第17話

兄は進学先を誰に相談する事もなく、早々に県外に決めていたらしい。誰にも悟られる事なく着々と家を出る準備を進め、中学卒業と同時に一人暮らしを始めた。

両親も遥祐も卒業式から帰宅した恭吾の口から聞くまで、全く知らない話だった。

寝耳に水とはこういう事かと、思わず膝を打ちたくなったほどだ。

段取りは、ほぼ完璧に整えられていた。

兄が静かにテーブルに並べる合格通知、その他諸々の契約書類等を、残る家族3人が呆然と見守る。異様な空気に圧倒されながらも、遥祐は両親より一歩早く、意識を取り戻した。

そしてまず思った事は、どうやって準備したのかということだった。いくら兄とは言え、たった15才。いつから準備していたのだろう?未成年の子供がどうやって?誰にも知られないなんてことが出来るのだろうか?いくら考えたところで、遥祐にはさっぱりわからなかったし、事実として目の前で起こっている。

更に恐ろしい事に、兄は金銭的にもしっかり整えていたらしく、殆ど両親の力を借りなかった。そしてそれは、今も変わっていない。

兄は両親からの援助を一切受けずに一人暮らしをしているのだ。両親の手間と言えば、数種類の書類に署名・捺印する程度だった。

終始惚けた表情で兄の指示するまま、機械の如く手を動かす両親の姿が未だに忘れられない。

兄ならゆくゆくは東大や海外の有名大学も優に射程内のはずだった。しかし、選んだのは人里離れた片田舎にある、大学附属の名も無い私立高校だった。実家から新幹線で片道3時間のその場所は、近いようで遠かった。

高校生の間は、やむを得ずと言った様子で長期休暇中、数日帰省していた兄だったが、大学生になってからは、何かと理由をつけて帰省を拒んでいた。

そのまま院へ進み、ゆくゆくは助教授になるか、企業に就職するのか、兄に至っては心配する要素もなければ、帰ってくる気配も全く無かった。早々に独り立ちしてしまった兄に取り残された遥祐達3人の間には、何となく気まずい空気が流れるようになった。

金銭的には1人分丸々浮いた形になった訳で、遥祐の未来の選択肢は広がったはずだった。

しかし、現状に反して遥祐には進む道がとても狭くなった様に感じていた。それは単に遥祐が変に気を回したというだけでは無い、何とも言い難い空気が我妻家には確かにあった。

そうして遥祐は必要外の外出すら後ろめたく感じるようになり、アルバイトすらまともに出来なくなった。小遣いは多少貰っていたが、普通の大学生より自由が効かない懐事情に加え、例の外聞が邪魔をして兄に会いに行くのも難しかった。

結果、ここ数年、兄の顔を見ていなかった。

久しぶりに兄に会える。その嬉しさに付随する嫌な予感。兄はなぜ今帰ってきたのだろうか?

まずそもそも、なぜ外で会おうと言ってくるのか?家で話せばいいのでは?という疑問がどうしても気になってしまう。不安を拭えないまま急いで支度を済ませ、家を出た。


1時間後、時間ぴったりに待ち合わせの喫茶店に到着する。入って早々に、若い女性店員に「一名様ですか?」と声をかけられた。「待ち合わせなんですが…」と返しながら店内を伺うと、元々明るい笑顔が、一瞬一際パッと明るい表情になり、「かしこまりました」と言って、片手を窓際に向けて誘導してくれた。

彼女に言われる前に、遥祐は既に兄の存在に気づいていた。しかし、慌てたそぶりを見せないように、店員の後をゆっくりとついて行った。内心では動揺でひっくり返りそうになりながら。

兄は一人では無かった。兄の隣に見知らぬ女性が控えめな様子で座っている。兄はホットコーヒー、女性はオレンジジュースを頼んだようだ。「兄貴、久しぶり」と声をかけて、2人の向かいの席に座る。出来るだけ普通な声を出したつもりだが、少し自信がない。

兄は相変わらず、いや、益々美しくなったように見えた。成長する毎に妖艶な魅力が増しているような気がする。そして隣に座る女性はその兄に見劣りするどころか、圧倒するほどに、美しかった。

「はじめまして、京子です」

遥祐の目線を受けて、女は薄い唇の両端を優雅に持ち上げ、切れ長の目を三日月型にして微笑んだ。

美しい声って鈴の音に例えるんだっけ?とぼんやり考える。今まで何かに例えて人を、特に女性を、褒めようと思った経験がないのでパッと思いつかない。それなりに経験はしてきたが、心が震えるような出会いなどなかったのだと思い知った。

今感じている事を端的に述べるなら、不安の的中、兄への落胆と女性への苛立ち、その苛立ちを凌駕する彼女の圧倒的美しさへの驚嘆といったところだ。

兄に並んで遜色ない人間がいるとは思いもよらなかった。

唯一無二に平然と肩を並べる彼女は、もはや奇跡としか言いようがなく、これ以上ない「お似合いの二人」だった。

もうこれ以上驚く事はないだろうと思った。

しかし遥祐は人生の底の底を知る事になる。

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