第14話

兄は全ての生き物に対して常に一定のラインを保っていた。そこには勿論、自分を含めた家族も入っている。

優しく理知的な姿勢を保ちつつ、必要以上に他者の心に踏み込まず、また、自身の中にも何人なんびとも踏み込ませなかった。

どこで学んだのか、幼い頃から人との距離感が抜群に上手く、もう少し仲良くなりたいと願わせ、もしかすると彼の特別な存在になれるのではと甘い期待を抱かせる絶妙な間合いを取る。しかし、決定的な行動を取らせないような柔らかい壁を持っていた。

その壁は決して不快ではなく、むしろ兄のミステリアスな魅力を増幅するフィルターのような役割を持っていた。そしてその壁の存在を認知していたのは遥祐だけだった。


一見恭吾は弟を溺愛しているように見えた。

しかし、遥祐には恭吾の見えないが幼い頃から見えていた。

『お前が分をわきまえ可愛い弟である限り、お前を愛する優しい兄でいよう』そんな風に恭吾が自分を見ているような瞬間を幾度となく感じては、ちくりと胸が痛んだ。

遥祐が思うような、純粋でひたむきな愛情を兄は持ってはいない。それでも兄の愛情を一身に受ける弟の立場を遥祐は喜んで享受した。

事実、その時折感じる痛みを無視さえすれば、自他共に兄に溺愛される弟として幸せに暮らせたのだから。

仮面夫婦という言葉がある。仮面兄弟という言葉はあるのだろうか?とふと考えた事がある。

兄はある一つの仮面を持っている。

勿論自分だって多少なりとも仮面を持っているし、誰でもそうだろうと思う。

外向きの顔。気を張って強く見せる自分。

特別な相手に見せる顔。弱い自分を曝け出し甘えられる場所。

だが、兄の場合はたった一つ、その仮面以外の顔がないのだ。まるで裏表が無いような、一貫した完璧な仮面。その下にあるはずのリアルな兄の素顔が全く感じられない。遥祐は考えれば考えるほど恐ろしいと思ってしまう。

だが、それは恐ろしさの本質ではない。

本当に恐ろしいのは、兄の見せる顔が素顔ではないという事にという事だ。あまりに上手く取り繕え過ぎていて誰も気がつけない。その上、兄の果てない魅力に目が曇って兄の内面を捉えようとする気力すら奪われるのだ─家族の自分ですら、ふとした瞬間に圧倒されてしまう。こんな人間が本当に存在しているのかと─つまりそれは、兄が自分自身を解放し安らげる場所がないのと等しいのではないのか?自分にはそんな事が可能だろうか?誰にも弱味も本音も見せず、自分を偽り続ける。友人にも家族にも愛する人にさえ─。

そもそも兄は特定の親しい『誰か』を作ることをしない。唯一の『特別』が自分であることを除けば。しかし、それもまた何らかの考えに基づいた、ただの行動に過ぎず、感情は伴っていない。

兄の美しい笑顔が浮かぶ。途端、ぶるりと体が震えた。自分には兄の底知れぬ闇のほんの一端でも掬う事が出来る日は来るのだろうか?

あるいはそれを成し遂げる誰か別の存在が現れるのか。兄の仮面の下、壁の向こうを空恐ろしく、そして悲しいと思う。兄の平穏な日々を心から祈っている。

それなのに、後者が現れた時、自分はその存在を到底受け入れられない気がした。

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