第35話 勘違いで涙目
「………それで我が国の力が借りたいと」
海の男らしい潮焼けした赤ら顔の男はいかにも難色そうな風を装っているが答えは最初から決まっているようなものだった。
男はワラキアとの間に何としてもパイプを作らなければならなかったが、ワラキアは何も男との交渉を優先しなければならない理由はない。
今やワラキアとの販路を切望している国は、よりどりみどりといった様相を呈しているのだ。
「この話にはフィレンツェも興味を示しておったのですが、私は海軍力における貴国の実績を評価させていただいたのですよ」
おそらくはヴェネツィアにこれ以上借りをつくりたくないこちらの足元を見ようと思ったのだろうが………残念だったな。需要と供給のバランスが崩れてしまえば世の中こんなものだ。
「…………そこまで我々を買っていただいておるのなら否やはありませんな」
男の名をアントニオ・ゼルガベリという………黒海の覇者ジェノバ共和国の要人のひとりだった。
当初ワラキア貿易はヴェネツィアのモチェニーゴ家が独占していたが、需要の高まりにつれて様々な商人が先を争って取引を申し込んできていた。
それでも取引の中心は依然としてヴェネツィア商人であり、各国の商人はなんとかワラキア貿易に割り込もうと必死の営業活動を展開しているところだったのである。
そんななかでも、とりわけ必死であったのがジェノバ共和国であった。
ヴェネツィア共和国のライバルにして黒海の制海権を支配する彼らにとって、黒海沿岸の港でヴェネツィアが巨富を貪るなど、縄張り荒らし以外の何物でもなかったからである。
それだけではない。ジェノバという海洋国家にとっ決して無視しえない情報が彼らを畏怖させている。
すなわち、ヴェネツィアに供給された羅針盤と望遠鏡の存在である。
ヴェネツィアの厳重な秘匿行動によっていまだ詳細はしれていないが、わずかに漏れる情報の概要だけでも、それが船乗りにとってどれだけ貴重なものか彼らは身を以って知っていた。
ジェノバ共和国にとってワラキアとの関係改善は国策ですらあったのである。
「お互いによい取引が出来て幸いです」
ジェノバ共和国はコンスタンティノポリスに影響力が強いうえ、立地的にトレビゾント王国やキプチャクカン国へのパイプが強力だ。
ワラキアの安全保障上のパートナーとして不足はない。
今回俺がジェノバに要請したのは新設する海軍の教導である。
海軍は陸軍以上に養成に時間がかかるものであり、航海技術や建造技術はとても一朝一夕で身につけられるようなものではない。
後年オスマンとの海戦で大量の熟練海兵を失ったヴェネツィアが、急速に国力を減じたことでもそれは明らかだろう。
ゼロから海軍を築き上げることは俺にもできない。
歴史と経験のある海軍の指導が、ワラキアのひよっこには絶対に必要なのだった。
スイスと並んで精強を謳われるジェノバ傭兵の相場は非常に高価だが、キリアをモルダヴィアから租借できる見込みがたった以上その代金には不足はない。
そしてこれまで内陸に偏っていた加工産業を海産物にも広げるのだ。
とりあえずは鰯のオイルサーディンや鯨肉の瓶詰めあたりか。加熱殺菌は今のところワラキアだけの秘匿技術だから類似品が出回る心配は少ない。
「――――そういえば今日あたりローマ帝国の使者がお着きになるのではありませんかな?」
思いだしたように問いかけられて俺は頷いた。
コンスタンティノポリスにも商売の拠点を置いているだけに、アントニオの情報は正確であった。
「おそらく夕刻前には参りましょう。よければアントニオ殿もご一緒されてはいかがか?」
「おおっ! かかる場に臨席を賜るとは恐悦至極。こちらこそぜひともお願いしたい」
このときアントニオの大仰な喜びように不審を感じてしかるべきだった。
俺が彼の喜んだ理由を知るのは、イワンを乗せた船が到着する夕暮れ時になるのである。
