第19話


ものの数十分での、完膚なき失恋。傷が浅くて助かると言いたいところだが、その傷はもう癒えることがないだろうと感じた。

遥祐は毎秒ごとに彼女に夢中になっていった。

声も視線も動かす指先も流れるような黒髪も何もかもが強い吸引力を持って遥祐を惹きつけた。そしてその後何年も、この日ほんの数時間話した女性に焦がれ続けることになるのだから

確かに手遅れに違いなかった。

女神のように輝く京子さんの隣、自分の中で刻一刻と神聖さを失いつつある兄を見る。

人間離れした兄の美しさは一片も損なわれてはいない。むしろ見れば見るほどに美しく魅惑的なのだ。しかしもう以前の兄にあった超越的な何かが消えている。自分でも不思議な言葉だが『人間になった』ように感じる。

それまでの兄は超人じみていて、憧れると同時に畏怖の念を抱かせる空恐ろしさがあった。

今目の前に座っているのは、どこにでもいるただの好青年だ。父という新しい称号が兄の神秘性を奪ったのかもしれない。

京子さんは「2ヶ月なの」と幸せそうに目を伏せてワンピースの布越しでもわかるほど、ほっそりとしたウェストに、そっと手を置いた。

(この底には本当に果てがないんだな…)

艶やかな長い髪が動きに合わせてサラサラと流れ落ちる。出産の際には切ってしまうのだろうか。お産の際にはショートヘアにする女性が多いイメージがある。

小学生時代に長い髪を自慢げにかきあげていた若い女性教諭が産休明けにバッサリと髪を切っていたのを思い出す。可愛らしい容姿だった女教師は子供達に大人気で休み時間には必ず数人に囲まれていた。髪は女の命とはよく言われるが、幼心になるほどと思った記憶がふと蘇る。

あまり似合っていないショートヘアに産後太りでふっくらした先生は、まるで別人に見えたからだ。子供とは正直なもので、美しさを失い、自分達より大切な存在を得た彼女を慕い取り囲む子供の姿を、その後見る事はなかった。

遠い過去の記憶を浮かべながら京子さんを見る。彼女はきっと髪を切っても綺麗だろうな。

今こそが一番美しい姿だと思うのに、髪を切って少しふっくらした彼女の美しさを前にすれば、きっとまた胸を締め付けられ、甘いため息を漏らすだろう……もう沢山だ。

僕の素晴らしい兄は死に、美しい妻と可愛い子供─可愛くないわけがない。二人の遺伝子の奇跡が今から恐ろしいくらいだ─を養う素晴らしい父に生まれ変わった。

兄の人生には僕ら家族は不要で、京子さんは僕のものにはならない。

何もかも一瞬で失ってしまったような喪失感で目の前が真っ暗になる。これから手にするはずだった輝かしい未来も今まで積み上げてきた努力も約束された幸せも何もかも失ってしまった。大袈裟だと分かっている。それでも溢れ出す感情が身体中を覆い尽くす。

「本当に、おめでとう兄貴。京子さん…お義姉さんかな?兄貴をよろしくお願いします」

完璧な作り笑顔を貼りつけペコリと頭を下げる。今まで何人もの女の子を落としてきた完璧な笑顔だ。今はただ、ここから逃げるためだけに笑う。人生で初めての屈辱だった。

だがそれ以上の苦痛が待っていた。

たった一つの願いすら叶わなかった。

二人が同時に憐れむような表情を浮かべたのだ。

「遥祐、ごめんね。何も言わなくて」さっき見た夢の中の心配そうな幼い兄の表情が重なる。

なぜ心配されるのだろう?こんなに完璧な笑顔で笑っているのに。

「このまま誰にも言わず、駆け落ちするつもりだったんだ。だけど遥祐だけには伝えたくて」

「駆け落ち?」

言葉を選択する回路がショートしてしまったのか、兄の言葉をオウム返しすることしかできない。

『駆け落ち』という言葉は知っているし、意味も知っている。ただ、リアルな人生の中で聞く日が来るとは思いもしなかった。

「まぁ…色々とね。またいずれ話すよ」と兄が苦悩の滲む瞳をわずかに震わせた。

そんな兄の表情も初めて見た。初めてづくしでマジで頭がおかしくなりそうだ。

『だったら何も言わずに行って欲しかった』

思わず出そうになった言葉を押し込めるため冷めたコーヒーを一気に流し込む。

冷めても旨味が消えないコーヒーの後味にすっと頭が冷えた。

ここのコーヒーは本当に美味いんだよな。

最近出来たこの店は、既にしっかり固定客を掴みつつも、少し駅から離れている場所にあるせいか知る人ぞ知るといった風格を獲得していた。

俺が知る中でもピカイチなんだよね。

だから兄貴が帰ってきたら一番に連れてこようと思っていた。

もうここに二人で来ることはないのかな。

そう考えると純粋に寂しかった。

そうだ。この気持ちのまま彼等と別れよう。

二人にとって知る由もない感情など封じ込めてしまえば良い。

永遠の別れをしっかりと覚悟したところで、

「落ち着いたら連絡するから。こっそり遊びにおいで」

「えっ」びっくりするほど間抜けな声が出てしまった。

京子さんに似た、悪戯っぽい笑みを浮かべて兄が連絡先を書いた紙を差し出す。どうやら次の住まいは今より更に北になるようだ。

「私が連絡の仲介をするね。連絡先、交換してくれる?」

携帯電話を持たない兄に変わり、京子さんが連絡役を買って出てくれた。

「固定電話も引くつもりだけど。不在のことも多いから」と、兄の携帯嫌いを嫌がる風でもなく、当たり前の手続きといった風に連絡先を交換した。

遥祐はこの瞬間、完全に浮かれていた。

兄が家族の中で、自分だけを特別扱いしてくれる優越感と、儚く散った初恋への感傷と、2人と確実に繋がれた高揚感。

兄は何時だって人に『特別な何か』を期待させるのが抜群に上手いのだ。

だから気づけなかった。彼らが直面している危機や身の内に秘める苦悩を。

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