。
(―――――姫様! ご自分の武器をよく理解した素晴らしい攻撃です!)
無表情な侍女の目がそんな二人を妖しく見つめていた。
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