第36話 ドラキュラの妻
ローマの姫君? 仮にも皇帝の血縁者がこんな田舎で何しちゃってるの? ホワイ?
「イワン?」
お願いだから嘘と言って?
「――――姫君たっての願いでご報告が遅れましたが、真実アカイア侯ソマス殿下の娘、ヘレナ殿下でございます」
ギギギ……と軋むような音をたてて、固まった首を少女に動かすのに多大な努力が必要であった。
「ローマの……姫様?」
ぷっくりと頬を膨らませた幼女は、頭を撫でられてうれしそうな、子供扱いをされてとても腹立たしそうな実に複雑な表情で俺を見上げていた。
「ふん! だから子供ではないと言ったであろ?」
「いえ、姫様が子供なのはこの際いっさい変わりがないのですが」
相変わらず冷静極まりない侍女の突っ込みに、ヘレナは子供らしく両手を振り回して憤激した。
「だからサレスは黙っておれ~~~~~!!」
ホームコメディのような寸劇を繰り広げている俺達をよそに、同席していた叔父やジェノバのアントニオは感に堪えぬという風に口ぐちに祝いの言葉を発していた。
「我が甥が帝室の姫を頂こうとはなんたる栄誉カ!」
「さすがは日の出のごときワラキアの大公殿! またとない良縁にございますな!」
こらこら、二人とも俺の退路を塞ぐんじゃない!
そもそも姫君が単身海を渡ってくるとかありえないだろう。常識的に考えて!
結婚――人生の墓場――という現実を目の前に突きつけられて俺は情けなくも困惑した。
――違う――俺がローマとの間に求めた関係というのは、こういう婚姻戦略のようなものではなくてだな。
「まさか妾が不服だと言うのではあるまいな? わが夫(つま)」
「滅相もありませぬ!」
その間0.2秒。
幼女の一喝になすすべなく屈服している自分がいた。
なんなのこの格付け。プレッシャーがおかしいんだけど。
やはり帝国の血は伊達ではないということか。
「お気持ちは十分に御察し申し上げます。しかしこうしてヘレナ様がその身命を賭して参られた以上、冗談ではすまされぬと御覚悟なさいませ」
「ははは……やっぱり、そうなりますよね……」
俺自身の覚悟とか好みとか、常識を抜きにすれば、この婚姻はワラキアにとって破格の扱いと言わなければならなかった。
ましてわざわざ帝国の皇女ヘレナが渡海してくるなど、前代未聞の好待遇と言えなくもない。
これで婚姻を突っぱねるようなことがあれば、未来永劫ローマ帝国はワラキアの敵に回るであろうし、同じ正教会の国々でワラキアは背教者の烙印を押されることとなるだろう。
「つ、詰んだ」
がっくりと膝をついてうなだれると、何の偶然かちょうどヘレナの小さな肩に俺の額が乗った。
傍から見れば身をかがめてヘレナを抱擁する図そのものである。
とたんに気を良くしたいささか自信過剰な気のあるヘレナは、蕩けるように笑み崩れて頬を薔薇色に染め上げた。
「そ、そんなに感激されると照れてしまうではないか」
そんな二人を祝福するかのように、モルダヴィア公やアントニオ達の生温かい視線が注がれる。
ただ真実を知るイワンとハリスは、深い同情とともにそっとヴラドの肩に手を置くのだった。
その晩、モルダヴィア公の主催する盛大な晩さん会のなかで、主賓として各国の使節の歓迎を受けると、ようやく俺の中で事態が整理出来始めた。
好悪の情は別として、実際のところ今回判明した帝国の政治姿勢はワラキアにとっても歓迎すべきものだ。
おそらくこの縁談でヤーノシュがワラキアをキリスト教世界の敵と断ずるのは難しくなるだろうし、オスマンもワラキアを東欧の取るに足らぬ田舎小国として扱うわけにはいかなくなるはずであった。
しかし逆にこの縁談がオスマンの疑惑の呼び水にならないとも限らないとも言える。
何といっても表面上は、ワラキア公国はオスマンに臣従している属国であるからだ。
いらぬ疑惑を抱かれぬうちに、こちらから使者を立てて弁明をしておく必要があるだろう。
幸いハンガリーに勝利した今、オスマンにとってワラキアは利用価値のある使い勝手の良い下僕である。
ずいぶんと長い間思考に没頭していたらしく、気がつくといつの間にやらヘレナの青い瞳がすぐそばでいたずらっぽい光を放っていた。
「――――ようやく帰ってまいったようじゃな。我が背の君は」
