第18話

3人はしばし思い思いの時間を過ごしていた。

兄は懐かしむように窓の外を眺めている。

京子は遥祐がコーヒーを飲む様子を、まるで初めて見る何かの様に興味深く観察していた。

遥祐はその視線に気がつかないふりをするのがそろそろ限界だと感じ始めていた。

そんな時だった。

「遥祐君って、私と同じ匂いがする」

悪戯好きの猫のような目をすると、グイッと顔を近づけて、囁くように言った。

テーブルに身を乗り出した拍子に艶やかな黒髪がサラサラと肩から流れ落ちた。

不意を突かれ、遥祐の口から思わず本音が溢れる。

「なんか急に雰囲気、変わりました…?」

「猫、かぶってたの」クスクスと笑いながら三日月型の黒目がちな瞳が更に細くなる。

今の方が猫っぽいですけど…と言う言葉はなんとか飲み込んだ。まだ彼女との距離感が上手く掴めない。コミュ力は人並み以上に備えているはずの遥祐も、彼女の前では人見知りの中学生のようになってしまう。出会ってまだほんの数分、しかも『兄の彼女』という存在自体が初体験なのだから、仕方ないと言えばそうなのだが、それは彼女が自分にとって特別な存在になりつつあるからだろうと言う事も、遥祐は不承不承自覚し始めていた。

「遥祐くんは恭吾の唯二の存在だから、印象良くしたかったの。でも慣れないことするの、良くないね。疲れちゃった」そう言って赤い舌をチラリと出す。

(これ、実際にやる人いるんだな…。)

兄はとっくに慣れているのだろう。特に気にする風でもなく、静かに微笑んだまま「遥祐はそんなを事しなくても、君のことを好きになると思うよ」と言って、静かにコーヒーを飲んだ。

遥祐は「好きになる」という言葉にドキンと心臓を跳ねさせた。…過剰反応だ。他意のない兄の言葉は聞き流す事にして「唯二って、何ですか?」と、目の前で不敵に笑う京子に問いかけた。

まず、唯一が正しい表現だ。それ以前に自分が兄の唯一の存在であるはずがないのだが…。

遥祐はそんな言葉もまた飲み込んで、彼女の造語であろう、その意味だけを聞く事にした。

「そのままの意味よ。唯一無二って言葉があるじゃない?恭吾の場合は唯一の人は2人いるの。だから唯二。」

「僕と京子…さん…ですか?」呼び方に一瞬戸惑ったが、とりあえず無難にさん付けで呼ぶ事にした。

「違うわ」「えっ…」

兄を恭吾とごく自然に呼ぶ。そんな他人は彼女が初めてだ。それなのに即答で否定され、遥祐は思わず言葉に詰まった。

彼女の言動は、すべてが予想外過ぎる。

「恭吾が何故、片田舎の大学に通っているか、理由は聞いているのかしら?」

また予想外。

「えっ、いいえ、聞いてないです…」

我慢できずチラリと兄を見ると、今まで見た事ないようなニコニコ顔で、黙ってこちらの話を聞いている。『僕はまだ話さないよ』と言外の声が聞こえた気がした。

「恭吾はね、秋吉あきよし教授に師事する為に辺境の街に来たのよ。ま、私にとっては愛すべき地元なんだけどね」本心で言ってるのだろう。語感に嫌味がなかった。

秋吉教授。今日2人目の新しい登場人物だ。

有名な人…ではないと思う。聞いた事も無い名前だ。

それより何より、兄が師事する人物が存在した事そのものが驚愕としか言いようがなかった。そんな人間がこの世にいたのか……。

遥祐は兄より全てにおいて優秀な人間を知らなかったし、何より恭吾自身がそれを1番自覚していることを知っていた。だからといって、それを鼻にかけたり、他者に優位性を見せつけたりする事もなく、かと言って、へりくだる事もなく、いつだって相手に敬意を払っている様に見えた。そう、に行動していたのだ。最も、圧倒的な存在を前にして、人は最早、卑屈になることすら諦めてしまう。ただひれ伏すのみ。

それでも兄は注意深く、慎重に─しかしそんな風に緊張感を持っていると悟られる事もなく─他人と接していた。

遥祐は兄を1番近くで、誰よりも熱狂的に、しかし、家族特有の余裕を持って、兄を観察し続けていられた─例えるなら、恋人の昨日と今日の、手足の爪の長さの違いに気を配るような─そのくらいの細やかな何かだった。そんなものは、きっと遥祐のような熱量と立場が揃わない限り見つけられない。それほどに、兄はごく自然に立ち振る舞っていた。

それは恭吾にしても、遥祐にしても、狂気としか言いようのない行動だった。

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