第12話
幼い頃はただの「お兄ちゃん大好きっ子」と言ったところだった。元々兄の事は大好きだっし、我ながらよく懐いていたと思う。
だがあの事件以降、恐らく1番最初に兄を偶像化し崇拝したのは紛れもなく自分だったと確信している。兄は自分の中で絶対的な存在であり完全なる正義だった。
「私に抱っこされたらギャン泣きするくせに、お兄ちゃんに抱っこされたら途端にご機嫌になる赤ん坊だったのよ」
これは母がことあるごとに披露するお決まりのブラコンネタの一つだったが、笑いながら語る母の声音には、いつも非難の色が滲んでいた。
人の言葉の裏もある程度読み取れる今となっては「実の母親より兄をとる親不孝な子」というところだろう。兄も実の兄なのだからよくわからない理論だが、母も母で悩んでいたのかもしれない。
子供の頃は母が言う言葉の棘だけを何となく感じていたものの、母の真意は読み取れず、ただその棘の痛さだけを感じていた。
母は全く手がかからないどころか、理解を超える非凡な兄を持て余した結果、親である事そのものに自信を無くし、遠回しに子供に当たる様な毒を内に秘めていった。
そんな病みつつある妻の笑い話口調の愚痴を、「まぁ、まぁ。」と笑顔の父が片手間になだめるのは最早日常だった。一見柔和に見える父の姿勢は、裏を返せば母の育児ストレスをフォローする事もなく、他人事のように受け流す冷たい対応だった。夕食の卓で母の目も見ずに、「まぁ、まぁ。兄弟仲が良くて良いじゃ無いか。」風呂上がりにスポーツニュースを見ながら上の空で、「まぁ、まぁ。それくらい大した事じゃないだろう」などと笑いながら返す。
母は父が笑って聞き流す度、一緒に笑いながらもよく見ると微かに口元が震えていた。
恐らくストレスで唇が痙攣していたのだろう。
とにかく子供心にいつも何か不安を感じさせる拠り所ない両親だった。
それ故に、幼い遥祐は美しく賢く強く優しい兄にどっぷりと心酔していった。
そして遥祐は気づいてしまう。
誰よりも近くで兄を見ていたからこそ、誰よりも兄を理解したいと願っていたからこそ。
兄の優しさが仮面であることを。
遥祐が恭吾に2年遅れで小学校に入学した時には恭吾は神童と呼ばれる存在になり、学校中を魅了し尽くしていた。優秀で愛らしい子供達が他にいなかったわけでは無い。
ただ、恭吾があまりに輝き過ぎていて他が目に入らないのだ。
そうして恭吾は美しさと聡明さを磨き上げるように成長し、人々の羨望は熱狂的に膨れ続けた。
恭吾が15歳、遥祐が13歳になる頃には生きる伝説か都市伝説かという手の付けられない現象にまで発展していった。
恭吾の髪を煎じて飲めば願いが叶うなどといった狂気じみた噂すら本気で信じられていたのだから当時の状況は恐ろしいを通り越していたと思う。
そんな圧倒的な兄を持つ遥祐もまた特別視の対象になり、兄と少しでも縁を持ちたい有象無象にもてはやされた。恭吾には劣るものの整った容姿と兄譲りの器用さ、その上遥祐は恭吾にはない、どこか儚げな雰囲気を持ち合わせていた─それは幼少期から続く両親の不和と不安定な環境、そして兄の本質に触れた事による副産物だったのだが─結果、さすが恭吾の弟ともてはやされ、遥祐自身に熱狂する者も少なくなかった。
人間離れし過ぎた兄よりは、まだ手の届く身近なアイドルとして丁度良いお手頃感だったのかもしれない。
本来なら出来過ぎた兄を持つ苦労となるそれら様々な事柄は兄を敬愛する遥祐にとっては全てが勲章のように感じられた。
需要と供給はしっかりと合致し、遥祐は兄への賛辞として全てを喜んで受け入れ、求められるままに偶像を演じた。周囲も遥祐の与える甘い飴を熱狂の中で楽しんでいた。
自分を含めた全員が完全に狂っていたのだと今ならわかる。
だがしかし、台風の目の中の凪のように渦中においてそれらは感じられないものなのだ。
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