部屋着に着替えたヘレナは、仕立てのよい純白の寝巻を身に纏っている。
叔父が余計な配慮をしたのか、常にヘレナの背後に控えていたサレスの姿もなく、寝室には俺とヘレナが二人っきりで取り残されていた。
「これは失礼した。考え事が多いものでね」
「その責任の一端はこちらにある。詫びには及ばぬよ」
時間はそろそろ深夜に差し掛かろうとしており、ヘレナのような年齢であればとっくに眠りについていて不思議ではないのだが、ヘレナの言葉の様子にそんな気配は感じられなかった。
むしろ先ほどの子供っぽさが演技ではなかったか、と思えるような理性の鋭さすら感じられる。
「――――何を考えていたか当てて見せようか?」
挑戦的な視線を向けるヘレナの表情に、不覚にもドキリと心臓が音を立てた。
それほどに冷徹な冷たさと妖しい官能的な色気を同居させた何とも言えぬ表情であった。
「――――ワラキアの国際的立場上このまますんなりと結婚するわけにはいかぬ。しかしローマに突き返すのも論外。ならば婚約と言う形でハンガリーとの戦を餌にスルタンの承諾を取り付けようというところではないかな?」
天使のような外見とは裏腹に、この少女の内に潜む巨大な影の正体にようやく俺は気づいた。
この美しい幼女(ヘレナ)は、どうやらローマ千年の血が産みだした怪物なのだということを。
「驚いたな。小さくともローマの姫は伊達ではない、か」
「小さいは余計じゃ!」
冷徹な政治家然とした不敵な笑みを、今度は年頃の娘らしい憤然としたものに変えてヘレナが声を荒げる。
そのころころと変わるアンバランスな表情が可愛らしくもあり、恐ろしくもあった。果たしてこの娘の本性はいったいどちらなのだろうか?
しばらく拗ねたように頬を膨らませていたヘレナだが、何か気持ちの変化があったのだろうか、ふにゃりと顔を蕩けさせてポスリと小さな頭を俺の胸にもたれさせた。
「―――――子供扱いされるのは納得がゆかぬが、やはり我が夫は妾の見込んだとおりの御仁であった」
「見込まれていたのかい? 私は」
「うむ、世界広しといえど今の妾を見てあるがままに受け止めてくれるのは我が夫以外にあるまい」
女性の地位の低い時代である。
厳密にいえば家庭内における女性の地位は決して低くはなかったが、こと政治、外交、公職における地位は最低に近いものがあった。
ゆえにヘレナの卓越した政治感覚はローマ帝国にとって全くの邪魔者でしか認識されなかったのである。
女性に必要なものは容姿と気品となにより血筋を残してくれる能力であると信じられていた。
父ソマスが娘を溺愛していながらも、政治に関心を向ける娘に対しては頑固なまでに保守的な人間であったことをヘレナは昨日のように覚えていた。
「―――妾は自由でありたいのだ。我が夫。流されるままに女という道具に堕ちて人生を生きたいとは思わない。愛する男くらい自分で決めたいし、妾に力があるのならそれを発揮する立場を得ることにためらうつもりはない。うぬぼれてよいのなら私は宰相殿よりも世界を広く見ているつもりだ。我が夫は――――そんな女は嫌いか?」
すがるようなマリンブルーの眼差し。
おそらく父母の理解すら得られず、自らの力を持て余しこのまま帝国の娘としての運命に殉じなければならないのか、と己の無力に日々胸を痛めてきたことだろう。
だが、現代人の記憶をもった俺にとってヘレナの主張はごく当たり前のものだ。
能力があればそこに男女の格差はない。
多少の語弊を覚悟するならば、それこそが現代社会の建前であるはずだった。
「出来る嫁さんはむしろ大歓迎さ」
正直今のワラキアには、こうした政治的ブレーンが喉から手が出るほど欲しいことでもあるし。
まあ、これが会社の上司だったりしたらさすがに煙たく思ったかもしれないが。
「そうか、そうか! 我が夫ならそう言ってくれると信じていたぞ!」
感極まったのか、身体ごとぶつかるように抱きついてきたヘレナの瞳から一筋の涙が流れて落ちた。
まるで女としての生まれた本能に突き動かされるように、ヘレナの赤く小さな唇が近づいてくる。
そして何の抵抗もできぬままに、俺はヘレナに唇を奪われていた。
―――――ファーストキスだったのにいいい!
