第13話

遥祐が初めて兄に対して負の感情を抱いたのは成人式を終えた年の6月。蒸し暑い雨の日だった。

玄関のドアを開けた瞬間のむっとする独特な雨の香りと霧のような細雨が半袖から露出している腕にまとわりついた。不快さに思わず舌打ちする。遥祐の猫毛と湿度は相性が悪い。

頭の中で素早く今日受ける講義を思い浮かべて単位を計算する。全く問題ないと判断すると大学に行く気が完全に失せてしまった。

普段ならこのくらいの事で休むことはなかったが、身を包む不快な湿度以上の何かが遥祐から外出する意欲を奪っていく。

遥祐は自分の直感力を信頼していた。何度も自分の危機察知能力には助けられている。

「今日は行かない方がいい」という直感、それに抗う理由も特に見当たらない。

開けた扉を再び閉め、丁寧に二重鍵とドアロックをかける。カチンカチンという音がリラックススイッチをオンにする。急に体が淡い気だるさに包まれた。少し寝ようかなと考えつつ、この後の計画を軽く組み立てる。小一時間ほど仮眠してから来週提出予定の小論文を進めれば退屈な授業を受けるより余程有意義に過ごせるだろう。

たまには外で美味しいコーヒーを飲みながらの作業も悪くないかな。あの店今日は開いてたっけ…不定休のお気に入りのカフェのSNSを確認していると、メッセージアプリの通知がポンと音を立てた。素早くタップすると「今日の昼飯どうする?」という呑気な文面に、落書きのような友人自作のスタンプが添えられている。猫にも犬にも見える生き物が大きな口を開けて欠伸をしているシュールなイラストだ。

「朝の8時から昼飯って…相変わらずな奴だなぁ」クスッと笑ってひとりごちる。

送り主である鈴木秋夜すずきしゅうやとは大学入学前のオープンキャンパスで知り合った。その時から掴みどころの無い男だった。話したきっかけもたまたま学食体験で隣り合わせになり、突然「そのおかず美味い?」と聞かれたのがきっかけだった。地元の高校では散々もてはやされていた遥祐にはそれが何かの口実かと思った。自分に近づく為の。

しかし、秋夜は本当に遥祐の注文したタルタルチキン南蛮しか見ていなかった。

思わず「一口あげようか?」と言いながら吹き出していた。

「え?いいの?」顔を上げた秋夜の眼差しは、チキン南蛮への期待だけが込められていた。

「悩んだんだけど2つはさすがに無理だし。落ちたらもう食えないからさ〜」

サラッと受験生にあるまじき事を言うので相席していた周囲の受験生達が少し固まるのを感じたが、秋夜はまるで気にしていない様子で「この大学チキン南蛮とカツカレーが美味いって有名なんだよね」と言ってカレー付きのカツを有無を言わさず一切れ遥祐の皿に載せた。

遥祐には全く関心を持っていない秋夜の態度が妙に心地良かったのを今でも覚えている。

相変わらずの友人に『ごめん、今日代返頼める?』とリビングの扉を開けながら手早く返信する。

『珍しいね、風邪?』『雨だから行く気失せた』『確かに今日の雨だるいよな〜了解。』

このマイペースな友人は、いつも話が早くて助かる。メッセージに添えられた落書きの生物は欠伸と同じ顔で両腕で丸サインを作っていた。

感謝しつつやりとりを終えたスマホの電源を切って、ソファにポイと投げる。

今日は何となくもう誰とも繋がりたくない。

一足遅れで自分の体もソファーに沈める。

傍に転がる真っ黒なスマホ画面。束の間の自由。ふっと心が軽くなる。

先ほどより雨脚が強くなったのか窓を叩く雨の音が強くなった。パタパタと窓を叩く音に耳を澄ます。安全な場所から見る雨は好きだ。

心地よい雨音と体をやんわりと包む浮遊感に身を委ねる。睡魔に身を任せそのままゆるゆると意識を手放した。

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