第21話 反転

小学5年生の春に恭吾は学校の階段から落ちた。

あのまま死ねていれば楽だったのかもしれないと気づいたのは、軽い捻挫の治療を保健室で済まそうと扉を開けた時だった。

保険医が運悪く駐在していた。年は30代前半、産休に入ったやたらと豪快で明るい前任の代わりに臨時で雇われている地味な女性だ。慣れない環境のせいか、元々の性格なのか声が酷く小さい。仕方なく椅子に座って患部を見せる。

代理の保険医は少しだけ紫色に変色した左足の甲を目視で確認し、湿布を貼って安静にしていれば大丈夫だろうと言った。湿布を取る為に立ち上がろうとする彼女に、私は自分でやると申し出た。特に気にする様子もなく、薬棚にある冷湿布を使いなさいと言った。仕事に熱意もなく、子供に興味もないのだろう。或いは彼女も私と同じ病を抱えているのかもしれない。

言われた通り薬棚の前でしばし考える。

ちらりと確認すると保険医はこちらに全く関心を持っておらず、書類仕事に集中していた。

私は薄手のカーディガンの裾を少し伸ばして棚を開けると湿布薬の箱を素手で触らないように注意しながら一枚中身を取り出した。ベッドの柵に腰掛けるようにして湿布を貼る。痛みは見た目ほど酷くない。ポケットに押し込んだ靴下を取り出して再び履き直し上靴を履くと、もういつも通りに歩けそうだった。

私は小学生の一時期に異常なほどの潔癖症にさいなまされた。他人に触れること、触れられることを異様に不快に感じ、誰であろうと他人が触った物に直接触れる事ができなくなった。

その日階段から落ちたのも、前を歩く3人組の女子生徒が急に立ち止まったのを避けようとした為だった。どうやら私に話しかけるタイミングを伺って、人気の無い階段で3人で示し合わせ、思い切って声をかける為振り向いたという事らしい。彼女たちの誤算は、思ったより私達の距離が詰まっていた事だ。こちらにしても思いがけない行動だった為、一瞬判断が遅れてしまった。

私は常日頃から他者が私との間に『自ら程よい距離感を保つ』ように心がけていた。

誰も私に許可なく触れたり話しかけたりして来ない。そんな状況を丁寧に作り上げていた。

思わぬ彼女達の接近に気分が悪くなり、必要以上にのけ反ってしまった。女子の悲鳴が廊下まで響いた。まさか私が自分たちを気持ちが悪いと感じているだなんて思ってもいないのだろう。甘えるような舌足らずな声で「驚かせちゃって、ごめんなさい」と3人揃ってしきりに顔を青ざめさせている。真っ青な肌にピンクに色付いた唇がアンバランスだった。

小学生のくせにうっすらメイクをしているような早熟な子供たち。大人になれば嫌でもしなくてはならないというのに、子供時代という輝かしい時間を段飛ばしに過ごすのは愚かな事だと思う。私には最初からそんな物は無かったので尚更そう感じた。人はなぜ生き急ぐのだろう?

幸か不幸か落ちたと言っても二、三段踏み外した程度で、咄嗟に手すりを掴んだので大事には至らなかった。むしろ手すりに触れた右手の方が心配なくらいだ。とりあえず被害を確認すべく身体を観察すると庇いきれ無かった左足が僅かに痛んだ。

こんな事で死ねるわけがないと思うだろうか?

人の体は案外脆い。数センチの水で溺死する事も出来るし、打ちどころが悪ければ転んで命を落とす事もある。夜眠って翌朝目覚める事がない事もある。死は常に人の傍にある。

人間の生はヤドカリのようだ。少しずつ箱の大きさを変えながら生きていく。

幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会。

様々な要因により、早ければ中学生あたりから箱の種類は多様に変化するようだ。

「大丈夫、たいした事ないから僕のことは気にしないで」他者と話す時、私は一人称を当たり障りのない『僕』に変えていた。

少し困ったような笑顔を浮かべて宥めると、女の子達は一瞬石のように固まり、次の瞬間きゃあきゃあと騒ぎながら走り去って行った。

「我妻君と喋っちゃった!」「私、目が合った!」と甲高い声がこだまのように響く。

私はどう振る舞えば自分の思うように人が動くのか理解していた。一度見れば何もかも記憶出来たし、母親の腹の中の記憶すらある。

生まれてからちょうど11年経った。

随分人らしくなったと思う。この病も実に人間くさい感情だ。周囲が思うほど、自分が思うほど、私は完璧ではない。何故なら退化し続けているからだ。

生まれて間もないころは、自分は人間ではないのではないかと思っていた。

徐々に人として順応し、世界に馴染み始めてからは自分がよくわからなくなった。

記憶が瞬間的に胎児に戻ったかと思えば現在に戻り、また幼児の自分に戻ったかと思えば青年の自分として過ごす。何度となく過去と未来と現在が入り混じり、次第に時の感覚が曖昧になる。『今』がどこなのか、時々わからなくなる。今の自分は、本当に『今』なのか?これは過去の記憶の再生なのか。

どちらにしても、この世界の出来事は全てが些末で取るに足らない。

時折、「帰りたい」と口に出しては「どこへ?」と自嘲した。

私にとって世界はただの大きな箱でしかない。

両親にも級友にも誰にも情が湧かない。

何も私の心に響かない。

そもそも心とは何だろうか。思考だろうか。

ただ唯一の例外が、弟の遥祐だった。

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mog @pink_rabbit1189

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