第11話

二つ年上の兄、我妻恭吾は物心つく頃から劣等感を抱かせる気を失わせるほど完璧な少年だった。

周囲と知能の優劣がつき始める頃よりずっと前、遥祐がまだ生まれてすぐの頃、両親は兄が他の子とは違う何かを秘めている事に気づいた。それは前向きな気づきではなく、両親にある種の恐怖を感じさせる不安な兆候だったらしく、病院に連れて行ったり知能テストを受けさせたりと色々調べた結果、兄は所謂天才児だった。

加えてルックスはまるで天使が実体化したらこんな風なのでは無いかと思わせる美しさだった。「お兄ちゃんが小さい頃は、何度誘拐されかけたかわからない。怖くてひと時も目が離せなかったのよ。遥祐も可愛いからね、気をつけないといけないわよ」と中学に上がる前まで呪文のように繰り返し注意された。

遥祐はそれを大袈裟だとか過保護だと笑うことなく、「わかってるよ。ちゃんと気をつける」と母を安心させるように毎回きっちりと返事をしていた。

それは遥祐が目の当たりにその恐怖を体感したからに他ならない。

幼い頃、母から買い物に行くから二人で留守番するようにと言いつけられた事がある。

それはとても珍しい事で、「絶対に外に出てはダメよ」と言われたにも関わらず、幼い好奇心が勝ってしまい、庭で遊ぶくらいならと、兄を無理矢理連れ出して遊んでいた時─と言っても実際には遥祐が一人で庭の簡易砂場で遊んでいて、恭吾はその側で本を読んでいたのだが─知らない大人の男に兄がいきなり連れ攫われたことがあった。本当に一瞬のことだった。

本がバサリと落ちる音で遥祐は異変に気がついた。振り向くと知らない男に口を塞がれ、抱えるようにして持ち上げられている兄の姿があった。恐怖で頭が真っ白になった遥祐は、ありったけの声で叫んだ。男は少し狼狽えた様子を見せたものの、兄を抱えたまま走り去っていった。いくら外とは言え、自宅の庭先に誰かが侵入してくるなど思いもよらなかった。とても恐ろしい事が起きた、そしてそれは自分のせいだと遥祐は涙と嗚咽で吐きそうになりながら悟った。恐怖でパニックに陥った遥祐は泣くことしか出来ず、1 人その場で泣き続けた。

しかし、子供の泣き声や叫び声は遥祐達の住むファミリー向け住宅街では日常茶飯事で、特に珍しいことでも無い。泣いてるだけでは誰にもこの緊急事態に気づいて貰えない。だが無知で無力な幼児にそんな考えが浮かぶはずも無い。精一杯泣く事でしか訴える術が無かった。

ところが、変わるはずも無い現状が5分もしないうちに急転した。

恭吾が平然とした様子で戻ってきたのである。

遥祐は兄の姿を見るなり更に泣き喚いた。

そんな遥祐に恭吾は優しく語りかけた。

「ようちゃん、僕は大丈夫だよ。ほら、怪我もしてないし、ね?あのおじさんにはお話して帰ってもらったから、もう大丈夫だよ」

兄はくるりと一回転して遥祐に無傷だとアピールすると、落ちて風にページを捲られていた本を拾って、再び元の位置に座って読み始めた。

あまりにも何事もなかったかのような兄の様子に遥祐も少しづつ落ち着きを取り戻し、さざ波のようにパニックが消えていくのを感じた。

もう砂場で遊ぶ気にはなれず「お家に入りたい」と兄の手を引くと「今日のことはお母さんには話しちゃダメだよ。ようちゃん、怒られちゃうからね?」と兄は透き通った目をまっすぐに向けて遥祐に囁いた。その瞬間、先程の恐怖が蘇ると同時に、目の前の兄に底知れぬ何かを感じ、遥祐はふるふると震えながら、ただ頷く事しかできなかった。

─怖い。凄く怖いけど、お兄ちゃんは凄いんだ。この世界で1番凄いのかもしれない─そう幼い遥祐の心に恭吾への強い尊敬の念が刻まれた瞬間だった。

母に呪文のように注意される度に、母もまた似たような感情を兄に感じていたのでは無いかと思っている。


恭吾は人という種を超越したような、何かが生まれついて身についている。

そうとしか言い表せない、まさに語彙力の限界を超えた存在だった。

年頃になると美しさも一層磨かれ所作もより洗練されていった。当然のごとく女性の誘い(時には同性も)が絶えなかったが、兄はそういった人付き合いに全く興味が無いようだった。嫌味にならないよう、逆上させたり恨まれたりしないように、上手に全てをやんわりと断っていた。ある時、兄のふとした仕草に小さな違和感を感じたことがある─あれはいつのことだっただろうか─とにかく老若男女を意図せず惹きつけながら一切の好意を柔らかく退け続けた結果、兄の周囲には全くと言っていいほど特定の親しい他者の影は見当たらなかった。

それでもなお、一方的かつ熱烈な信者の如き行列は後を絶たず、兄を偶像化し崇拝する有象無象の群れは暗黙の了解の中で、何人も兄に触れるべからずの不可侵条約を締結していった。

そんな常軌を逸した光景を思春期を迎えるずっと以前からごく当たり前に目の当たりにし、兄に対する感情は自分でも気付かないうちにゆっくりと歪みながら肥大化していった。

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