「――――ところで我が君、残念なことに――――ああ、本当に残念なことに妾はまだ子を宿せる身体ではない。ないのだが、我が君が望むならばその、か、身体を任せることもやぶさかではないぞ?」
「ぐはああああああっ!」
何言っちゃってんのこの幼女? 絵面的に犯罪でしかないでしょ!
「いやいや、まずいから! 倫理的にも政治的にも宗教的にもまずすぎるから! 主に俺の人としての名誉的な意味で!」
いくらなんでも12歳の、しかも見た目それ以下にしか見えないコンパクトなボディに欲情するとか、そこまで俺の現代人としての尊厳は壊れていない。
――――確か前田利家の妻のお松は11歳で妊娠してたと思ったが――いやいや、余計なことを考えるな、俺! それは孔明の罠だ!
「まあ、確かに総大主教のおじじが騒ぎそうだの。……それに妾も痛いのは苦手ゆえ今少し時間をもらえれば助かる」
「そ、そうだネ。そんなことを考えるには早すぎるよネ」
―――――良かったああ! それぐらいの分別はあってくれて!
聖母マリアが処女受胎したこともあってか、キリスト教世界において処女というのは絶対的な信仰の対象である。
基本的にキリスト教徒は離婚を禁じられているが、性交渉がない――――すなわち妻が処女であった場合には特別に離婚が許される。この性交渉のない結婚を白い結婚と言う。
1498年、ブルゴーニュ公の娘と結婚するためにルイ12世が王妃ジャンヌを訴えた離婚訴訟は大国フランスの王家のものということもあり、長く後世に語り継がれることとなった。
仮にもローマ皇帝の血筋に連なる姫を、結婚前に傷ものにしたなどということがバレたら下手をすればカトリックと正教の双方を敵に回しかねなかった。
「本当に残念だ。この身がもう少し男を受け入れるほどに成熟しておったならこんな機会は逃さぬのだが――――」
前言撤回、何の分別もありませんでした!
さも当然の権利のように、ヘレナは俺の袖を握って胸のあたりに頭を置いて身体を丸める。
幼さを残した高めの体温と、女性として発達途上のミルク臭さを感じてようやく俺は苦笑して冷静さを取り戻した。
言葉遣いや見識は大人のそれであっても、やはりヘレナはまだ子供なのだ。
「大丈夫、姫が望む世界に俺が必ず連れて行ってあげる。だから今日はもうお休み」
史実であれば決して叶うはずのないヘレナの願い。
それすら現実にできずしてワラキアが大国の狭間を生き残れるはずもない。
この数年、自分の理想と同志の夢のためだけに全霊を傾けてきたが、今はこの幼い少女の希望を手助けしてやりたいと思える自分がいる。
そんな気持ちをずいぶんと久しぶりに――――おそらくはラドゥと別れて以来初めて感じたような気がした。
髪をなでられて気持ちよさそうに目を細めながら、ヘレナはほっと気が抜けると同時に襲いかかってきたらしい眠気にうつらうつらと船をこぎ始める。
「うにゅ……妾は子供じゃないにょらぞ? 我が君だから特別頭を撫でさせてあげるのじゃ…………」
眠そうにろれつの回らなくなり始めたヘレナは、子猫のようにその小さな頭を擦りよせた。
「――――それからこれよりは姫ではなくヘレナと呼べ、我が夫。形はどうあれ妾はすでに我が夫の妻のつもりじゃし、今後我が君以外の男を夫と呼ぶつもりもないにょらから」
これが普通の少女であれば可愛らしい愛の告白に聞こえたかもしれない。
しかしヘレナの言葉はそれ以上に深く、重い誓いのようなものであることを俺は正しく悟った。
今後ワラキアの国際政治状況が悪化して亡国の運命をたどったとしても俺と命運をともにする――ヘレナはそう言っているのだった。
何がそこまで少女に決意させたのかはわからないが、俺は男としてその信頼にこたえるだけの真摯さくらいは持ち合わせているつもりだった。
今この瞬間から、ヘレナは俺の中で将来の妻という名目のローマの姫ではなく、ラドゥと同じ俺の家族の一員となった。
―――――十分だ。ともに修羅の道を歩む伴侶としては。
「そうだな。ゆっくりお休みヘレナ、我が妻よ」
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