第15話
夢を見る。遠い遠い過去の記憶。
幼い兄が椅子を足場にダイニングテーブルの上のグラスに牛乳を注いでいる。
小さな手に余る大きな牛乳瓶。母は味が違うと言って少し高価な瓶入りの牛乳を常備していた。「持って帰るのが重くて大変」と毎度補充の際に愚痴る母は、父が手伝ってくれないことを暗にぼやいていたのかもしれない。
子供心に「それなら紙パックにすればいいのに」と思ったものだ。
とにかく大人でも重いガラス瓶だ。幼い子供は触れるべきではない。要領のいい兄は失敗するような行動を決して取らない。
なぜ兄は、今にも滑り落としかねないリスクを犯してまで、牛乳を注いでいるのだろう?
母に頼めないのだろうか?母はどこだろう?
体を動かそうと意識した途端、全身が燃えるような熱を持っていることに気づいた。
はぁはぁ、と浅く早い呼吸が耳に響く。
視点が急に回転し、兄の姿が90度傾いて見えたと同時に、視界がぐにゃりと歪む。恐らく熱のせいで涙が出ているのだろう。
頬にふかふかと毛足の長い絨毯の感触がして、自分が横倒しに倒れているのだと、やっと認識できた。
この絨毯は子供の頃のお気に入りの一つだったが、母は掃除がしづらいとよく文句を言っていた。今は毛足が短くて手触りがあまり良くない分、丸洗い出来るのが売りの、安物の絨毯に買い替えられている。傷めばすぐに買い替えられるところも母のお気に入りポイントだ。
懐かしい感触に手を伸ばそうにも、どうやら体の主導権は今の自分にはないようだ。
あくまで追体験の中、思考だけに自由が許されているらしい。
─ああ、瞼を開けているのさえ辛い……。
幼い頃、遥祐はすぐに高熱を出しては母の手を煩わせていたらしいとは、母本人からよく聞かされていた。熱で寝込んでいる時点で朦朧としていたせいか、丈夫に成長したせいか。
遥祐にはその手の記憶も実感も殆ど無かった。
また母の愚痴が始まったと、うんざりしながら半信半疑で聞き流していた。
熱の苦しさを感じながら古い記憶も蘇る。
確かによくこうして、どうしようもない倦怠感に襲われては、ただ過ぎ去るのを待っていたような気がする。
幼児特有の高熱に全身が焼けた石のように感じられる。声を出そうにもヒューヒューと、か弱い呼吸が漏れるばかり。
『たすけて、おにいちゃん…』そう幼い日の自分が声にならない声を出そうとしている。
朦朧としながらも、唯一動かせるらしい瞳だけを必死に動かし、兄の姿を追う。
状況としては両親不在の中、兄弟二人でいるところに自分が高熱を出してしまったのだろうか?
リビングキッチンは明かりさえついておらず兄は一人きりだし、聞こえるのは自分の呼吸音と外から聞こえる環境音のみだ。
リビングには、熱がなければ心地よいであろう日差しが入り込み、明るく照らしている。
午前なのか午後なのか、平日なのか休日なのか、全く判断がつかないが、空調の様子と兄の服装を見るに、季節は春と夏の間くらいか。
どちらにせよ、幼少期の子供だけの留守番は記憶の限りほぼ無かったはずだ。
例の事件の日は、異例の1日だった。
─カタン。
なんとか牛乳を注ぎ終えた兄が、慎重に瓶を机に置く。
普段ならそつなく行動する兄が、足場にしていた椅子も、すぐに片付けないといけないであろう牛乳瓶も放置して、両手で包んだコップを持って真っ直ぐこちらに向かってくる。
「ようちゃん、だいじょうぶ?」
小鳥のような可愛い声に、透き通るような眼差し。兄は本当にいつ何時も作り物のように美しい。そんな兄の愛らしい顔は、見る者の胸が潰れてしまいそうな程、悲しげだ。
兄が目の前でそっと膝をついてコップを差し出す。
「飲めるかな?」
僕のために、入れてくれたの?
声はもはや音にさえならず、遥祐は口をパクパクと小さく動かす事しかできなかった。
それでもまるで聴こえているかのように、兄はふっと微笑んで一旦コップを脇に置くと、僕の体を優しく抱き起こす。目線だけで確認すると、コップは倒れないように毛足に埋めるように置かれている。やはり兄は、ちゃんと抜かりがない。
兄が自身のズボンのポケットを探って取り出した物を、そっと遥祐の額と首の裏の2箇所に貼り付けてくれた。ひんやりして気持ちが良い。
どうやら冷却ジェルのシートのようだ。遥祐はホッとすると同時に、呼吸が少し楽になった気がした。
シートを貼り終えると、弟の変化を見逃さないように、じっと見つめながら傍に置いたコップを遥祐の口元に運んだ。
「あんまり、冷たいのは良くないかもしれないけど、ゆっくり、少しでいいから飲んでね、ようちゃん」
心配が色濃く滲む瞳に、気だるげな顔が写っている。それは20歳の自分の顔だった。
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