だがこのときはまだ、俺の人生を変える運命の変転など気づきもせぬままに、俺はローマとワラキアの外交戦略について思いをめぐらしていたのだった。
「おおっ! あれか? あの御仁がヴラド公なのか?」
「落ち着いてください、姫。その長い筒を見ていない人間にはわかりかねます」
イワンから借り受けた望遠鏡を片手に、港で待つヴラドとモルダヴィアの重鎮をのぞき見ながらヘレナはご満悦であった。
侍女のサレスはヘレナが身を乗り出しすぎて、いつ舷側から落ちるかと気が気ではないのだが、そんな心配をよそにヘレナはついに出会うことができた運命の王子を前に高鳴る鼓動を抑えることができずにいた。
「うむ、意志の強そうな目をしておる。だが卑しくもなく気品があって優しそうじゃ。うむ、やはりあの男こそヴラド公に違いない!」
「わかりましたからいい加減マストから降りてください!」
あろうことかヘレナは、メインマストにある展望台に登って望遠鏡を眺めていた。
この様子を目の当たりにしていたイワンは暗澹たる思いとともに、主君の未来に幸有らんことを祈らずにはいられなかった。
(―――――殿下、こんなことになったのは私のせいじゃありませんからね?)
いや、ただの現実逃避であったかもしれない。
鮮やかな操船で、船はモルダヴィアのキリア港へと滑りこんだ。
イワンとともに、おそらくはローマ帝国の使者であろう身なりの整った男が下船を始める。
これを出迎えようとした俺は、一緒に下船しようとしているメンバーのなかに美しい少女が1人混じっているのに気づいた。
少女というよりいまだ幼女と言うべき姿だが、背中まで伸びた豪奢な金髪とマリンブルーの宝石のような瞳が彼女の育ちのよさをあらわしているようだった。
現代のような航海の安全が保障されていない時代、にこんな小さな娘を乗り込ませるとは、まったく親がいたら一言苦言を呈したいものだ。
そんなことを考えているうちに、ローマの使者らしい男をとことこと追い越してきた少女は他の人間には目もくれず俺のもとへと一目散に駆け寄ってきた。
「相まみえるのを一日千秋の思いで待っていたぞ、わが夫(つま)!」
はて、なにをほざきやがるのでしょうか? この幼女。
「君みたいな小さな娘がそんなことを軽々しく言ってはいけない。親御さんはどこにいるのかな?まったく、こんな小さい娘を放っておくなんて非常識な親だ」
もしかすると親に政略結婚の話でも吹き込まれているのかもしれない。
実のところ俺になんとか娘を押し付けよう、とする連中がいることに気づいていないわけではなかった。
そうだとするならば、こんな幼女を差し出してくるのは無礼極まりないことではあるまいか。
そんなことを考えていると、イワンが顔面を蒼白にして必死に謝るようなゼスチャーを繰り返している。
もともと酔狂な男だったがしばらく会わないうちに芸風が変わったか?
「おいイワン、さっきから何をして――――」
「むむっ! 失礼な、妾は子どもではないぞ!」
無表情だが十分以上に美しい侍女が冷静に幼女の言葉に突っ込む。
「いえ、姫は紛うことなき子供ですが」
「サレスは黙っておれ!」
可愛らしいお人形のような顔をして子供でないと言われても説得力がない。
その微笑ましい光景に我知らず笑顔でいられたのも、ローマの使者らしき男が口を開くまでだった。
「お初に御意を得ます、ワラキア公。私はローマ皇帝より使者の任を賜りましたハリス・ノタラスと申す者」
「ほう……それでは貴公は宰相殿の……」
「はい、甥にあたります。そしてこちらにおわします御方は……」
そのとき、ハリスの顔が実に気の毒そうに歪むのに気づいたときには遅かった。
ほとんど無意識のうちに俺の手は幼女の頭に置かれ、その絹のような手触りの小さな頭を撫でまわしていた。
「――――ローマ帝国王女、ヘレナ・パレオロゴス殿下でございます」
「……なんですと?」
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